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本編は「米が沖縄戦で行なった蛮行」の完結編だが、米兵の蛮行というより「新型爆弾」による米兵の大量殺戮を暴露する。
日米戦争で米国が実験的に使用した新型爆弾は、三つあった。
➀原子爆弾⇒広島、長崎の民間人の大量殺戮。
②焼夷弾⇒東京を中心に全国の燃え易い木造家屋を焼却した民間人の無差別殺戮。
➂VT信管爆弾⇒沖縄戦で、当初カミカゼ特攻隊対応に開発されたが、後に民間人の無差別殺戮に使用された。
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チャップリンの映画「殺人狂時代」の中で「一人殺せば悪人で、百万人殺せば英雄」というセリフがある。
二度の世界大戦を経る中で各国は、戦場にいる戦闘員だけでなく、捕虜の扱いに対処するための追加的な修正や条約について議論し、採択してきた。
第二次世界大戦後の1949年、現在のジュネーブ条約が採択されて、戦争の最も重要なルールを定めている。2019年時点で196の国と地域が批准している。
沖縄戦にあたって当初アメリカ軍は、民間人の被害を極力抑える方針だった。それがなぜ、住民を巻き込む苛烈な攻撃を行うにいたったのか。
アメリカ軍兵士を恐怖のどん底に突き落としたのは、日本軍のカミカゼ特攻隊の自爆攻撃だった。
自身も戦闘機パイロットとして、沖縄戦を経験したフィリップ・ウィルモット元中尉(97歳)は、こう証言する。
「航空機による自爆攻撃・特攻で、およそ30隻の艦船が沈没した。地上戦も含めて、1万人を超える犠牲者を出し、アメリカ軍の中で日本軍への恐怖と憎悪が募っていた。ここで日本軍を逃せば、また激しい抵抗にあうと感じて住民のことを考えている余裕はなかった」と話す。
「住民を撃て、とは命じられていなかった。しかし、見分けなんて付くわけがないんだ。だから動くものは何でも撃った。」(アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉)
さらに今回発見した資料から、アメリカ軍が新型兵器「VT信管」を使用していたことも明らかになった。元々、日本軍の特攻機を撃ち落とすために威力を発揮した、VT信管。電波を発し、ターゲットに近づくと自動的に砲弾は爆発。その破片は広範囲に飛び散る。
アメリカ軍は航空機を攻撃するための兵器を、対人攻撃の無差別殺戮にに転用したのだ。
艦砲射撃による被害は着弾地で破裂し破片が横殴りに飛散し被害を与える。
だが、YI信管は着地直前の十数メートル上空で爆発するため、10センチ前後の鉄の破片が上空から雨あられのように民間人を襲い、強力な散弾銃のように効果的大量殺戮を行う。この様子は「鉄の暴風」というより「鉄の豪雨」と表現した方が相応しい。
戦時中米軍の攻撃を「艦砲射撃」と認識していた民間人は、頭上で破裂して効果的に大量殺戮をする「新型爆弾」の存在を知らず、戦後になって知った人ほとんどほとんどである。
「仲間のパイロットが日本軍のゼロ戦に体当たりされたんだ。それからは、日本人への哀れみなど一切なくなった。」(アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉)
【おまけ】
朝日新聞 2002年8月11日夕刊
実験目的に沖縄の離島を新兵器で爆撃 大戦末期の米海軍
太平洋戦争末期の45年6月に、開発中の爆弾の効果を試すため、米軍機が沖縄の離島の南大東島と沖大東島を爆撃していたことが、当時の米海軍の秘密文書から明らかになった。島では学校が損壊するなどして死者も出た。沖縄戦はまだ続いていたが、二つの島は本島から300キロ以上離れている。戦況に及ぼす影響のほとんどない島が、米軍の兵器開発の実験台になっていた事実が浮かび上がった。
爆撃の記録があったのは、沖縄攻略に参加した米第3艦隊やその機動部隊の戦闘報告書など。研究者らでつくる「日本の戦争責任資料センター」(東京)が昨年から今年にかけて米国立公文書館で見つけた。
45年7月14日付の報告書によると、6月9日に沖大東島を、10日に南大東島を爆撃した。
「VT(近接)信管付き爆弾で高射砲陣地を爆撃するという目的と、様々な種類の目標物に投下方法を変えてナパーム弾を落としてみるという目的があり、その結果、規模が拡大した」と記載し、「両日の作戦は訓練・実験として非常に有益だった。敵施設の破壊という大きな副産物もあった」と評価している。
4隻の空母の艦載機が2日間で97.55トンの爆弾と46発のナパーム弾を投下。第3艦隊の日誌には「操縦士の報告では、結果は良好で目標物はいずれも破壊した」と書かれていた。
大戦末期、両島には日本軍の守備隊が駐留。南大東島には住民約1500人が居住し、沖大東島にも観測所員が残っていた。日本側の記録によると、沖大東島では9日の攻撃で1人が死亡。10日の南大東島への砲爆撃では飛行場や学校などが被害を受け、少なくとも3人が犠牲になった。
VT信管は、目標に電波を当てて近づいたことを感知すると起爆する当時の新型装置で、航空機撃墜などのために米国が巨費を投じて開発していた。ナパーム弾はゼリー状の燃料を散らせて広範囲を焼き尽くす兵器で、その後の戦争でも数多く使用された。
