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護民官が主催する人民裁判

2021-10-29 18:48:18 | 世界史

 

==《リヴィウスのローマ史第巻》=

Titus Livius   History of Rome

    Benjamin Oliver Foster

 

【11章】

護民官は平民たちに向かって、勇気を持って行動するよう呼びかけた。しかし中央広場の反対側の端にいた執政官は護民官から見える場所に席を移し、徴兵を開始した。すると護民官と民会の参加者は執政官に押し掛けた。彼らの一部は冒険のつもりだった。すぐに大騒ぎになった。執政官の命令により、市民が逮捕されると、護民官は彼を釈放するように命令した。護民官全員が法律上の権利に制限されなかった。彼らは自分たちの力を信じ、力によって目的を達成しようとした。徴兵を妨害する護民官のやり方を見て、貴族たちは平民のための法律の制定を阻止しようとした。毎日民会が開かれ、平民のための法律が制定されようとしていた。護民官が人々に法案を採決するよう求めた時、問題が発生した。貴族たちは民会から退場することを拒否した。民会の進め方は理性的でなく、無謀で、感情に流されるので、一般的に老齢の貴族は民会に参加しなかった。執政官も民会に出席しなかった。混乱の中で執政官の威厳が損なわれるのを避けるためだった。カエソはクィンクティウス家に属し、貴族的な血統に加えて強靭でがっしりした肉体の持ち主であり、怖いもの知らずで大胆な若者だった。このような生来の資質だけでなく、彼は優れた軍事的才能と演説の才能を持っていた。その結果言葉と行動において彼に匹敵するローマ人はいなかった。カエソは貴族たちの中で目立つ場所に立ち、力強い声で話し始めた。これまでの独裁官と護民官の能力を一身に体現するかのような話しかただった。カエソは護民官の貴族批判と人民の猛烈な怒りに抵抗できる人物だった。彼の指導力により護民官は広場から追い出され、平民は勢いを失い、慌てて逃げた。カエソ・クィンクティウスの前に立ちはだかる者は裸にされ、殴られて、退散した。こうして平民のための法律は押しつぶされたように見えた。護民官は一人を除き全員絶望したが、アウルス・ヴェルギニウスだけはあきらめなかった。彼はカエソを告発し、死罪を要求した。カエソはおびえるどころか、彼の激しい性格が燃えあがった。彼は提案されている法律\を批判し、護民官たちに怒りをぶつけてから、護民官との戦争を宣言した。カエソを告発したアウルス・ヴェルギニウスは挑戦に受けて立った。

「お前の負けだ。貴族に対する人民の憎しみは頂点に達している。護民官に戦争を宣言したことで、死刑の理由が増えた」。

ヴェルギニウスの目的は法律を成立させることより、カエソを挑発することになった。一方カエソはますますだい胆になった。若い貴族たちはカエソを支持した。若い貴族の激しい演説と行動は護民官が危険な存在であるというカエソの信念を強めた。平民のための法律への反対は強まったが、アウルス・ヴェルギニウスはひるまなかった。彼は平民に向かって演説を繰り返した。

「カエソは法律の成立を妨害している。カエソの市民権をはく奪しなければならない。彼は自由の敵だ、タルクイヌス(ローマの最後の国王)以上の暴君だ。彼は大胆で横暴だ。現在彼は一人の市民にすぎないのに、まるで国王であるかのように振舞っている。彼が執政官や独裁官になったらどうなるだろう。考えるだけでも恐ろしい」。

貴族に殴られ、不満を持っていた多くの市民がヴェルギニウスの言葉に同意した。彼らは問題に決着をつけるよう、ヴェルギニウスに求めた。

 

 

【12章】

裁判の日が近づいた。市民の自由を守るためにカエソを有罪にしなければならない、という考えが広く受け入れられていることが明らかになった。カエソは個々の市民に近づくことを制限された。このことに、カエソは非常に怒った。彼の友人たちも同様の制限を受けた。国家のそうそうたる人物がこぞってカエソを弁護した。彼らはカエソの友人だった。執政官に三回就任したティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌスは自分自身と家族の功績について語ってから、次のように語った。

「能力と勇気において彼に匹敵する人物はクィンクティウス家にも、ローマに存在しない。彼は私が率いた軍隊で最高の兵士だった。私は彼が戦うのをしばしば直接見ている」。

 続いてSp......・フリウスが発言した。「私の軍隊が苦境にあった時、カエソはクィンクティウス・カピトリヌスの命令で、我々の救援に来た。彼ほど戦況を逆転させるのに貢献した兵士はいない」。

L......・ルクレティウスは前年の執政官であり、彼の輝かしい勝利は記憶に新しかったが、彼はカエソを自分に勝るとも劣らない人物と述べてから、彼の戦場における英雄的な行為を数え上げ、人々に訴えた。

