「昭和天皇と沖縄の関係」と問われれば、生前一度も訪問したことのない沖縄。
訪問を希望したが、適わなかった沖縄・・・
という程度の認識の県民は多いだろう。
だが、昭和天皇が青春時代(皇太子の頃)、沖縄を訪問され、県人でさえも好き嫌いのある「沖縄料理」に舌鼓を打たれたことを知る県民は少ない。
「4・28屈辱の日」と関連し「天皇メッセージ」という文言がしばしば新聞に登場した。
新聞は、さすがに「天皇メッセージ」のことをサヨクブログが主張するように、「天皇が命乞いのため沖縄を米国に売り渡してした」などとは断定はしていない。
だが、いかにも意味ありげに「天皇メッセージ」を繰り返し報じ、お得意の印象操作に終始している。
ところが4月15日付の沖縄タイムスが社説で「天皇メッセージ」を取り上げ「昭和天皇糾弾」の第一歩を踏み込んできた。
彼らの究極の目的が、「32年テーゼ」による「天皇制の廃止」であることは言うまでもない。
沖縄タイムスの「検証4・28 政府式典と天皇 政治利用の疑いが強い」と題する社説の該当部分をこうだ。
<昭和天皇は戦後、全国各地を巡幸し、戦後巡幸が一段落した後も、国体や全国植樹祭などの行事に出席するため各県を訪問した。 だが激しい地上戦の舞台となり米軍政下に置かれた沖縄には、戦後一度も足を運んでいない。 1975年初訪米の際、「米国より先に沖縄にいくことはできないか」との意向を周辺に漏らしたといわれるが、沖縄には反対論が根強く、実現しなかった。 87年に開かれた第42回国民体育大会(海邦国体)への出席も、病気のため急きょ取りやめになった。 戦争責任の問題も、米国による沖縄の長期占領のを進言した「天皇メッセージ」の問題も、ついに本人の口から語られることはなかった。 昭和天皇の晩年の歌が残っている。
「思わざる病となりぬ 沖縄を訪ねて果たさむ つとめありきを」>
>戦争責任の問題も、米国による沖縄の長期占領のを進言した「天皇メッセージ」の問題も、
この文言に沖縄タイムスの昭和天皇糾弾の本音が垣間見えるが、同紙の昭和天皇糾弾の意図は2012年11月の記事にも既に表れていた。
屋良朝笛知事(故人)日記の発掘を報道しているが、得体の知れぬ「識者」の意見として昭和天皇が「沖縄に犠牲を強いたという負い目」などと、強引に決め付けているのが目立つ。
屋良朝苗氏の日記=沖縄県公文書館
昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗知事(故人)の日記に、宇佐美毅宮内庁長官(当時)の話として記されていた。
昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。 2012/11/13 19:55 【共同通信】
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昭和天皇の沖縄に対する思いが深く、皇太子時代を除き、生前一度も訪問できなかった沖縄に、米国訪問前に沖縄ご訪問のお気持ちがあったことは理解できるとしても、「天皇メッセージ」のため「沖縄に犠牲を強いた負い目が訪問に強い背景にある」などのコメントは、サヨク識者の勝手な妄想に過ぎない。
昭和天皇が皇太子時代、ヨーロッパ旅行の折、沖縄を訪問したことを想い出し、多感な青春時代の想い出の詰まった沖縄に天皇在位中一度もご訪問できなかったことを心残りに思ったのが真実だろう。
■援護法と天皇メッセージ
1946年、戦前からの「軍人恩給法」がGHQの覚書により廃止される。
そしてサンフランシスコ講和条約が成立した1951年、「援護法」が成立する。
これは講和条約締結が見込まれていたため、講和発効と同時に、援護法の施行を考えたからだ。
日本政府は、当時既に米軍統治下にあった沖縄を、講和条約締結時に、なんとか日本から「切り離さない」ように努力をしたのだが・・・。
沖縄の反日サヨク勢力は、講和発効の日を、日本が沖縄を米国に売り渡した屈辱の日と呼ぶ。
今年の4月、政府が講和条約発効の日を記念する式典を挙行すると発表するや、沖縄メディアが一斉に反発し、「4・28屈辱の日」と叫んで講和条約を批判した。
同時に昭和天皇が「国体護持のため沖縄を米国に売り渡した」などと喧伝し、「天皇メッセージ」を批判する識者の主張が紙面に躍った。
沖縄紙が「屈辱の日」として批判する講和条約発効の1952年は、実は沖縄中が祖国復帰の気運が近づいた喜びで沸きあがった年であった。
政府は主権が日本にあることを根拠に、着々と援護法の沖縄住民への適用の布石を開始する。
講和発効の1952年6月、政府は総理府内に南方連絡事務所が設置し、同時に沖縄には那覇日本政府南方連絡事務所(南連)が設置された。
「天皇メッセージ」に示された通り、日本の主権が残ったまま米国の統治下にあった沖縄。
沖縄に昭和天皇が主張した潜在主権がなければ援護法の沖縄への適用は困難を極め、現在適用されているように「拡大解釈」してまでの大甘な適用は不可能だったであろう
