ロシア・サンクトペテルブルクにある古文書展示会を通じてロシア歴史記録保管所(RGIA)が所蔵する111件の文書が公表され、安重根(アン・ジュングン)の義挙に対する韓国と日本の異なった反応や、ロシアと日本との関係など、当時の国際情勢の移り変わりをうかがい知ることができる。
ソウルに駐在していたソモフ・ロシア総領事は、義挙から9日後の1909年11月6日、サンクトペテルブルクのロシア外務省に送った秘密電文で「韓国人は安重根による伊藤博文殺害のニュースを聞いて満足感を示しているが、その感情をあからさまに表現することはなかった」と報告した。また別の文書には「伊藤博文殺害事件は韓国の愛国者を大きく奮い立たせている」と記録されている。義挙から2日後の10月28日には、満州地域に住む匿名の韓国人たちがロシアの検察官らに「ウラ、ウラ、ウラ(万歳を意味するロシア語)」という電報を送っていた。
一方、この時期に東京のロシア公使館に勤務していたロシア財務省の職員は、当時のココフツォフ財務相宛てに送った電文で「日本人の間では伊藤博文という偉大な政治家を失ったことに対する復讐(ふくしゅう)心が高まっている。日本のマスコミは、3日間にわたり韓国人の殺害を許可するよう(政府に)求めている」と報告した。
ロシアの外交官らは、安重根による伊藤博文殺害が、ロシアと日本の関係にとってマイナスに作用する可能性があると指摘した。北京に駐在していたコロストベツ公使はイズボルスキー外相に送った電文で「日本はロシアを非難してはいないが、露日関係は冷え込むだろう。ロシアは伊藤博文の葬儀に弔問団を派遣すべきだ」と訴えていた。
ロシア側の文書では安重根を「殺人者」「犯罪者」と表記する一方で、伊藤博文に対しては「侯爵」あるいは「犠牲者」と記載。さらに安重根による狙撃行為についても「殺害」と表現していた。これらの文書を翻訳、研究した漢陽大学アジア太平洋地域研究センターのチェ・ジョンヒョン研究員(博士)は「ロシアは安重根義士による義挙の4年前に日本との戦争で敗北した上、伊藤博文は親ロシア政策を展開していた。ロシアの外交官らはこれらの点に配慮したのだろう」と分析した。