<檜原神社 ひばらじんじゃ>
天照太御神の御杖代となり巡幸の旅に出た、
倭姫命(やまとひめのみこと)と、
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)という
二人の皇女の軌跡をたどってみても、
奈良の山中や熊野の海岸沿いに、
立ち寄った形跡がありません。
名草戸畔との戦があった和歌山市付近は豊鍬入姫命が、
八十梟帥らの軍勢と争った宇陀市近辺には倭姫命が、
しばらく滞在した記録が残っているものの、
丹敷戸畔(にしきとべ)と対峙した荒坂の津には、
足を延ばしていないのが不思議です。
そこで、荒坂の津を熊野灘ではなく、
紀の川周辺だと仮定してみると、
名草に向かう途中で豊鍬入姫命が
立ち寄った可能性が出てきます。
神武天皇は丹敷戸畔を殺してはいなかったのか、
あるいは紀の川からヤマトを目指していたのか、
その真相を知っているのは、
古代海人族つまり「戸畔」と深く関わる
この二人の皇女なのでしょう。