東京都東大和(ひがしやまと)市にある 東大和南公園 に行きました。

散歩道や

大きな運動広場があります。

下の白い建物は、昭和20年にアメリカ軍の攻撃を受けた変電所で、
市の文化財として保存されています。
壁に残る無数の弾痕が戦争の惨禍を今に伝えている貴重な建物です。

昭和10年代、多摩地域はまだ人家も少なかったので、次々と飛行機製作関連の工場が建てられていったようです。
それらの工場は、第二次世界大戦でアメリカ軍の攻撃目標となり、多くの犠牲者を出しました。
私の母も昭和10年代の始め、立川市の今は 『昭和記念公園』 になっている場所で、
飛行機部品の製作の仕事をしたことがあるそうです。
長兄と二人で通ったそうですが、その後長兄は出征し、昭和14年、満州で戦死してしまったのです。
先日、母と共に墓参に行きましたが、墓石には陸軍中将が書いた筆文字の戒名が刻まれていました。
息子を亡くした私の祖母の嘆きは深く、悲しみは戦後も長く続きました。
私が子供の頃祖母を訪ねると、いつも押入れから茶筒のような缶を取り出し、
中に入っている勲章を手に乗せて 「これが兵隊さん・・・」 と言って、
息子を撫でるように小さな勲章を撫でるのでした。
この伯父の戦死の後、日本は太平洋戦争に突入していきました。
父の弟はフィリピンのネグロス島で戦死しましたが、お骨も戻らず、今もネグロス島に眠っていることでしょう。
兵隊さんたちは、父のために母のために、兄弟達のためにと戦に行ったことでしょう。
その人たちの犠牲の上に、今の私の生活があるのだということを、忘れたくはありません。

散歩道や

大きな運動広場があります。

下の白い建物は、昭和20年にアメリカ軍の攻撃を受けた変電所で、
市の文化財として保存されています。
壁に残る無数の弾痕が戦争の惨禍を今に伝えている貴重な建物です。

昭和10年代、多摩地域はまだ人家も少なかったので、次々と飛行機製作関連の工場が建てられていったようです。
それらの工場は、第二次世界大戦でアメリカ軍の攻撃目標となり、多くの犠牲者を出しました。
私の母も昭和10年代の始め、立川市の今は 『昭和記念公園』 になっている場所で、
飛行機部品の製作の仕事をしたことがあるそうです。
長兄と二人で通ったそうですが、その後長兄は出征し、昭和14年、満州で戦死してしまったのです。
先日、母と共に墓参に行きましたが、墓石には陸軍中将が書いた筆文字の戒名が刻まれていました。
息子を亡くした私の祖母の嘆きは深く、悲しみは戦後も長く続きました。
私が子供の頃祖母を訪ねると、いつも押入れから茶筒のような缶を取り出し、
中に入っている勲章を手に乗せて 「これが兵隊さん・・・」 と言って、
息子を撫でるように小さな勲章を撫でるのでした。
この伯父の戦死の後、日本は太平洋戦争に突入していきました。
父の弟はフィリピンのネグロス島で戦死しましたが、お骨も戻らず、今もネグロス島に眠っていることでしょう。
兵隊さんたちは、父のために母のために、兄弟達のためにと戦に行ったことでしょう。
その人たちの犠牲の上に、今の私の生活があるのだということを、忘れたくはありません。