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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 南唐降る

2014-06-17 08:29:30 | 十八史略

周主還大梁、留兵圍壽州。唐兵復江北諸州。周主將皆棄去、并兵攻壽州。周主復自將如壽。唐人以城降。周主還大梁。已而復自將攻濠・泗。皆降。進攻楚州、遣兵取揚・泰。周主克楚州、還至揚州。唐主遣使、盡獻江北地。周主乃還。唐主更名景、去帝號、奉周正朔。

周主、大梁に還り、兵を留めて寿州を囲ましむ。唐の兵、江北の諸州を復す。周の守将皆棄て去り、兵を併せて寿州を攻む。周主復た自ら将として寿に如(ゆ)く。唐人、城を以って降る。周主、大梁に還る。已にして復た自ら将として濠(ごう)・泗(し)を攻む。皆降る。進んで楚州を攻め、兵を遣わして揚・泰を取らしむ。周主、楚州に克ち、還って揚州に至る。唐主使いを遣わして、尽く江北の地を献ず。周主乃ち還る。唐主、名を景と更(あらた)め、帝号を去り、周の正朔(せいさく)を奉ず

濠・泗 共に安徽省の州名。 楚州 今の江蘇省の地。 名を景と更め 南唐の主は李(えい)であったが周主栄に音が通じるため敬遠して改めた。 正朔を奉ず 正朔は暦のこと、その国の統治に服すること。

周主は大梁に還ったが、兵を留めて寿州を包囲させた。すると唐兵が盛り返して長江以北の諸州を取り返したので、守っていた周の将軍たちは皆城を棄て寿州攻略にかかった。それでも寿州は持ちこたえたので、周主は再び自ら指揮をして寿州を攻撃すると、さしもの唐軍も遂に降伏したのであった。周主は大梁に還ったが、しばらくして再び自ら将として濠州と泗州を攻撃した。忽ち二州は降伏した。さらに楚州を攻めながら、別に兵を遣わして揚州と泰州を取らせた。周主は楚州で勝ち、還って揚州まで来たところ、唐主が使者を遣わして和平を請い、長江以北の地を悉く献上したので、周主はこれを受けて大梁に凱旋した。南唐の主李は名を改め李景とし、皇帝の称号をやめて、周の暦に従って、臣下となった。

唐宋八家文 柳宗元 封建論

2014-06-13 10:00:36 | 唐宋八家文
始めに前回の訂正と追加の説明をしておきます。
爵位五等で順位が間違っておりました。公・侯・伯・子・男が正しい順位でした。
乖□の□の文字の説明がありませんでした。幺の下に幸その右に攵、さらにその下に皿、意味はそむきもとることです。
 

 秦有天下、裂都會而爲之郡邑、廢侯衞而爲之守宰。據天下之雄圖、都六合之上游、攝制四海、運於掌握之内。此其所以爲得也。不數載而天下大壞。其有由矣。亟役萬人、暴其威刑、竭其貨賄、負鋤梃謫戍之徒、圜視而合從、大呼而成羣。時則有叛人而無叛吏。人怨於下、而吏畏於上、天下相合、殺守刧令而竝起。咎在人怨。非郡邑之制失也。
 漢有天下、矯秦之枉、徇周之制、剖海内而立宗子、封功臣。數年之、奔命扶傷之不暇。困平城、病流矢、陵遲不救者三代。後乃謀臣獻畫、而離削自守矣。然而封建之始、郡邑居半。時則有叛國而無叛郡。秦制之得、亦以明矣。繼漢而帝者、雖百代可知也。唐興、制州邑、立守宰。此其所以爲宜也。然猶桀猾時起、虐害方域者、失不在於州而在於兵。時則有叛將而無叛州。州縣之設、固不可革也。

