狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「黙らせろ!」「日本兵が少女を銃殺」「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!

2023-06-23 07:00:48 | 資料保管庫


 

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地図を使って沖縄戦で犠牲になった人たちの状況を説明する生徒(左)=13日、八重瀬町・向陽高校

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戦前世代が人口の1割を切った沖縄 高校生がガイド・市史で授業・大人向けの平和学習 記憶の継承へ模索

 
2023年6月23日

 多くの命が失われた沖縄戦から78年。体験者が年々減少し、戦争を知らない世代が増える中、二度と惨禍を繰り返さないために沖縄戦の記憶をどう継承していくか問われている。県内各地の継承の取り組みや識者の提言を紹介する。

■戦前世代は9.6%

 太平洋戦争が終結した1945年以前に生まれた、いわゆる「戦前・戦中世代」の県内人口は2022年末で14万1千人と推定されている。県内総人口の9・6%に当たり、初めて1割を切ったことになる。

■沖縄戦体験者の記憶どう継承 研究者に聞く

 沖縄戦体験者の記憶をどう継承するか、そのためには何が必要なのか。沖縄戦研究者で元沖縄国際大学教授の吉浜忍さんに聞いた。
(社会部・當銘悠)

◇   ◇

 戦争体験者から直接話を聞けなくなる時代がすぐに来る。どのように沖縄戦を継承するか、これまで以上に真剣に考えなければならない。重要になるのは蓄積してきた記録の活用だ。

 これまで、体験者の「記憶」を聞き取って「記録」する取り組みが行われてきた。県史や市町村史には多くの証言が掲載されている。

■県史や市町村史の活用を

 近年発刊されたものは、活用しやすいようにビジュアル化など編集も工夫している。例えば昨年発刊した「八重瀬町史」では戦没者の分布を地図に落とし込むなど可視化し、地域に駐屯している部隊が住民を強制的に戦場動員したことを理解できるようにした。「語り部」となる戦争遺跡の記述や、写真も多く盛り込んでいる。

 2017年発刊の新県史「沖縄県史 各論編6 沖縄戦」の最終章では戦後を記述した。今も不発弾処理や遺骨収集が続いており、沖縄戦は現在進行形の問題であることを伝えた。

 身近なもの、場所から沖縄戦をどう学ぶかが大切だ。そうすることで、戦争を知らない世代も沖縄戦を近く感じることができる。記録をどう活用し、平和教育に取り組むか、市町村と学校現場が共に考えることが重要だろう。

■課題は若手ガイドの育成

 若手研究者など、沖縄戦を継承する次の世代は育ってきている。だが、県内各地の平和ガイドは高齢化しており、もっと若手の育成が必要だ。非体験世代がどう次の世代に伝えていくかが課題となる。

 自衛隊の南西シフトや沖縄の軍事要塞(ようさい)化が進み、体験者が「沖縄戦の前みたい」と感じる状況が生まれている。そんな今だからこそ78年前の沖縄戦で何があったのか、史実を学ぶことが必要だと思う。

沖縄戦の継承について「記録をどう活用するかが問われている」と語る吉浜忍さん=15日、南城市内
沖縄戦の継承について「記録をどう活用するかが問われている」と語る吉浜忍さん=15日、南城市内

 

「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!2013-06-23 

毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが恒例行事として集団発狂する。

沖縄戦の記憶の継承と称する沖縄戦キャンペーンだ。

沖縄戦の記憶の継承という建前に異論はないが、沖縄メディアが戦争を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道だ。

昨年6月21日の沖縄タイムスは「沖縄戦関連」記事で一面トップと社会面トップを飾った。

 

ところが、執筆者の山中由睦記者は、証言者のコメントをうっかりそのまま掲載するという大ポカやらかしてしまった。

大笑いである。

、泣きだした幼子本来なら戦火を避け潜んでいたガマでを「(日本兵が)泣かすな、出ていけと命令した」。このように歪曲して書くべきだった。

先輩記者の捏造報道を継承して。

最近、沖タイも心を入れ替えて、これまで歪曲してきた沖縄戦の大嘘を訂正する気になったのか。

読者「そんな筈はない。沖タイにそんな殊勝な気がある筈がない」

「単なるポカ記事です」

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

沖縄タイムス紙面掲載記事

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

2021年6月21日 05:00

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

□   □

 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

□   □

 遺骨への思いは末弟に対してだけではない。当時38歳だった父・玉城蒲吉さんも見つかっていない。

 色白で“イケメン”だった父。畑仕事がない日は一緒に遊んでくれた優しい人だった。「カマスケ」という毛並みの良い馬を飼い、新品の馬車も持っていた。そんな父が大好きだった。

