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11月1日にエントリーした「最終章、「オカッパの少年」の謎を追って」の最後の文を次のように結んだ。
≪朝日報道では引退したはずの大城氏はその後も西宮界隈の教員たちを引率して慶良間戦跡ツアーのコーディネーターをしていることが判明している。
そしてやはり大城氏はウソをついており、それを承知していながら琉球新報が捏造記事を書いたことが判明した。
⇒衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!
琉球新報がウソと知りつつ歪曲報道したと言う証拠は、次のエントリーで紹介する。≫
★
■嘘と知りつつ報道した琉球新報
映画の中では右手がない様子がわかります。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれています
次に引用するのは26年前の琉球新報 朝日新聞の特集記事「夏草の祈り」の抜粋である。
≪写真≫ あの時 子どもだった
映画出演し 惨劇を証言
、この夏、沖縄では映画『戦場ぬ童(いくさばぬわらび)の自主上映が盛んに行われている。 公民館、小学校、小さな集会場には人々が集い、スクリーンを食い入るように見つめる。沖縄戦終結から40年を期して作られたこの映画は、米軍と日本軍の地上戦戦闘に否応なく巻き込まれた沖縄の子どもたちの姿を追う。 そして、現在40代となったその最後のおきなわせんの体験世代に、証言の列に加わるように呼びかけた。
虐殺住民のさなかで
沖縄市西原町の玉那覇(たまなは)春子さん(48)は、映画のなかで、積極的に自身の戦場体験を語る。 春子さんが映画に出演するようになったのは、1枚の写真がきっかけだった。 その写真には、米軍従軍写真班が撮影した「右腕を負傷した少女」だ。 撮影は「6月21日具志頭(ぐしかみ)で」となっている。 この日は沖縄戦の総指揮官だった牛島満中将自決の2日前。 戦闘は終結に近づき、日本軍による住民虐殺、集団自決の強要などの惨劇のさなかだった。
春子さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。 現在の春子さんは、右腕のひじの先がない。 写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。 生まれは沖縄本島南部の具志頭村。 父は楽器製造家。 米軍上陸から2ヶ月余りたった6月の初め、背走してきた日本軍が村に入り込み、「軍が使うから」と、家を追われた。 父親はすでに防衛隊にとられており、母親は春子さんと妹を連れ、食料、衣類を手に、親類の人たちと一緒に村を出た。
「イモのくずを湯でといて飲み、飢えをしのぎながら、あちこちの防空壕を渡り歩いた。 ちょうど梅雨で、雨にぬれながら、戦場を逃げ惑いました」
4日目に母が死亡
家を出てから何日目だっただろうか。 大きなかわら屋根の家にたどりついた。 避難民があふれ、仕方なく軒下で夜露をしのんだ。 3日目に、その民家が直撃弾を受け、血の海となった。 母は全身から出血し「水が飲みたい、水が飲みたい」と言いながら、ガジュマルの木下で4日目に息をひきとった。
春子さんは右腕とわき腹に負傷した。 鉄の破片が入っていた。 その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕をつってくれた。 妹も両足に大怪我をした。 どこをどう逃げまどったのか、気がついた時は、コザの野戦病院のベッドに横たわっていた。 右腕は切断されていた。 傷口には無数のピンク色のウジがはい回り、すごく痛んだことは記憶にあるのだが。 写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じにに見えた。 身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。 新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前に「どうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。 戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と春子さんはいう。(略)(琉球新報 朝日新聞 1985年8月12日)
★ソース
夏草の祈り あの時子供だったhttp://blogs.yahoo.co.jp/masazumi_kenmochi/32654237.html
【付記】11月18日
上記リンクにある1985年8月12日付新聞記事は朝日新聞の記事であることが判明したのでお詫びして訂正いたします。
☆
注目して欲しいのは、この記事が当日記が当初から疑問を呈していた「オカッパの少年」をスクープした琉球新報の記事であること。
ドキュメンタリー作家で「1フィート運動」の創始者でもある上原正稔さんが、米国公文書館から発掘してきた沖縄戦の記録フィルムを基に製作された映画『戦場ぬ童』(1985年製作)。
その記録映画には2人の少女が登場する。
1人は「白旗の少女」で有名な比嘉富子さん。
もう1人が「右腕を負傷した少女」の写真。 太田昌秀著『これが沖縄戦だ』(1977年出版)では「うつろな目の少女」として紹介されている写真の少女のことだ。
玉那覇春子さんは、 映画『戦場ぬ童』に登場して「うつろな目の少女」は7歳当時の自分の写真であると証言した。
上記引用の記事では琉球新報は、「うつろな目の少女」は玉那覇春子さんである報道しておきながら、その後の2007年には、西宮に住む大城盛俊氏(75)が、写真の少女は、オカッパの少女に変装した自分だと名乗り出たとき、琉球新報はその証言がウソであることを知りながらスクープとして大々的に報道したのだ。
その時の報道がこれ。
「教科書の嘘は許さず」という大見出しで、琉球新報自身は大嘘の報道をしていたことになる。
2007年8月25日琉球新報
「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社
日本兵に暴行され、傷だらけになった大城盛俊さん(当時12歳)=1945年6月(大城さん提供)
「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略) (深沢友紀)
☆
新聞記事といえどもしょせんは人間が書くもの。
勘違いもあれば、誤報もある。
だが琉球新報は「うつろな目の少女」が玉那覇春子さんであると知りながら、つまり大城盛俊氏のウソの報道を、確信犯的にウソと知りつつ垂れ流した。
これは琉球新報が意識せずに報道した誤報の類ではなく、「悪逆非道の日本軍」のイメージ作りを意図した極めて悪質な捏造記事である。
実は、沖縄タイムスは琉球新報の「スクープ記事」の2年前に大城盛俊氏に取材していた。
すこし長くなるがその時の沖縄タイムスの記事を全文引用する。
◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>
