会員のカトケンです。
大型連休を利用して、高知市へ来ています。
この日はいつもお世話になっている方の案内で、市内北部の久万(くま)方面をまわりました。
1つ目は3月20日に紹介しました東京都港区安養院にあった小笠原彦弥の墓に関連して。
この人の墓が高知にもあると知り、訪ねました。言わずと知れた明治3年(1870)に英国留学を目前に切腹した1人です。
加賀野井団地から舗装された山道を登っていき、さらに土道を右へ入り、山の頂上を目指してひたすら登っていくと途中に山側を向いて4基の墓碑がありました。
外側に向かって右側が小笠原弥八郎。三兄弟の父親です。
その左には彦弥の長兄唯八茂郷、土佐藩大監察。武市瑞山の釈放を唱えて挙兵した清岡道之助ら野根山二十三士を処刑した人として知られています。戊辰4月に牧野群馬と改称。(=写真)
その左には次兄謙吉茂連、兄群馬とともに慶応4年戊辰8月23日(1868.10.8)会津戦争にて陣没。年29。群馬は25日歿。年40。
そして彦弥(也)茂延はいちばん左側に位置し、右隣りの次兄謙吉に寄り添うように建っています。明治3年正月5日死(1870.2.5)。年27。(=写真)
4名の没年をみると、明治10年(1877)12月5日である父弥八郎が最も遅く亡くなっています。行年72歳。3人の息子に先立たれた父親はどのような気持ちでこれらの墓碑を建てたのでしょうか。
次に、東久万にある間崎滄浪の墓。間崎は詩人で、清河八郎の友人。粟田宮令旨事件にて山内容堂の怒りに触れ、平井収二郎、弘瀬健太とともに切腹。時に文久3年6月9日(1863.7.24)。称哲馬、諱則弘、滄浪は号。(=写真)
毎度のことですが、土佐の掃苔は山本泰三『土佐の墓』を頼りにその付録の地図を見ながら行きます。寺の境内にあるのと違って山の中に際限なく墓があるためです。
幸い、間崎の墓は山の手前と山に入ってすぐに白い木柱の案内があり、掃苔者を導いてくれました。
さて、3番目に訪れたのは中久万柴田山にある土佐藩家老 柴田織部勝栄の墓。民家の方に聞いて竹藪をかきわけかきわけ、やっとのおもいでたどり着きました。(=写真)
号は咸陽。画人としても知られていました。『土佐の墓』に載っている写真では、墓碑に屋根がついていましたが、今はとれて後ろに落ちていました。
ここは大変苦労しただけに印象に残った場所です。文政4年5月17日享年70にて卒。(1821.6.16)
最後に訪れたのは、西久万にあるやはり家老 福岡宮内孝茂の墓。
文政3年8月1日生(1820.9.7)、致仕後、謙三と称す。明治39年(1906)12月23日卒。坂本龍馬の家はこの家の御預郷士です。
この場所にある福岡家久万墓地改葬記念碑によれば、昭和62年に改葬、整備されたようで、歴代の墓がずらりと並んでいます。
ここにあるのは、4世図書孝克から17世孝一までと12世宮内孝茂次男 友次郎が分家した家の墓碑。1世丹波于孝(もとたか)から3世までは、市内南部の筆山にあるようです。
有名な福岡孝弟(大政奉還建白者の1人)と同じ孝がつきますが、違う家です。ここは舗装された道路から山道に入ってすぐ右手にあり、上記3ヵ所に比べ格段に訪れやすいところでした。
大型連休を利用して、高知市へ来ています。
この日はいつもお世話になっている方の案内で、市内北部の久万(くま)方面をまわりました。
1つ目は3月20日に紹介しました東京都港区安養院にあった小笠原彦弥の墓に関連して。
この人の墓が高知にもあると知り、訪ねました。言わずと知れた明治3年(1870)に英国留学を目前に切腹した1人です。
加賀野井団地から舗装された山道を登っていき、さらに土道を右へ入り、山の頂上を目指してひたすら登っていくと途中に山側を向いて4基の墓碑がありました。
外側に向かって右側が小笠原弥八郎。三兄弟の父親です。
その左には彦弥の長兄唯八茂郷、土佐藩大監察。武市瑞山の釈放を唱えて挙兵した清岡道之助ら野根山二十三士を処刑した人として知られています。戊辰4月に牧野群馬と改称。(=写真)
その左には次兄謙吉茂連、兄群馬とともに慶応4年戊辰8月23日(1868.10.8)会津戦争にて陣没。年29。群馬は25日歿。年40。