政府(厚生省)は、日本の主権の及ぶ沖縄に「援護法」を適用させるのは当然と考え、南連の協力の下、米国民政府(米軍政府)と「援護法」適用の交渉を開始する。
つまり当時の沖縄に日本の主権が及んでいたからこそ、援護法の沖縄住民への適用交渉が、講和発効と前後していち早く援護法関連の業務が開始されたのだ。
講和発効で日本が独立国となり沖縄の祖国復帰が間近だとの機運があった1953年から、当時の琉球遺族連合会の日本政府に対する援護法適用の折衝も活発になる。
■「潜在主権」と「天皇メッセージ」
なぜ援護法の沖縄への適用が大甘になったのか
「援護法」を「裏手引書」まで作成し、沖縄住民にだけ大甘な適用をした理由は、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ大田実少将電文を知る世論の同情もあってのことと考えられる。
勿論「援護法」の成立・適用に関わった多くの官民関係者の努力を見落とすわけには行かない。
厚生省の担当官・比嘉新英や琉球政府社会局長として援護業務に携わった山川泰邦氏、そして座間味村役場の援護係・宮村幸延らが「お役所仕事」の枠を乗り越えて努力したことや、遺族会幹部の方々の努力も見逃すことは出来ない。
同時に「沖縄病」に取り付かれた茅誠司東大総長ら当時の知識人たちの沖縄への同情心も彼らの行動を後押しした。
大田少将の電文を国(厚生省)が受けついて、「後世特別の配慮」をしたことは理解できるが、厚生省の独断でこれほどの事が可能なはずはない。
大田少将と厚生省の間にその「善意のリレー」をした人物が介在した。
これに関連し援護法適用の根拠となる「潜在主権」について努力した2人の人物がいる書いた。
昭和天皇と吉田茂首相のことだ。
尊王主義者で「臣茂」と自称した吉田茂氏については後述するとして、昭和天皇と沖縄の関係について述べてみる。
■大田実中将の「電文」と昭和天皇
繰り返すが「援護法」の沖縄への適用について、忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった「天皇メッセージ」の存在である。
もとより1979年に公表された「天皇メッセージ」の存在を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。
ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。
理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。
人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地は想い出が深く心に刻まれるもの。
ましてや長い船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。
裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、当時の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。
お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。
それから46年後の1967(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれただ。
「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味)
昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。
■昭和天皇と「沖縄料理」
皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。
最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ない。
裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、沖縄出身の漢那艦長に食べてみたいと所望された。
艦長は、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。
裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。
エラブ海蛇は「エラブ汁」として調理されるのが一般的な沖縄料理だが、昨日は土用丑の日で、ウナギ高騰の折、エラブ海蛇を「エラブ汁」にするより、串で刺して炭火で炙り「蒲焼」にした方が、一般的な料理になると思うのだが、どうだろうか。
ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について心を痛めていた事実を明らかにしたいからだ。
米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。
つづく