 父は44年10月ごろ軍に招集された。冬に馬車を取りに一度だけ戻ってきた。出発前、上原さんの頭を優しくなでながら「お母さんの言う通り、お利口にしてね」。これが別れとなった。

 父がその後どこに行き、どこで亡くなったのかは分かっていない。戦争で自宅は燃え、父の写真や遺品は全て焼失。父のぬくもりや思い出を感じられる物は何一つ残っていない。

 万年筆や衣類、馬車の部品、何でもいいから見つけたい-。そんな思いで、20年ほど前から遺骨収集に携わった。同じように沖縄で遺骨を探す人のため、そして父の手掛かりを探すため。自らガマに入った。

 高齢になり、最近は自ら探すことは減ったが、まだ

希望は捨てていない。「戦後76年。難しいのはもちろん分かっているけれど、簡単には諦められないさ」(社会部・山中由睦)

 戦後76年がたった今も、県内では沖縄戦で亡くなった約3千人の遺骨が見つかっていない。大切な人の足跡や生きた証しを求め、いまだ多くの人が遺骨を探している。その思いと遺骨収集の現状や課題に迫った。(21面に関連)

 「証を求めて」では、遺骨を探す人々の思いや遺骨収集現場の動画を制作しています。こちらのQRコードから。

(写図説明)(上)庭のタマシダをなでるように触る上原美智子さん=那覇市

(写図説明)(下)上原さんらが逃げ込んだ糸満市のガマ「アマンソウ」(糸満市教育委員会提供)

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長であることが自身の証言で話題になった。

仲里氏が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したか。

いずれにせよこの記事が嘘であることくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。

(【おまけ】参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

 

【おまけ】

「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道2007-10-18

「県民大会」の実行委員長になり、更には「東京要請団」の団長として、仲里県議会議長の名前と顔はすっかり全国区になった。

地元マスコミでで仲里議長の名が一躍注目されるよったのは琉球新報の衝撃的「毒おにぎり」記事以来である。

 

毒おにぎりで知名度を上げ、その後国会議員になった

仲里利信氏

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 
戦時中の食料事情を知る人なら、折角のご馳走の「白いおにぎり」に毒を入れる状況が理解できないと、この体験談に疑念を抱く人も多い。
 
だが、これがそのまま海外の新聞、それもあのニューヨークタイムズの記事となったとなると、歯止めなく世界中を1人歩きする。
 
「戦地売春婦」が「性奴隷」の名の下に世界中を一人歩きしたように。
 
「11万人」集会がニューヨークタイムズの記事になったことを琉球新報が報じたが、Red Foxさんが元記事を全訳した結果、
 
琉球新報の訳文を原文に無いことを報じる「超訳」と呆れ返っていた。
 
詳しくは「またオーニシか! 沖縄抗議集会 琉球新報報道の怪 (Red Fox) 」でご覧下さい。
 
記事を書いたのは反日記事で有名なオーニシ記者ですが、翻訳者の岩谷文太さんは次のようにコメントしています。
 
≪このNYタイムズの大西記者の記事の情報源となってるのは多くが沖縄タイムズや琉球新報の記事なので、もともとがバイアスがかかってる訳ですが、結果として琉球新報が情報を提供して書かれたNYタイムズの記事を琉球新報が逆輸入して更に誇張して報じるという自作自演のマッチポンプ記事です。NYタイムズ自体はアメリカの朝日新聞みたいなものですから。

沖縄の事は本来は沖縄の民意が決める事ではありますが、問題は本土から乗り込んだ活動家であり、米軍の問題があってもそこには中国の脅威がある訳です。≫
 
≪しかし琉球新報のこれは幾ら何でも酷過ぎますね。まずNYタイムズの記事を報じてると装いながら内容を改変してる点、それから引用表記のルールの基本が全く出来てない点ですが、これは英語読解力など記者の能力の問題なのか、それとも意図的に印象操作をしてるのかは、この記事を見る限りでは何とも言えませんが、ロサンゼルス通信員という方なので恐らく確信犯の後者でしょう。そもそもロス通信員なら宜野湾市の抗議集会で直接取材した訳でないでしょうから、NYタイムズに書かれてる以上の余計な情報が入るのが不自然というものです。

