会員のカネコです。
先日の流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドで染井霊園にある嘉納次郎作のお墓を案内しました。
嘉納次郎作は現在放送中の大河ドラマ『いだてん』の主要登場人物嘉納治五郎の父です。
当会では以前、染井霊園での巡墓会を行っていますが、その際にはこの嘉納次郎作については取り上げていませんでしたが、今年、嘉納治五郎が脚光を集めていることもあって、ちょうど良い機会だと思い、レジュメにも入れて当日場所も案内しました。
嘉納次郎作は幕末維新期に実業家として活躍した人物ですが、個人の伝記は作られておらず、その事蹟は主として息子嘉納治五郎の伝記の中で紹介されている程度となっています。
嘉納治五郎の伝記では嘉納先生伝記編纂会(編)『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)、加藤仁平著『嘉納治五郎 世界体育史上に輝く』(逍遥書院 昭和39年) といった書籍に嘉納家の出自や次郎作の事蹟が書かれています。また、柔道専門誌『柔道』24巻3号に掲載されている鳴弦朗著「この父にして-故師範の父、嘉納治郞作翁-」(昭和28年)は次郎作に焦点を当てた記事で、特に幕末の動向を中心に書かれています。
その他、辞典類では『日本人名大事典 第2巻』(カ~コ)(平凡社 昭和54年)、臼井勝美他(編)『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館 平成13年)に記載があり、参考になるかと思います。
尚、書籍によっては「次郎作」の名を「治郎作」と表記しているものが見られますが、本稿では墓碑銘の「次郎作」での表記で統一します。
上記の書籍を基に次郎作の略歴を簡単に記します。
次郎作は日吉大社社家生源寺希烈の四男として近江国滋賀郡坂本村(滋賀県大津市)で文化10年10月24日(1813・11・16)に生まれました。
諱は希芝、号は玉樹。
摂津国莵原郡御影村(兵庫県神戸市東灘区)の廻船問屋嘉納治作の婿養子となり嘉納次郎作と称しました。
嘉納家の本家は元々材木商で、後に酒造業を営み「本嘉納」と呼ばれ、歴代治郎右衛門を称し、清酒「菊正宗」で全国的に有名となっています。
次郎作の養父治作は分家の2代目となっています。
文久2年(1805)勝海舟のもとで和田崎・神戸・西宮の砲台築造工事を請け負いました。
慶応3年(1867)10月、永井尚志に出願し、幕府所有の汽船長鯨・奇捷・順動・太平丸などを託され、江戸-神戸・大坂間の定期航路を開き、我が国における洋式船舶による定期航海の端緒となっています。
さらに、同年の兵庫開港により、貿易の必要上、商社の設立が要望され、将軍徳川慶喜の命により、慶応3年6月5日(1867・7・6)大坂の豪商20名を招集し、山中善右衛門(鴻池屋)・広岡久右衛門(加島屋)・長田作兵衛(加島屋)の3名に商社の頭取を命じています。この設立には次郎作が尽力しており、6月14日(1867・7・15)には諸役を前に次郎作が演説を行っています。これらのことは『徳川慶喜公伝』第3巻の「第24章 兵庫開港の勅許」に記述が見られ、出典元として「慶応雑聞録」「長防追討録」「大阪市史所載近江屋猶之助旧蔵書」が挙げられています。
残念ながら幕府瓦解により商社は解散したとあり、次郎作の尽力は水泡に帰しますが、これらの出来事は次郎作の存在感を十分に示すものであったと思われます。
また、シーボルトの高弟高良斎の遺児雲外を庇護し、雲外の学友松本奎堂とも交友があり、幕府要人から尊攘志士まで幅広く交友関係を持っていたことが窺われます。
維新後は明治新政府に出仕し、通商・土木・造船、皇居造営等に関与し、明治17年(1884)海軍権大書記官に任ぜられましたが、在任中の翌明治18年(1885)9月15日、73歳で死去しています。
墓所は染井霊園一種イ3号2側にあり、正面[嘉納次郎作墓]、裏面には漢方医・儒学者浅田宗伯(惟常)による撰文が刻まれ、書は山岡鉄太郎(鉄舟)によるものとなっています。この撰文は大滝忠夫編『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(新人物往来社 昭和47年)に全文が掲載されています。
墓域内にはその他7基の墓碑があり、長男久三郎系統の墓所となっています。
三男であった治五郎は分家しており、その墓所は都営八柱霊園(千葉県松戸市田中新田字生松48-2)5区1種5側13番にあり神道形式の墓となっています。
次郎作の長女柳子は海軍軍人南郷茂光夫人、その子南郷次郎は講道館2代館長、次郎の長男茂章は日中戦争で「撃墜王」の異名をとり、昭和13年(1938)に戦死した際には「軍神南郷茂章」と報じられています。
二女勝子は陸軍軍人・数学者柳楢悦夫人、その子に民芸運動の立役者で思想家・宗教哲学者の柳宗悦がいます。
染井霊園の嘉納家墓域の裏右側の一画には長女柳子の嫁ぎ先南郷家の墓所があります。
今回の『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』の準備のため、1月に嘉納家・南郷家の墓所を確認しに行った際、嘉納家墓域真裏の花壇を手入れしている地元の方に声をかけられ、戦前、南郷家の墓所入口には石鳥居が建っており、軍神南郷茂章のお墓には小学生達が墓参に来て、軍神にお尻を見せるのは失礼だと言い、墓参後は皆後ろ歩きをして帰っていったというお話を聞きました。