 秦天下を有(たも)ち、都会を裂いてこれを郡邑と為し、侯衛を廃してこれを守宰(しゅさい)と為す。天下の雄図に拠って、六合(りくごう)の上游(じょうゆう)に都し、四海を摂制して、掌握の内に運(めぐ)らす。此れその得たりと為す所以なり。
 数歳ならずして天下大いに壊(やぶ)る。それ故有り。亟(しばしば)万人を役(えき)して、その威刑を暴にし、その貨賄(かわい)を竭(つく)して、鋤梃(じょてい)を負うて謫戍(たくじゅ)するの徒、圜視(かんし)して合従し、大呼して群を成す。時に則ち叛人(はんじん)有って叛吏(はんり)無し。人下に怨みて、吏上(かみ)に畏れ、天下相合して、守を殺し令を刧(おびやか)して並び起こる。咎(とが)は人の怨みに在り。郡邑の制失するに非ざるなり。
 漢天下を有ち、秦の枉(おう)を矯(た)め、周の制に徇(したが)い、海内を剖(さ)いて宗子を立て、功臣を封ず。数年の間、命に奔(はし)り傷を扶(たす)けて暇あらず。平城に困(くる)しみ、流矢に病(なや)み、陵遅(りょうち)して救わざる者三代なり。後乃ち謀臣画(かく)を献じて離削(りさく)自ら守る。然り而うして封建の始め、郡邑半ば居る。時に則ち叛国有って叛郡無し。秦制の得、亦た以って明らかなり。漢に継いで帝たる者、百代と雖も知るべきなり。
唐興るや、州邑を制し、守宰を立つ。此れその宜しと為す所以なり。然れども猶、桀猾(けっかつ)時に起こり、方域に虐害するは、失は州に在らずして兵に在り。時に則ち叛将有って叛州なし。州県の設、固(もと)より革(あらた)むべからざるなり。


郡邑 郡県制。 侯衛 諸侯。 守宰 郡の太守と県の知事。 六合の上游 六合は天地四方、上游は上流、咸陽のこと。 四海を摂制 天下を支配すること。 威刑 威圧と刑罰と。 貨賄 金銭・物品。 鋤梃を負う すきと杖とを放り出す。 謫戍 国境守備に狩り出される。 圜視 周囲を見回す。 合従 枉を矯め 歪みをなおすこと。 陵遅 次第に。 離削 分割と削減。 桀猾 凶暴で悪賢い。 

秦が天下を治めると、大きな都市を区分して郡県制を作り、諸侯を廃止して郡県に太守、長官を置いた。天下統治の大計画に従って咸陽を都に定め天下を支配して自らの手の内で運用した。これは秦のやり方が当を得ていたためである。
 ところが数年のうちに天下が大騒乱にみまわれた。それには理由がある。しばしば人民を使役して威圧と刑罰を極限まで厳しくした。貨財を尽くし、農具を放り出して国境守備に狩り出された人々は、互いに見回して仲間をつくり、叫び声をあげて群れとなった。このとき謀叛を起こした人民はあったが、謀叛を起こした官吏はいなかった。人民は下に居て暴政を怨み、官吏は上に居て苛法を畏れていたのであった。各地で合同して暴動を起こし、太守を殺し、長官を脅迫して蜂起した。秦の過ちは人民の怨みを買ったことにあり、郡県制が失敗したからでは無いのである。
 漢が天下を支配すると、秦の政治の歪みを直し、周の封建制をとって、領地を分割して皇子を王に立て、功臣を諸侯とした。しかし数年のうちに反乱が起こり、平定の命令が四方に奔り、負傷者助けるいとまも無い程であった。高祖は平城で苦戦し、流れ矢に当たって傷ついた。王室は次第に衰えて救われないまま三代続いた。その後、智謀の臣が献策した。諸王の土地を分割削減してその子孫を封じせて、諸王を弱体化させて漢室を守った。漢の封建の始めには郡県制の郡と封建制の国が半々であった。その時には反乱した国はあったが、反乱した郡はなかったのである。秦の郡県制の優れたところはこれによっても明らかである。漢を継いで帝王となった者は、百代先まで郡県制がすぐれていることを知るべきである。
 唐王朝が興ると、州県を制度として、州には太守、県には知事を置いた。これは郡県制を良しとしたからにほかならない。それでもなお悪賢くずるい輩が時に起こって地方を苦しめ害を為すのは、州県の制にあるのではなく、兵の制にあったからである。時に反乱を起した将軍は居たが、反乱を起した州は無かったのである。州県の制はもとより改めるべきではないのである。


