探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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炎天下の遠州浜松を往く

2023-08-02 00:12:44 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

先々週の3連休を利用して、遠州浜松を訪れた。巡墓会開催に当たり、見ておきたい墓があったからだ。

目的の寺院は、地図で調べると駅から近いため、実家に帰りついでに前田匡一郎著『駿遠に移住した徳川家臣団』から、浜松市内の幕臣墓をピックアップした。

いくつかの候補と箱館戦争に参加した新選組中島登・土方歳三の終焉に立ち会った大島寅雄関連も時間が許す限り、回ろうという計画だ。

ただ1つ気がかりなのは、会津藩士北原雅長(神保修理実弟)の墓が家康夫人築山の墓と同じ寺院であることだ(西来院=写真)。さすがに大河ドラマで取り上げられたばかり。さぞ人出が多かろうというものだ。



ともあれ、案ずるより産むが易しでいつもなら東京ー静岡間の新幹線代を下ろして実家に帰るのだが、浜松行を見越して静岡ー浜松間の新幹線代も余計に下ろしてきた。

幸い、家の用事も土曜に済ませ、日曜午前身体が空いたことから、浜松掃苔に出た。

目指すは心造寺(浄土宗、先照山。中区紺屋町300-19)。何十年ぶりの浜松散策で大都会の雰囲気を味わいながら、炎天下に晒される中、母が持たせてくれた日傘を差しながら歩いた。

心造寺は、新選組中島登の鉄砲火薬店跡の筋向かいにあった。同じ町内というのは判っていたものの、こんなに目の前だとは思わなかった。(写真=中島登宅跡現状)



心造寺の墓域は、緩やかな坂を登り、本堂の左手をさらに登ったところにあった。幕臣津田誠之(学問所勤番、三重県七等属)の墓(=写真)は墓域のほぼ中央にあったが(天保2年[1831]生〜明治25年[1992]3月17日没)、目的の新村信の実父松平勘十郎政隆(大番。明治8年[1875]1月13日没。祐善院保誉勝道居士)の墓は無かった。



信は徳川慶喜の側室で、慶喜家を継いだ(徳川宗家とは別に家を立てた)慶久や勝海舟の養子になった精の生母である。新村の苗字は、慶喜の家臣新村猛雄の養女になったからだ。

松平家の墓が1軒だけあったが、雑司ヶ谷霊園にある松平忠政(信の兄弟)の墓の家紋と違うため、同じ家ではないと確認できた。

津田家の背後にいかにも立派な、墓域中央に位置するに相応しい墓碑があったが、勘十郎の戒名とは違っていた。

ここの貴重な墓といえば、山葉家のものだろう。楽器やオートバイを製造している、浜松で、否、日本でも有力なメーカーの創業者の家である。傍らに昭和17年8月8日に建てられた創業者の跡継ぎ[山葉直吉翁記念碑]がある。

さて、そこから同じく中区鴨江にある鴨江寺墓地(鴨江3-19。寺院とは離れた場所にある)を目指した。途中、坂がきつく難儀したが、時折さわかやな風が吹いて心地良かった。

鴨江寺墓地の主は大島寅雄である。インターネットで調べてみると、正面の3名の戒名の右端が大島で、右面に[大嶋慎清]と書かれており、戒名にも諱である[慎清]の2字が入っている。残念ながら、没年月日が刻まれていない。

墓地に向かって右端に近く、手前から5列目にあった(=写真)。墓に3体の観音像が供されている。



大島寅雄は幕臣、小人目付。清水平次郎の長男だが、慶応2年(1866)に絶家の大島宗右衛門家を継いでいる。戊辰4月に江戸を脱し、伝習第一大隊に属す。会津母成峠の戦いで負傷し、新選組中島登に救われ、仙台へ出て蝦夷へ投じた。

箱館政権では陸軍奉行添役を務め、土方歳三の戦死を五稜郭に伝えた。降伏後、浜松で代書人をしていて、中島登に偶然再会している。

天保13年5月15日(1842・6・23)生まれ、大正5年(1916)11月7日、75才没。

墓地向かいの家に建物を挟んでスペインとイタリアの国旗が掲揚されているのが印象的であった。

ここから浜松城方面に舞い戻って(今度は下りだから楽である)、北原雅長の墓を目指した。例の築山と同じ西来院の墓所である(曹洞宗、高松山、中区広沢2-10-1)。

下りでは街が眺望できたが、再び登り坂を経て寺院の石柱に出くわした。2台も車が出てきたため、さぞ混んでいるかと思ったが、意外や意外行ってみると本堂は無人でお参りができるようになっており、手前に寺のパンフレットらしきものがガラスケースの中の掲示板(寺院によくあるもの)に家康と築山の系譜など詳しく解説されたものが貼られていた。

本堂に向かって左手の森のようになっている墓地を入り、右側に行くと築山の墓所[月窟廟]があり、そこを通り過ぎて、右手に松下家の墓があるところまで来たら、左に曲がると2番目に北原雅長の墓があった(=写真)。墓碑の正面左真ん中やや下に[妻いと]と刻む。



会津藩家老神保家は北雅長の兄修理が藩主松平容保が鳥羽伏見の戦のさなか慶喜とともに江戸へ去ったことの責めを負って切腹、父内蔵助利孝も会津戦争で命果てた壮絶な家であった。

北原は『七年史』(日本史籍協会叢書)を著すことで京都守護職の命を受け、王城の都を護ったときから会津戦争敗戦までの七年間の会津藩の正当性を主張したかったのだろう。

ともすると、会津戦争ばかりが取り上げられるが、天誅組の変や禁門戦争を鎮圧し、都を護った会津藩の功績は大きい。

北原は禁門戦争を、また戊辰の役では若松城を守り戦った。瓦解後は工部省に、のち初代長崎市長、東京下谷区長を務める。浜松には晩年隠棲した。大島と同じ天保13年(1842)生まれ。通称半助。大正2年(1913)7月24日、72才没。

帰りに築山の墓所に詣でた(=写真)。右手の看板に詳しい解説があり、築山切腹は未だに謎と書かれていた。戒名は[清池院殿潭月秋天大禅定法尼]。天正7年8月29日(1579・9・29)、38才没。父は関口親永、母は今川義元妹。



築山の墓は戦災で焼失し、昭和53年四百年忌に復原されたもの。

左手に家康の異父弟松平源三郎康俊の墓もある(=写真)。天正14年4月3日(1586・5・21)没。裏面に[松平大蔵少輔源勝以これを造立す]と刻む。



残念ながら中島登の墓天林寺までは行けなかった。後で調べてみると幕臣の墓があったようで、下調べの不完全さが露呈してしまった。見つからなかった、足を伸ばせなかった幕臣の墓とともにまたの機会に訪れたい。

西来院から浜松駅に戻る途中の中華料理店で昼食をとった。あまりの値段の安さに驚いてしまったが、頼んだチャーハンは肉や玉ねぎがゴロンと入っていて黒っぽく、チャーハンというよりヤキメシという感じであった。

最後に西郷局が生母である徳川二代将軍秀忠の産湯の井戸を訪ねた(=写真。遠州鉄道「遠州病院」駅入口左手)。ここから西に五百メートルのところが産湯の井戸と解説があるのになぜか井戸があったから、復元なのだろう。また、浜松城内という説もあると案内板に記載されていた。



静岡県西部の幕臣墓は中々足を運べずにいるが、最初に挙げた前田著書に載っていても墓が見つからないところがあり、刊行から年月も大分経過しているため、機会を見つけて少しずつ確認していきたい。
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