この他に、次郎作の実家生源寺家を継ぎ、治五郎の二女忠子を妻とし、その没後三女爽子を後妻とした機械工学者生源寺順の墓は青山霊園(港区南青山2丁目32-2)一種ロ17号17側にあります。
また、二女勝子と夫柳楢悦の墓も同霊園一種イ号10-1にあり、その子宗悦の墓は小平霊園(東村山市萩山町1-16-1)27区12側2番にあります。
大河ドラマ『いだてん』の中では役所広司さん演じる治五郎が、度々勝海舟の名を出していますが、海舟との交流は父次郎作の代に遡るものです。
『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)には治五郎自身と海舟とのやりとりについて以下のことが書かれています。
治五郎は学習院時代に海舟を訪ね「しばらく学問に没頭しようか」と質問した所、海舟が「学者になろうとするのか、それもと社会で事をなそうとするのか。」と返し、治五郎は「後者です。その為にはしばらく必要な学問に集注しようと思います。」と答えました。すると海舟は「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」と忠言し、これは青年治五郎の心を打ち、爾来、実地実際の事柄から物を考え、必要に応じて本を読んだといい、その後の治五郎の生き方に大きな影響を与えています。
また、明治27年(1894)に治五郎が小石川区下富坂町に講道館大道場を開き、その落成式を行った際に、来賓であった海舟が治五郎の技に感嘆し、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮む」と書をしたため、治五郎に贈っています。この扁額は道場に掲げられ、現在は講道館国際柔道センター2階の資料館に展示されているとのことです。
海舟は幕末の多難な時期に、共に国事に奔走した次郎作の息子ということで、その成長を暖かく見守っていたのではないでしょうか。
治五郎もまた海舟を父のように慕い、様々な困難にあたっては海舟を想い、身を奮い立たせていたのかも知れません。
嘉納治五郎、柳宗悦、南郷茂章といったように、次郎作の血脈からはそれぞれ異なった世界で活躍した人物を輩出しています。
彼らの行動力を考えた時、その源流には幕末維新時に国事に奔走した次郎作の強い個性が少なからず影響しているように思えます。
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先日の流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドで染井霊園にある嘉納次郎作のお墓を案内しました。
嘉納次郎作は現在放送中の大河ドラマ『いだてん』の主要登場人物嘉納治五郎の父です。
当会では以前、染井霊園での巡墓会を行っていますが、その際にはこの嘉納次郎作については取り上げていませんでしたが、今年、嘉納治五郎が脚光を集めていることもあって、ちょうど良い機会だと思い、レジュメにも入れて当日場所も案内しました。
嘉納次郎作は幕末維新期に実業家として活躍した人物ですが、個人の伝記は作られておらず、その事蹟は主として息子嘉納治五郎の伝記の中で紹介されている程度となっています。
嘉納治五郎の伝記では嘉納先生伝記編纂会(編)『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)、加藤仁平著『嘉納治五郎 世界体育史上に輝く』(逍遥書院 昭和39年) といった書籍に嘉納家の出自や次郎作の事蹟が書かれています。また、柔道専門誌『柔道』24巻3号に掲載されている鳴弦朗著「この父にして-故師範の父、嘉納治郞作翁-」(昭和28年)は次郎作に焦点を当てた記事で、特に幕末の動向を中心に書かれています。
その他、辞典類では『日本人名大事典 第2巻』(カ~コ)(平凡社 昭和54年)、臼井勝美他(編)『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館 平成13年)に記載があり、参考になるかと思います。
尚、書籍によっては「次郎作」の名を「治郎作」と表記しているものが見られますが、本稿では墓碑銘の「次郎作」での表記で統一します。
上記の書籍を基に次郎作の略歴を簡単に記します。
次郎作は日吉大社社家生源寺希烈の四男として近江国滋賀郡坂本村(滋賀県大津市)で文化10年10月24日(1813・11・16)に生まれました。
諱は希芝、号は玉樹。
摂津国莵原郡御影村(兵庫県神戸市東灘区)の廻船問屋嘉納治作の婿養子となり嘉納次郎作と称しました。
嘉納家の本家は元々材木商で、後に酒造業を営み「本嘉納」と呼ばれ、歴代治郎右衛門を称し、清酒「菊正宗」で全国的に有名となっています。
次郎作の養父治作は分家の2代目となっています。
文久2年(1805)勝海舟のもとで和田崎・神戸・西宮の砲台築造工事を請け負いました。
慶応3年(1867)10月、永井尚志に出願し、幕府所有の汽船長鯨・奇捷・順動・太平丸などを託され、江戸-神戸・大坂間の定期航路を開き、我が国における洋式船舶による定期航海の端緒となっています。