十八史略 趙匡胤皮笠を斫(き)る

2014-06-12 08:37:45 | 十八史略
周伐南唐。唐遣兵拒於壽州而敗。周主自將、大敗唐兵於正陽。唐將皇甫暉・姚鳳、保清流關。主命趙匡胤、倍道襲之。擒暉・鳳、克滁州。周師取揚・泰・光・舒・斳州。唐兵拒周師、復取泰州、攻揚州。周主命匡胤屯六合。唐兵來攻。奮撃大破之。將士有不致力者、匡胤陽爲督戰、以劍斫其皮笠。明日遍閲其笠、有劍跡者數十人。皆斬之。由是部兵莫敢不盡死。

周、南唐を伐つ。唐、兵を遣わして寿州に拒(ふせ)いで敗る。周主自ら将として、大いに唐の兵を正陽に敗る。唐の将皇甫暉(こうほき)・姚鳳(ようほう)清流関を保つ。主、趙匡胤に命じ、道を倍して之を襲わしむ。暉・鳳を擒(とりこ)にして、滁州(じょしゅう)に克つ。周の師、揚・泰・光・舒(じょ)・斳州(きんしゅう)を取る。唐の兵、周の師を拒いで、復た泰州を取り、揚州を攻む。周主、匡胤に命じて六合(りくごう)に屯(とん)せしむ。唐の兵来たり攻む。奮い撃って大いに之を破る。将士力を致さざる者有れば、匡胤陽(いつわ)って督戦を為し、剣を以って其の皮笠(ひりゅう)を斫(き)る。明日(めいじつ)遍(あまね)く其の笠を閲(えつ)するに、剣跡有る者数十人あり。皆之を斬る。是に由って部兵敢えて死を尽さざる莫(な)し。

寿州・正陽 今の安徽省の地名。清流関 滁州の西南部にあった関。 道を倍 急行すること。滁州 今の安徽省の地名。 泰州・揚州 ともに今の江蘇省の地。 六合 天地四方をいうがここでは江蘇省の地名。 陽 ふりをする、うわべ。 部兵 部下の兵。

周は再び南唐を伐った。唐は寿州で防戦したが敗れた。周主は自ら大将となって唐兵を正陽で大いに破った。唐の将軍の皇甫暉と姚鳳は退いて清流関に拠って固めた。周主は趙匡胤に命じて、道のりを倍にして急行させて皇甫暉と姚鳳を生け捕りにして滁州の戦いに勝った。周軍はさらに揚州、泰州、光州、舒州、斳州と占領していったが、唐の兵が盛り返して泰州を奪還し、揚州に攻め入った。周の主は趙匡胤を六合に駐屯させていたが、唐の兵が迫ってきた。匡胤は奮戦して散々に討ち破った。この戦いに匡胤は力を出さない将士に、剣を振りかざして督戦するよう見せかけて、皮の笠に傷を付けてまわった。翌日くまなくその笠を点検すると、傷跡のある者が数十人あり、ことごとくこれを斬った。これによって、部下の兵は死力を尽くさない者がいなくなった。

唐宋八家文 柳宗元 封建論 七ノ三

2014-06-10 11:36:25 | 唐宋八家文
夫堯舜禹湯之事遠矣。及有周而甚詳。周有天下、裂土田而瓜分之、設五等、邦羣后、布履星羅、四周于天下。輪運而輻集、合爲朝覲會同、離爲守臣扞城。然而降于夷王、害禮傷尊、下堂而迎覲者。歴于宣王、挾中興復古之、雄南征北伐之威。卒不能定魯侯之嗣。陵夷迄於幽、王室東徙、而自列爲諸侯矣。厥後、問鼎之輕重者有之、射王中肩者有之、伐凡伯誅萇弘者有之、天下乖□、無君君之心。余以爲周之喪久矣。徒建空名於公侯之上耳。得非諸侯之盛強、末大不掉之咎歟。遂叛爲十二、合爲七國。威分于陪臣之邦、國殄於後封之秦。則周之敗端、其在乎此矣。

