会員のカトケンです。
前日に引き続き、高知市内を掃苔。この日は、高知城の西側に位置する山ノ端と、南部の筆山に連なる小石木、皿ヶ峰へ足を運びました。
まずは、山ノ端の原 鳳山の墓。代々琢左衛門を称し、初代は諱を喩、鳳山は号(=写真)。
この5代目原伝平正胤と佐々木高行が親戚になります。やはり兵学家で、明治7年(1974)に立志社に対抗した静倹社の領袖。
ここにある墓は初代から4代までの墓で、残念ながら伝平の墓碑はありません。草に埋もれ、ひどい荒れようでした。訪れる人もいないようです。
不思議なことに、2代琢左衛門正章の墓碑が2つありました。没年が全く同じ寛政5年1月21日(1793.3.3)、享年も同じ39歳で、戒名だけが違います。これはいったいどうしたことでしょう。
初代鳳山は天明元年10月8日(1781.11.23)没、行年72歳。
次に小石木の岡本一方の墓へ(=写真)。岡本は、静倹社の学校である静倹学舎の教授です。この学校は、みな刀を差して登校したため「蜂学校」と呼ばれました。岡本は別称頼平、名は長多。
3月に港区安養院を訪れた際に無縁墓としてまとめられていた墓碑の1つに棚橋又兵衛長胤の墓があり、岡本はその人物の次男に当たります。
今回の土佐行きの準備をしていたとき、このことに気づき、敢えて岡本の墓を目的地に選びました。
場所は小石木の鉄塔の下ですが、笹薮の中の道なき道を抜け出たところにあります。
全部で15基の墓碑があり、その内訳は一方の養父九右衛門厚徳、その長女で一方の妻や後妻、一方の息子でやはり静倹社に属した卯太郎ら。無我夢中で碑面を写しとりました。
一方は明治9年(1876)3月4日卒、享年67歳。卯太郎は明治10年(1877)7月8日卒、享年48歳。
政治的な動きとして、明治7年に静倹社は政府に対して封建復活ともとれる建白書を提出します。この署名者には岡本父子のほか、岡本の実家棚橋家で又兵衛から2代後の長亨が加わっています。
次に訪れたのは、皿ヶ峰にある小八木五兵衛正躬の墓。(=写真)
小八木は息子卓助とともに大政奉還に異を唱えて処分を受けた気骨の士。卓助の方は明治になって、静倹社のもうひとりの領袖となっています。
ここに卓助の墓はありませんが、五兵衛の父である久米之助正道、祖父長蔵正吉、曽祖父喜太夫正勝の墓碑がいずれも夫人を伴って安置されています。
みな背中に棺桶を背負ったような形状です。
五兵衛は明治4年6月29日(1871.8.15)、行年55にて卒。
以上、この日は自分が大学で卒論を書いたときに登場した静倹社の面々をまわりました。その時判らなかったことが墓碑を追うことによって判然としてきたことが何よりの収穫となりました。
前日に引き続き、高知市内を掃苔。この日は、高知城の西側に位置する山ノ端と、南部の筆山に連なる小石木、皿ヶ峰へ足を運びました。
まずは、山ノ端の原 鳳山の墓。代々琢左衛門を称し、初代は諱を喩、鳳山は号(=写真)。
この5代目原伝平正胤と佐々木高行が親戚になります。やはり兵学家で、明治7年(1974)に立志社に対抗した静倹社の領袖。
ここにある墓は初代から4代までの墓で、残念ながら伝平の墓碑はありません。草に埋もれ、ひどい荒れようでした。訪れる人もいないようです。
不思議なことに、2代琢左衛門正章の墓碑が2つありました。没年が全く同じ寛政5年1月21日(1793.3.3)、享年も同じ39歳で、戒名だけが違います。これはいったいどうしたことでしょう。
初代鳳山は天明元年10月8日(1781.11.23)没、行年72歳。
次に小石木の岡本一方の墓へ(=写真)。岡本は、静倹社の学校である静倹学舎の教授です。この学校は、みな刀を差して登校したため「蜂学校」と呼ばれました。岡本は別称頼平、名は長多。
3月に港区安養院を訪れた際に無縁墓としてまとめられていた墓碑の1つに棚橋又兵衛長胤の墓があり、岡本はその人物の次男に当たります。
今回の土佐行きの準備をしていたとき、このことに気づき、敢えて岡本の墓を目的地に選びました。
場所は小石木の鉄塔の下ですが、笹薮の中の道なき道を抜け出たところにあります。
全部で15基の墓碑があり、その内訳は一方の養父九右衛門厚徳、その長女で一方の妻や後妻、一方の息子でやはり静倹社に属した卯太郎ら。無我夢中で碑面を写しとりました。
一方は明治9年(1876)3月4日卒、享年67歳。卯太郎は明治10年(1877)7月8日卒、享年48歳。
政治的な動きとして、明治7年に静倹社は政府に対して封建復活ともとれる建白書を提出します。この署名者には岡本父子のほか、岡本の実家棚橋家で又兵衛から2代後の長亨が加わっています。
次に訪れたのは、皿ヶ峰にある小八木五兵衛正躬の墓。(=写真)
小八木は息子卓助とともに大政奉還に異を唱えて処分を受けた気骨の士。卓助の方は明治になって、静倹社のもうひとりの領袖となっています。
ここに卓助の墓はありませんが、五兵衛の父である久米之助正道、祖父長蔵正吉、曽祖父喜太夫正勝の墓碑がいずれも夫人を伴って安置されています。
みな背中に棺桶を背負ったような形状です。
五兵衛は明治4年6月29日(1871.8.15)、行年55にて卒。
以上、この日は自分が大学で卒論を書いたときに登場した静倹社の面々をまわりました。その時判らなかったことが墓碑を追うことによって判然としてきたことが何よりの収穫となりました。
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