そして彦弥(也)茂延はいちばん左側に位置し、右隣りの次兄謙吉に寄り添うように建っています。明治3年正月5日死(1870.2.5)。年27。(=写真)
4名の没年をみると、明治10年(1877)12月5日である父弥八郎が最も遅く亡くなっています。行年72歳。3人の息子に先立たれた父親はどのような気持ちでこれらの墓碑を建てたのでしょうか。
次に、東久万にある間崎滄浪の墓。間崎は詩人で、清河八郎の友人。粟田宮令旨事件にて山内容堂の怒りに触れ、平井収二郎、弘瀬健太とともに切腹。時に文久3年6月9日(1863.7.24)。称哲馬、諱則弘、滄浪は号。(=写真)
毎度のことですが、土佐の掃苔は山本泰三『土佐の墓』を頼りにその付録の地図を見ながら行きます。寺の境内にあるのと違って山の中に際限なく墓があるためです。
幸い、間崎の墓は山の手前と山に入ってすぐに白い木柱の案内があり、掃苔者を導いてくれました。
さて、3番目に訪れたのは中久万柴田山にある土佐藩家老 柴田織部勝栄の墓。民家の方に聞いて竹藪をかきわけかきわけ、やっとのおもいでたどり着きました。(=写真)
号は咸陽。画人としても知られていました。『土佐の墓』に載っている写真では、墓碑に屋根がついていましたが、今はとれて後ろに落ちていました。
ここは大変苦労しただけに印象に残った場所です。文政4年5月17日享年70にて卒。(1821.6.16)
最後に訪れたのは、西久万にあるやはり家老 福岡宮内孝茂の墓。
文政3年8月1日生(1820.9.7)、致仕後、謙三と称す。明治39年(1906)12月23日卒。坂本龍馬の家はこの家の御預郷士です。
この場所にある福岡家久万墓地改葬記念碑によれば、昭和62年に改葬、整備されたようで、歴代の墓がずらりと並んでいます。
ここにあるのは、4世図書孝克から17世孝一までと12世宮内孝茂次男 友次郎が分家した家の墓碑。1世丹波于孝(もとたか)から3世までは、市内南部の筆山にあるようです。
有名な福岡孝弟(大政奉還建白者の1人)と同じ孝がつきますが、違う家です。ここは舗装された道路から山道に入ってすぐ右手にあり、上記3ヵ所に比べ格段に訪れやすいところでした。
実は私は、この柴田勝栄の子孫でして、勝栄の何代か後の柴田備後勝守の娘が私の高祖母にあたります。数年前から、祖先のことに興味がわき、去年と今年、高知に足を運びました。ちなみに百々越前安行も私の祖先にあたり、百々家の墓は高知市の筆山で今回発見しました。
そこで、もし何か手掛かりがありましたら、教えていただければと思った次第です。また、高知へ行く機会がありましたら、探したいと思っていますので、厚かましいお願いですが、よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。この記事の投稿者カトケンこと加藤健太郎と申します。
昨年5月の掃苔は同行した方が釜を持って木を切りながら行きました。
しかも竹藪の道なき道を突進しまして、こんなところに果たして墓があるのかというところを行き、案外と民家に近い場所にあったと記憶しております。
尋ねた家の名字は失念しましたが、やはり果樹園か何か農家をやっている家のご主人で、その方が見たのもずいぶんと昔であったが、とにかく家の裏の竹藪であることに間違いないとのことで、実際にそのとおりでした。
もう何年も人が入った形跡がなく、写真を撮るにも木が鬱蒼としてとても全体像を収められるような状態ではありませんでした。
農家の方に聞くまでずいぶん辺りをぐるぐるまわりました。西側に小さな天満宮があり、そこから民家の裏手伝いに東へ東へ行きました。
あそこへ行かれるならば、夏は避け、葉や土まみれになっても構わない服装で訪れることをお薦めします。
アライ様は柴田家と百々家のご子孫の由。柴田家の墓は何年も忘れ去られているようでしたので、ぜひ訪れていただきたく、またお手伝いさせてください。
私のメールアドレスは次のとおりです。
montparnasse-bienvenu@ezweb.ne.jp
よろしくお願いいたします。
直接メールさせていただきました。