「特別な資質を持つ若者を追放してはならない。自然と幸運はカエソに様々な能力を与えた。彼は国家に偉大な力を与えるだろう。彼を他国に渡してはならない。彼の犯罪の原因は、短気で向こう見ずな性格であるが、これについて言えば、これらの欠点は徐々に減っているし、彼に欠けている慎重さが日々増している。欠点が減少し、長所が成熟しているのだから、彼を今後もローマ市民として認めるべきである」。

カエソの父 L .....・クィンクティウス・キンキナトゥスも息子を弁護した。父は息子に対する人々の感情が悪化するのを恐れて、息子の長所について繰り返さず、息子の過ちを若さゆえとして許してほしいと願った。「私はこれまで言葉や暴力で誰かを傷つけたことはありません。父である私のために、息子を許して下さい」。

父親の話を市民がどう受け止めたかといえば、仲間の評判を恐れて、被告の父親の懇願を無視しようとする者がいたが、多くはカエソから受けた暴力について不満や怒りを表したので、判決が予測できた。

 

【13章】

市民の間では、全体的に怒りの感情が支配的だったが、特にある人物がカエソを厳しく批判し、カエソは窮地に追い込まれた。数年前護民官を務めたM......・ヴォルスキス・フィクトルが名乗りを上げ、証言した。

「疫病がローマを襲った後で、私はスブッラ地区(ローマ北部の二つの丘、クィリナルの丘とヴィミナルの丘のふもとに広がる地区)で、散歩している数人の若者と出会った。喧嘩になり、カエソは私の兄弟を殴り倒した。私の兄弟は疫病から回復したばかりで、弱っていたので、危篤状態になった。私は彼を家に連れて帰ったが、彼は死んだ。彼の死はカエソの暴力が原因だと思う。その後の数年間私はカエソを裁きにかけようとしたが、執政官は訴訟を許さなかった」。

ヴォルスキウスが大きい声で話していると、民衆が興奮したので、カエソは怒った民衆によって殺されそうになった。護民官ヴェルギニウスはカエソを逮捕するよう命令し、彼は牢獄に連れていかれた。民衆の暴力に対し、貴族たちは暴力で答えた。T......・クィンクティウスは叫んだ。「極刑を要求されている者の裁判の日が決まり、その日が近づくと、被告の自由が奪われるのはよくない。審問と判決の間被告の安全が保障されるべきだ」。

これに護民官ヴェルギニウスが答えた。

「刑が確定していない人間を、私は罰するつもりがない。裁判の日まで被告人を牢獄に留めおくだけだ。市民の命を奪った者を罰するのは、国民の権利である」。

貴族たちが他の護民官たちに訴えると、護民官たちは妥協しながら自分たちの権力を守る決定をした。

「被告のカエソを牢獄に収監してはならない。カエソは裁判に出廷しなければならない。欠席した場合、彼は罰金を科される」。

問題は罰金の額であった。この問題は元老院に持ち込まれ、審議の間カエソは民会に拘束された。元老院は保釈金の最低額を3000アス(アスは青銅の硬貨)とした。

(日本語訳注;ローマは最初ギリシャの貨幣を使っていたが、その後青銅の小さな塊を貨幣の代替として使うようになった。これはアエス・ルデ(荒い青銅)と呼ばれた。紀元前280年頃に、成形された硬貨アスが使われ始めた。カエソの保釈金の額が決められた時代はアエス・ルデが使われていたはずであるが、リヴィウスはアエス・ルデとアスを区別していないようである)。

カエソの罰金の額については、護民官が決定することになった。護民官は保釈金を最低額の10倍と決めてから、カエソを釈放した。カエソは保釈金と引き換えに釈放された最初の市民である。

カエソは自由になり、広場を去った。彼は翌日エトルリアに亡命した。裁判の日になり、被告人の不在について、弁護人が語った。

「カエソは外国に亡命し、ローマに住んでいないので、仕方がない」。

それにもかかわらず護民官ヴェルギニウスは裁判を始めようとしたが、同僚の護民官たちが民会を解散した。保釈金はカエソの父に請求された。父は全財産を売り払って保釈金を払い、テベレ川の対岸に小屋を建てて住んだ。父は息子と同様の惨めな境遇になった。

 

【14章】

この裁判と法律制定についての論争に国家は忙殺された。幸い外国との戦争はなかった。カエソの追放後、貴族は臆病になった。勝利した護民官は自分たちの法律が実現したかのように満足した。元老院の長老たちは国家の仕事を放棄したが、若い元老たち、特にカエソの友人たちは平民たちに強い反感を持ち、攻撃的になった。彼らは組織的に平民を襲撃し、市民全体を威圧した。カエソの逃亡後、最初に法案が提出されると、彼らは護民官に法案の取り下げを命令した。同時に彼らは家来を大勢集めて護民官を襲撃した。家来たちは軍隊のように組織されており、いかなる個人も対抗できなかった。平民は嘆いた。「カエソがいなくなったら、同類の者が数千人現われた。