[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請
大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。
戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。
右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。
敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。
大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。
四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。
昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。
そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。
六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。
リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。
「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。
大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。
その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。
五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。
七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。
大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。
◇
<2005年3月17日 朝刊26面>
[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り
一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。
県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。
「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。
いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。
あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」
相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。
沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。
それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。
しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。
沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。
大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。
後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。
九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」
「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。
「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」
★
不思議なことに、二日にわたる特集記事で、大城氏が「うつろな目の少女」が自分であるという「スクープ報道」はしていない。
さすがの沖縄タイムスも大城氏のウソをそのまま記事にするに気が引けたのだろうか。
その2年後の2007年、琉球新報は大城氏のヨタ話を嘘と知りつつ「スクープ」として大々的に報道した。
そのわけは?
(つづくー明日掲載予定)
★
パンドラの箱掲載阻止訴訟
第4回口頭弁論のお知らせ
皆様、日頃のご支援ご協力、誠に有難う御座います。
いよいよ、沖縄の閉ざされた言論空間に亀裂が入り始めました。
本年1月にドキュメンタリー作家の上原正稔氏が琉球新報社を著作権の侵害と表現に自由の侵害を理由に提訴して以来、新聞販売店主から相つぎ「押し紙訴訟」が提訴されるようになっており、このまま「押し紙訴訟」が増えてゆけば、琉球新報社は弁護士費用で首が回らなくなるかもしれません。
同時に、沖縄タイムス社も同様の押しつけを新聞販売店にしているだけに、火の粉が飛んで来ないように、ハラハラしている状況です。
さて、そういう意味で、この第4回以降の口頭弁論がどのように進められて行くかに、世間は注目し始めております。
今回の法廷は(これまでも見所十分な内容でしたが)、被告側の主張が破綻して行くさまをご覧いただけるものと思います。お時間の許す方は是非傍聴にご参加下さい。
尚、その後の報告会も恒例通り、行いますので、こちらの会場にも参加頂けましたら、今後の展開を予測いただけるものと思います。
■第4回口頭弁論
11月8日(火)午前11時開廷 (傍聴希望者は10時30分までに)那覇地裁
■同報告会
同日正午より奥武山 護国神社社務所 2階会議室
参加費 無料
お問い合わせ: 090‐9780‐7272 錦古里まで
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大田昌秀氏が最近出した新刊で、大城盛俊氏との出会いを自慢げに書いています
立ち見でしたので、詳細は分かりませんが、嘘つき同士、あ・うんの呼吸というものがあるのでしょう
見ただけで、同じ穴の ムジナだなと
しかし、大田さんも 逝く時にはきれいにして、行くべきだと思いますが ムリでしょうね 多すぎて
それは、このような記事の載る面以外の、本当に何気ない記事なのだそうですが、それは、その記事の載った地元紙の記者の中に、それがウソだと分かる人がいるにもかかわらず、事実確認が行われないまま載っていたとのこと。
ちなみにその会社に、この記事はウソだとわかる記者がいるのになぜ載せたのかと問い合わせたそうですが、訂正記事もなく現在に至っているとのこと。
沖縄の地元紙は、米軍・自衛隊・沖縄戦となると事実確認すらせずに、記事を載せてしまうんですね。