たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

神武ゆかりの地

2016-08-08 10:09:25 | 名草戸畔・神武東征

<上北山温泉 かみきたやまおんせん>

 

神武一行が通ったとされる奈良の山中には、

様々な神武伝説が残されています。

記紀に書かれた有名な場所だけでなく、

その周辺の村々のあちこちに、

「神武が立ち寄った」とされる

ゆかりのスポットがたくさんありました。

 

残念ながら今回は、それらの地を

ゆっくりと探索する時間はなかったのですが、

吉野川の源流へと続く北山川沿いには、

神武一行が湯治をした上北山温泉「薬師湯」や、

神武天皇が「国見」をしたとされる「大台ケ原」。

下北山村には、神武天皇が座ったとの伝承が残る

「平たい石」が、今も大切に保管されているそうです。


「熊」の神の狼煙

2016-08-07 10:06:12 | 名草戸畔・神武東征

<井光地区 いかりちく>

 

「熊野」といいますと一般的に、

紀伊半島南部のエリアを指す名称

として認識されていますが、

もともとは「神の宿る地」という意味で、

今の熊野地域に限定された言葉ではなかったようです。

 

神武一族が暮らしていた南九州の一部に、

「熊」本という名称がつけられたのも、

その場所に住む人々の間で、 熊本が「神の宿る地」

という意識があったからなのでしょう。

 

「熊」の地を統率すること抜きに、

日本という国や日本人の気持ちを、

ひとつにまとめることは無理でした。

熊本で発生した大きな自然現象は、

「熊」の神々が動き出したという、

神の上げた狼煙なのかもしれません。


神武東征の意図

2016-08-06 10:04:20 | 名草戸畔・神武東征

<宮崎神宮 みやざきじんぐう>

 

もし、神武天皇が2千年前の

阿蘇山の大噴火をきっかけに、

ヤマトへと向かう旅を始めたとすれば、

神武東征という一大事業は、

単に国家統一という政治的な意図だけでなく、

「日本を襲う天災を鎮める」という

見えざる理由が隠されていたのかもしれません。

 

今年前半九州では、熊本を震源とする大地震が発生し、

それに追い打ちをかけるように豪雨被害が発生しました。

阿蘇山噴火の兆候はまだないものの、もし山が鳴動すれば、

マグマの流れは中央構造線に沿って東へと向かうでしょう。

神武「東」征という言葉、そしてその不可解な行程の中には、

「様々な物事が九州から東に移る」という

秘められた暗示が含まれているのだと思います。


阿蘇山の大噴火

2016-08-05 10:02:19 | 名草戸畔・神武東征

<阿蘇山 あそさん>

 

一説によりますと、神武東征のきっかけを作ったのは、

2千年前の阿蘇山の大噴火だったという話があります。

実は高千穂神社に伝わる鬼八の伝説は、

先日の熊本地震で、大きな倒壊被害が出た、

熊本県の阿蘇神社にも伝わっており、

今でも近隣のゆかりの神社では、

鬼八を弔う行事が続いているのだとか。

 

両地区の伝承の内容には差があるものの、

どちらも「天孫族」に討たれた

「地祇(国津神)」という設定は同じです。

もしかすると、神武東征が行われた前後には、

紀伊半島周辺だけでなく、九州中南部地方でも、

様々な戦いが繰り広げられていたのでしょう。


謎の慣習

2016-08-04 10:00:07 | 名草戸畔・神武東征

<一言主神社 ひとことぬしじんじゃ>

 

宮崎県の高千穂神社には、神武天皇の兄である

三毛入野命(みけいりののみこと)が、

鬼八という悪鬼を退治したという伝説があります。

何でも鬼八は、神武一行が故郷を離れたすきに、

姫神を誘拐するなど悪行の限りを尽くしたため、

急きょ三毛入野命が帰還し、反乱を収めたのだとか。

ただ、鬼八を斬り殺し、その遺骸を埋めて、

大岩で抑えたにも関わらず、すぐに蘇生してしまうので、

三毛入野命は身体を三つに切り離したそうです。

 

この話を聞いて思い出すのは、

同じように遺骸を三つに切り刻まれた、

名草山の女首長・名草戸畔の伝承でしょう。

実は神武東征の物語を詳細に追っていくと、

「遺骸を三つ分けて埋めた」という文言が、

随所に見受けられます。

宇陀から忍阪にかけての戦いで討伐された

「土蜘蛛」も、その後身体を三つに刻まれ、

葬られたという言い伝えが残っています。


三毛入野命

2016-08-03 10:53:31 | 名草戸畔・神武東征

<高千穂神社 たかちほじんじゃ>

 

神武天皇の兄のひとりである

三毛入野命(みけいりののみこと)は、

熊野灘を航海中、熊野市の二木島付近で暴風に襲われ、

上陸直前亡くなったと伝えられています。

しかし実際には、「軍を離脱して日向(宮崎)に帰り、

故郷のために尽くした」という伝説も残っているのだとか。

 

高千穂の夜神楽で知られる宮崎県高千穂神社には、

神武天皇の兄である三毛入野命が祀られています。

 

以前、この神社を訪れたとき、

ご本殿の壁に刻まれた迫力ある神像が、

とても印象に残っていたのですが、

実はこの彫刻のモデルとなった人物が、

三毛入野命その人でした。

暴風の海に沈んだ後、もうひとりの兄、

稲飯命(いなひのみこと)の遺骸は発見されたものの、

三毛入野命の遺骸は見つからなかったそうです。


ササユリ

2016-08-02 10:49:55 | 名草戸畔・神武東征

<狭井神社 さいじんじゃ>

 

大神神社の境内を歩いておりましたら、

ササユリの花が咲いておりました。

ちょうどこの数日後(6月17日)には、

摂社である率川神社(いさがわじんじゃ)で、

「三枝祭」というお祭りがあり、

三輪山のササユリを率川神社へと送り届けるのだそうです。

 

率川神社のご祭神は、姫蹈韛五十鈴姫命

(ひめたたらいすずひめのみこと)という、

出雲系の神を父親に持つ女神で、

のちに神武天皇のお妃となった人物です。

日本統一という壮大な目標を成し遂げるため、

神武天皇が伴侶として選んだのは、

ヤマトの主である三輪神の元で生まれた、

国津神の家系の女性でした。


二人の皇女

2016-08-01 10:43:31 | 名草戸畔・神武東征

<檜原神社 ひばらじんじゃ>

 

天照太御神の御杖代となり巡幸の旅に出た、

倭姫命(やまとひめのみこと)と、

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)という

二人の皇女の軌跡をたどってみても、

奈良の山中や熊野の海岸沿いに、

立ち寄った形跡がありません。

 

名草戸畔との戦があった和歌山市付近は豊鍬入姫命が、

八十梟帥らの軍勢と争った宇陀市近辺には倭姫命が、

しばらく滞在した記録が残っているものの、

丹敷戸畔(にしきとべ)と対峙した荒坂の津には、

足を延ばしていないのが不思議です。

 

そこで、荒坂の津を熊野灘ではなく、

紀の川周辺だと仮定してみると、

名草に向かう途中で豊鍬入姫命が

立ち寄った可能性が出てきます。

 

神武天皇は丹敷戸畔を殺してはいなかったのか、

あるいは紀の川からヤマトを目指していたのか、

その真相を知っているのは、

古代海人族つまり「戸畔」と深く関わる

この二人の皇女なのでしょう。