ついに護民官は暴力に屈し、法案提出をあきらめた。すると若い貴族たちは敵対的な態度を改め、友好的になった。彼らは愛想よく平民に近づき、彼らに話しかけ、家に招いた。護民官が広場で法案以外の諸問題を取り上げると、若い貴族たちは抗議しなかった。平民のための法律を持ち出さないかぎり、彼らは公共の場においても、個人に対しても、攻撃的な態度を取らなかった。一つの条件が満たされる限り、彼らはいかなる場合も平民に対して友好的であり、護民官はその他の仕事を静かに遂行した。また翌年の護民官の選挙では、貴族から非難の声が上がらず、暴力を加えられることもなく、前年の護民官が再び選ばれた。貴族が平民に穏やかに接すると、平民は従順になった。こうして貴族は一年間法案の提出を避けることができた。

 

【15章】

例年になく静かな政治状況において、新しい執政官が国家の業務を始めた。この年の執政官はアッピウス・クラウディウスの息子であるC .....・クラウディウスとP......・ヴァレリウス・プブリコラだった。年が変わっても、新しいことがなかった。政治的関心の中心は相変わらず護民官提出の法案だった。若い元老たちが、平民の機嫌を取ると、護民官はますます攻撃的になった。彼らは陰謀について語り、平民が貴族を疑うように仕向けた。

「カエソがローマに帰ってきた。護民官を暗殺する計画がある。それだけではない。彼らは平民をまとめて虐殺するつもりだ。年上の元老たちは若い元老に護民官を廃止する仕事を任せ、政治を聖山占拠(身分闘争の始まりとなった事件)以前の状態に戻そうとしていている」。

ヴォルスキ族とアエクイ族との戦争はほぼ毎年の行事になっていたが、ローマで不幸な事件が起きた。サビーニ族の政治的亡命者と大勢の奴隷、合わせて約2500人が、アッピウス・ヘルドニウスに指導されて夜にカピトールの丘と要塞を占拠した。この反乱に参加しなかったローマ人は即座に殺され、他の市民はあわてて丘を駆け下り、広場に殺到した。様々な叫び声が聞こえた。「武器を取れ!」。「敵が市内に侵入した!」。

執政官は平民を武装さるべきか否か迷った。執政官はローマを襲った騒動がどのようなものか把握できなかった。ローマ市民の反乱か、それとも外国人の侵入か、平民の怒りが原因か、または奴隷の反乱か、わからなかった。執政官はともかく騒ぎを鎮めようとした。しかし、かえって騒ぎが大きくなった。市民は恐怖のために平常心を失っていて、制御できなかった。敵の正体は不明だったが、あらゆる緊急事態に対し、都市の安全を確保する必要があったので、市民全員ではなく、信頼できる市民にだけ武器を配った。それから執政官は夜の残りの間ローマの適切な場所に護衛兵を配置したが、暴動の性質と人数がわからなかったので、不安は消えなかった。夜が明けると、やっと敵の正体と指導者が誰であるか、わかった。サビーニ人のアッピウス・ヘルドニウスがカピトールの丘から奴隷たちに自由を獲得しようと呼びかけた。「私は惨めな境遇の人たちのために戦う決心をした。ローマ市民の同意を得て、私は不正に追放され、亡命した人々を復権させ、奴隷となった人々を重い軛(くびき)から解き放ちたい。仮に市民の同意が得られない場合でも、私はあらゆる危険を冒して目的を実現する。ヴォルスキやアエクイに働きかけるつもりだ」。

 

16章

元老院と執政官は反乱の実態をはっきりと理解した。しかし暴徒が表明した目的とは別に、ヴェイイまたはサビーニ族の計画があるかもしれない、と彼らは心配した。大勢の暴徒が市内に集結している時に、エトルリアとサビーニ族の軍隊が襲来するかもしれない。また年来の敵であるヴォルスキ族とアエクイ族は郊外を荒らすのが常であるが、現在市内の一部が占領されているのをよいことに、市内への侵入を企てるかもしれない。危険は単一ではなく複雑だったので、ローマの指導者たちは、頭を悩ました。彼らが特に恐れたのは奴隷の反乱だった。ローマ市民の各家庭にいる奴隷を信用するのは危険であるが、反乱するつもりがない奴隷を疑うなら、奴隷は敵になってしまうかもしれない。このように厄介で手に負えない危険を克服するためには、階級和解と国民の団結が必要だった。こうした執政官の心配と裏腹に、護民官と平民は現在の状況にあまり不安を感じなかった。彼らは既に多くの悩みを抱えており、新しい危険は気分転換になった。外国の軍隊による侵略の恐怖は彼らの悩みを忘れさせた。そして彼らは国家の没落を加速させるのに貢献した。護民官は狂気に支配され、次のように述べた。

「カピトールの丘を暴徒が占拠したという話は妄想であり、人々の関心を法律制定からそらすための作り話だ。法律が制定され、大げさな妨害工作が失敗したら、丘を占拠している貴族の友人や家来はあっという間に消え去るだろう」。

護民官は民会を招集し、人々の武装を解除してから、法律の制定に取り掛かった。執政官にとって丘に集結した敵よりも、護民官のこのような行動が脅威だった。執政官は元老院を招集した。

 


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