探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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3月20日② 港区金地院、2人の「くにたけ」

2010-04-06 02:10:04 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

この日に続いて訪れた金地院は、東京タワーの目の前にあり、かの有名なる金地院崇伝ゆかりの寺です。

向かい側のタワーに来る人たちの賑わいとは裏腹に、大きな五輪塔が整然と並んでいる場所にいると、まるで雲の上から下界を見ているような気分になります。

この寺は、言わずと知れた天然理心流宗家第三代 近藤周斎邦武の墓があります。場所は境内右手に拡がる墓域の奥、塀に面しています。(=写真)



周斎は近藤勇の養父、今の町田市小山の島崎家出身で、先代三助亡き後、10年ものあいだ理心流宗家が途絶えていたところ、兄弟子らを飛び越えて宗家を継承しました。

独自に門弟を開拓し、兄弟子たちの領域を決して侵さず徐々に門人を増やしていったことは、この人物の腕前はおろか、礼儀正しさや人徳を察することができます。

島崎家先祖の墓が周斎から左手3番目に建てられています(=写真)。



これは周斎の甥佐太郎禅宜が建てたものです。禅宜は周斎の長兄高富の跡継ぎで、慶応3年(1867)に没した周斎に遅れること4年となる明治4年(1871)に没しています。

周斎の墓から右手のいちばん奥には子爵渡辺国武の墓があります(=写真)。



大久保利通晩年の側近で、明治10年(1877)に高知県の立志社を中心として西南戦争に呼応しようという動きがあったとき、権令(県知事)として見事鎮静化に尽力した人物です。

そのとき、齢30そこそこであったといいますから驚きです。

のちに大蔵大臣などを務めます。出身は長野県。傍らに養子千冬による記念碑が建てられています。千冬は国武実兄 渡辺千秋の実子です。

明治の高官は薩長ばかりでなく、爵位をもらった人でも出身県はかなり多種多様です。地方長官を務めた人にまだまだ注目すべき人はたくさんいるように思います。

宗派は臨済宗南禅寺派、山号は勝林山(港区芝公園3-5-4)