さらに、同年の兵庫開港により、貿易の必要上、商社の設立が要望され、将軍徳川慶喜の命により、慶応3年6月5日(1867・7・6)大坂の豪商20名を招集し、山中善右衛門(鴻池屋)・広岡久右衛門(加島屋)・長田作兵衛(加島屋)の3名に商社の頭取を命じています。この設立には次郎作が尽力しており、6月14日(1867・7・15)には諸役を前に次郎作が演説を行っています。これらのことは『徳川慶喜公伝』第3巻の「第24章 兵庫開港の勅許」に記述が見られ、出典元として「慶応雑聞録」「長防追討録」「大阪市史所載近江屋猶之助旧蔵書」が挙げられています。
残念ながら幕府瓦解により商社は解散したとあり、次郎作の尽力は水泡に帰しますが、これらの出来事は次郎作の存在感を十分に示すものであったと思われます。
また、シーボルトの高弟高良斎の遺児雲外を庇護し、雲外の学友松本奎堂とも交友があり、幕府要人から尊攘志士まで幅広く交友関係を持っていたことが窺われます。
維新後は明治新政府に出仕し、通商・土木・造船、皇居造営等に関与し、明治17年(1884)海軍権大書記官に任ぜられましたが、在任中の翌明治18年(1885)9月15日、73歳で死去しています。
墓所は染井霊園一種イ3号2側にあり、正面[嘉納次郎作墓]、裏面には漢方医・儒学者浅田宗伯(惟常)による撰文が刻まれ、書は山岡鉄太郎(鉄舟)によるものとなっています。この撰文は大滝忠夫編『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(新人物往来社 昭和47年)に全文が掲載されています。
墓域内にはその他7基の墓碑があり、長男久三郎系統の墓所となっています。
三男であった治五郎は分家しており、その墓所は都営八柱霊園(千葉県松戸市田中新田字生松48-2)5区1種5側13番にあり神道形式の墓となっています。
次郎作の長女柳子は海軍軍人南郷茂光夫人、その子南郷次郎は講道館2代館長、次郎の長男茂章は日中戦争で「撃墜王」の異名をとり、昭和13年(1938)に戦死した際には「軍神南郷茂章」と報じられています。
二女勝子は陸軍軍人・数学者柳楢悦夫人、その子に民芸運動の立役者で思想家・宗教哲学者の柳宗悦がいます。
染井霊園の嘉納家墓域の裏右側の一画には長女柳子の嫁ぎ先南郷家の墓所があります。
今回の『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』の準備のため、1月に嘉納家・南郷家の墓所を確認しに行った際、嘉納家墓域真裏の花壇を手入れしている地元の方に声をかけられ、戦前、南郷家の墓所入口には石鳥居が建っており、軍神南郷茂章のお墓には小学生達が墓参に来て、軍神にお尻を見せるのは失礼だと言い、墓参後は皆後ろ歩きをして帰っていったというお話を聞きました。
この他に、次郎作の実家生源寺家を継ぎ、治五郎の二女忠子を妻とし、その没後三女爽子を後妻とした機械工学者生源寺順の墓は青山霊園(港区南青山2丁目32-2)一種ロ17号17側にあります。
また、二女勝子と夫柳楢悦の墓も同霊園一種イ号10-1にあり、その子宗悦の墓は小平霊園(東村山市萩山町1-16-1)27区12側2番にあります。
大河ドラマ『いだてん』の中では役所広司さん演じる治五郎が、度々勝海舟の名を出していますが、海舟との交流は父次郎作の代に遡るものです。
『嘉納治五郎』(講道館 昭和39年)には治五郎自身と海舟とのやりとりについて以下のことが書かれています。
治五郎は学習院時代に海舟を訪ね「しばらく学問に没頭しようか」と質問した所、海舟が「学者になろうとするのか、それもと社会で事をなそうとするのか。」と返し、治五郎は「後者です。その為にはしばらく必要な学問に集注しようと思います。」と答えました。すると海舟は「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」と忠言し、これは青年治五郎の心を打ち、爾来、実地実際の事柄から物を考え、必要に応じて本を読んだといい、その後の治五郎の生き方に大きな影響を与えています。
また、明治27年(1894)に治五郎が小石川区下富坂町に講道館大道場を開き、その落成式を行った際に、来賓であった海舟が治五郎の技に感嘆し、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮む」と書をしたため、治五郎に贈っています。この扁額は道場に掲げられ、現在は講道館国際柔道センター2階の資料館に展示されているとのことです。
海舟は幕末の多難な時期に、共に国事に奔走した次郎作の息子ということで、その成長を暖かく見守っていたのではないでしょうか。
治五郎もまた海舟を父のように慕い、様々な困難にあたっては海舟を想い、身を奮い立たせていたのかも知れません。
嘉納治五郎、柳宗悦、南郷茂章といったように、次郎作の血脈からはそれぞれ異なった世界で活躍した人物を輩出しています。
彼らの行動力を考えた時、その源流には幕末維新時に国事に奔走した次郎作の強い個性が少なからず影響しているように思えます。
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