前年10月の米軍の文書には「ナパーム弾の使用はまだわずかだ。一部の操縦士は、着陸する時に危険があるとの不信から使いたがらない」と書かれている。衝撃による爆発を懸念していたようで、その後、実験を繰り返していたと見られる。
文書収集に当たった資料センター研究事務局長の林博史・関東学院大教授(現代史)は「両島への爆撃は作戦遂行のためではない。手ごろな実験場所として使われたのは明らかだ。空爆を重視し、その効果を少しでも上げようとする現在の米軍の体質にも通じる行動ではないか」と話している。
【おまけ】2
原子爆弾の投下
ブレイクニー弁護士の爆弾発言について
非戦闘員大量虐殺を結果した原子爆弾の投下こそが最悪の戦争犯罪なり、 とする痛烈な発言は二十一年五月十四日の第五回公判に於いてアメリカ人ブレイクニー弁護士の口から出、さすがのキーナン主席検事も沈黙して答へず、 検察側からの反論はなかった。 この、ブレイクニー弁護士の原子爆弾に関する発言が、法廷では日本語に通訳されることなく、 速記録にも「(以下通訳なし)」といふことで日本文の記録が欠けてゐるといふ事実は本稿第二節〔※本ページ下記の「ブレイクニー弁護士の発言」〕で指摘した。 裁判所はブレイクニーの勇気ある正論が日本人の間に伝はることを恐れたのである。
原子爆弾と共産主義の脅威は法廷の二つの禁忌(きんき)として話題になるのを避ける訴訟指揮がなされてゐたが、 ブレイクニー弁護士は二十二年三月三日弁護側の反駁立証の段階で再びこれを法廷に持ち出した。 原子爆弾投下はヘーグ条約第四条への明白な違反であり、それは日本軍による同条約違反を相殺する性格のものであるが、 裁判長は、この法廷は日本を裁く法廷であって連合国を裁く場ではない、との十八番の論理を以って、 ブレイクニーが証拠として提出した「スチムソン陸軍長官の原子爆弾使用決定」を報ずる新聞記事を却下し、証拠として受理することを拒否した。
出典:「東京裁判 日本の弁明」小堀桂一郎編 講談社学術文庫(解説P54~55)
ブレイクニー弁護士の発言
「国家の行為である戦争の個人責任を問ふ事は法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであって個人に対してではない。 個人による戦争行為といふ新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。
戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。 殺人行為の正当化です。たとひ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問はれなかったのです。 キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。 投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。彼等は殺人罪を意識してゐたか。 してはゐまい。我々もそう思ふ。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がゐる!この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がゐる! その者達が裁いてゐるのだ!」
東京裁判法廷昭和二十一年五月十四日、管轄権に関する動議で法廷が揺れてゐるさ中に、 東京裁判の全公判中で最も注目すべき挿話の一であるブレイクニー弁護士の爆弾発言が生じてゐた。 「爆弾発言」とは一般にその場に居合わせた人々の耳目を驚かす衝撃的発言といふ意味だが、 この場合同人の発言の内容が又まさに原子爆弾の投下を主題としたものだった。 その内容を一言で要約するならば、 広島・長崎への原爆投下といふ空前の残虐(これこそ起訴状に謂ふ「人道に対する罪」だった)を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格はない、 といふものだった。
この発言が裁判所全体にとってどんなに衝撃的であったかは、「条例」に定めてあるはずの法廷に於ける日本語への同時通訳が俄かに停止し、 最後まで復活しなかったことからもわかる。それは機器の故障等の技術的な理由からではない。 日本語に通訳されればそれは日本語の法廷速記録に留められて後世に伝はるであらうし、第一法廷の日本人傍聴者の耳に入り、その噂は忽ち巷間に広がってゆくであらう。 そしてその発言にひそむ道理の力は、反転してかかる非人道的行為を敢へてしたアメリカといふ国の国威と、欺瞞に満ちたこの裁判所の威信を決定的に傷つけ、 原爆の被害を受けた日本人の憤激の情を新たに著しく刺激するだらう。裁判所からすれば、それは何としても回避したい打撃である。 そこで(どう考へても意図的に)同時通訳は瞬時に停止せしめられ、早口の英語の弁論を理解する用意のない日本人傍聴者には、 現在そこで何が生じてゐるのか見当がつかぬ、といふ仕儀となった。
一般に人々がその弁論の内容を知ったのは、 実にそれから三十六年余を過ぎた昭和五十七年の夏、講談社の企画・製作に係る長編記録映画『東京裁判』が公開上映された時、その字幕を通じてのことである。
出典:同 講談社学術文庫(解説P22~24)
【おまけ】3
これも、米軍の民間人殺戮の例。
[社説]対馬丸撃沈77年 次代に伝える責任負う2021年8月22日