 そういうクリエイティビティ溢れる琉球新報には『創作芸術大賞』を進呈したいと思いますw。≫

 
そのニュークタイムズ記事の中で、多くの証言者が「日本軍の残虐性」を訴えている。
 
特に沖縄出張法廷で証言した金城重明氏は本人の写真つきで紹介されている。
 
だが、金城証言に続く仲里議長の「毒おにぎり」証言が、
 
日本軍の残虐性を示す逸話として、世界中に飛び火していくことを危惧する。
 
以下はニューヨークタイムズ掲載の「毒おにぎり」の仲里議長の証言部分の原文と訳文です。

Okinawans Protest Japan’s Plan to Revise Bitter Chapter of World War II
http://www.nytimes.com/2007/10/07/world/asia/07okinawa.html

 One of the visitors to Tokyo was Toshinobu Nakazato, chairman of Okinawa痴 assembly.

Angered by the revisions, Mr. Nakazato broke a 62-year silence and talked about his own wartime experiences.

Inside a shelter where his family had sought refuge, Japanese soldierhanded his family members two poisoned rice balls and told them to give them to Mr. Nakazato痴 younger sister and a cousin, he said. Instead, his family fled into the mountains, where his younger brother died.

的知 already 70,・he said in an interview, 殿nd the memories of those over 80 are already fading. So perhaps this time was the last opportunity for us to resist.・/p>

その一人である沖縄県議会の仲里利信議長は、教科書問題に不快感を示し、62年の沈黙を破って自らの戦争体験を語った。

仲里さんの家族が難を逃れたガマ (濠) では、彼の家族に日本兵が2個の毒入りおにぎりを手渡し、仲里さんの妹といとこに与えるように言った。彼の家族は山に逃れ、そこで弟が亡くなった。

 「私はもう70歳ですが、80歳以上の人達の記憶は薄らいでいます。だから今が私達が抵抗出来る最後のチャンスなのかもしれません」と仲里さんは語った。(Red Foxさん訳)

                     ◇

 

■琉球新報により伏せられた仲里証言の“ある部分”■

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

(略)

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)
 
                    ◇
 
「11万人」集会の実行委員長として、又「上京要請団」の団長としてすっかりテレビ露出の多くなった仲里県議会議長だが、
 
その前に「毒入りおむすび」証言で既にネット上では全国区の有名人になっていた。
 
だが、仲里議長の証言場面を動画で検証すると、琉球新報記事は証言のある重要部分を敢て伏せている。
 
仲里議長は、動画では概ね次のように話しているが、
 
上記新報記事では「壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない」の部分は省略されている。
 
この部分は「壕から日本兵に追い出された」という巷間流布している定説とはそぐわない。 
 
つまり琉球新報は、壕から出て行けと言ったのは日本兵でなければ今まで造り上げて来た残忍な日本兵のイメージが崩れると困るのである。
 
「壕から追い出した人物」と「毒おにぎりの人物」は同じ日本兵でなければ整合性が無いのだ。
 
そこで、新報は証言のある部分を伏せて報じた。
 
「壕から出て行けといったのは同じ県民だった
 
 
 仲里証言を【動画】で検証してみよう
 
 
文字おこしすると概ね次のようになる。
 
≪壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない。

ある人突然着剣した銃を持った日本兵が3人壕に入ってきて三才になる従妹に白いおにぎりに毒を入れて食べなさいといった。

家族一緒に死のうと壕を飛び出した。≫

 

「毒おにぎり」の仲里議長の証言もそうだが、それを報じる琉球新報が更に事実を隠蔽するようでは、沖縄の新聞は・・・、

何としてでも「沖縄県平和祈念資料館」に展示されている「銃剣で親子を壕から追い出す日本兵像」のイメージを造りたいのだろう。

 

 

 

 

 

参考エントリー毒入りおにぎりを渡された県議会議長

◆関連ブログ:沖縄集団自決問題 NYタイムズ記事検証

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岩田温、保守新党の可能性。政治学者としての現実的分析(23/6/22)

2023-06-23 05:09:25 | 政治

 

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