 夫れ舜禹湯の事は遠し。有周に及んで甚だ詳(つまびら)かなり。周の天下を有(たも)つや、土田(どでん)を裂いてこれを瓜分(かぶん)し、五等を設けて、群后(ぐんこう)を邦(くに)にし、布履星羅(ふりせいら)して、天下に四周す。輪運(りんうん)して輻集(ふくしゅう)し、合して朝覲会同(ちょうきんかいどう)と為り、離れて守臣扞城(しゅしんかんじょう)と為る。
 然り而うして夷王(いおう)に降り、礼を害し尊を傷つけ、堂を下って覲者(きんしゃ)を迎う。宣王を歴(へ)て、中興復古の徳を挟み、南征北伐の威を雄にす。卒(つい)に魯侯の嗣(し)を定むる能わず。陵夷(りょうい)して幽・(れい)に迄(いた)り、王室東徙(とうし)して自ら列して諸侯と為る。
 その後、鼎の軽重を問う者これ有り、王を射て肩に中(あ)つる者これ有り、凡伯(はんぱく)を伐ち、萇弘(ちょうこう)を誅する者これ有り、天下乖□(かいれい)して、君を君とするの心無し。
 余以為(おも)えらく、周の喪(ほろ)ぶること久しと。徒(いたずら)に空名を公侯の上に建つるのみ。諸侯の盛強、末大にして掉(ふる)わざるの咎(とが)に非ざるを得んや。遂に判(わか)れて十二と為り、合して七国と為る。威は陪臣の邦(くに)に分かれ、国は後封(こうほう)の秦に殄(た)ゆ。則ち周の敗端それ此(ここ)に在り。


有周 有は国名などにそえる言葉。 瓜分 分割。 五等 侯・公・伯・子・男の五爵位。 群后 多くの諸侯。 布履星羅  四周 四方にめぐらす。 輪運 車輪のように囲む。 輻集 車輪のスポークのように中央に集まる。 朝覲 朝廷に参上すること。会同 諸侯が個別に天子に拝謁することを会といい、諸侯が一緒に拝謁することを同という。 守臣扞城 中央を守る臣と、外敵を防ぐ城。 夷王 第九代の王。 宣王 十一代の王。 陵夷 次第に衰える。 幽・ 十二代幽王、以民族の犬戎に殺された。十代王。 東徙 東僊。 鼎の軽重を問う者 楚の荘王が周王朝を侮辱した事件。 

舜・禹・湯の事は遠い昔のことでよくわからない。周代に及ぶとはっきりしてくる。周が天下を治めるのに土地を分割して、爵位五等を設けて多くの領主をそれぞれの国に封じて連ねて星のように四方に巡らした。さながら車の輪のように囲み、輻(や)のように中央に集まって参勤して拝謁し、散じては臣となって外敵を防ぐ城となった。
 しかし、第九代の戎王まで降ると礼を損ない尊厳を傷つけて、参勤の諸侯を王自ら堂を下って出迎えたのである。十一代の宣王が中興し尊厳を取り戻して南征北伐の威をふるった。しかしそれでも魯国の跡継ぎを決めるにあたって宗家の威光を通すことはできなかった。周朝は次第に衰えて幽王、王を経て遂に都を東の洛陽に遷し、自ら諸侯と同列になってしまった。
 その後も、定王に鼎の軽重を問う者が有り、桓王の肩を射た者があり、天子の使者凡伯を異民族が殺す事件があり、周の功臣萇弘を殺す事件があり、天下がみな道にそむいて、君主を君主として尊び仕える心を失くしていた。
 私の思うに、周が実質的に滅んだのはかなり前のことである。その後はただ名ばかりの天子を諸侯の上に立てていただけである。諸侯の力が強くなり、丁度尻尾が大きくなり過ぎて振り動かせなくなったのと同じことであろう。分裂して十二国となり、後に併呑して七国となった。天子の権威は諸侯の陪臣にまで分散し、新興の秦に滅ぼされたのである。こうした周の破綻の糸口は、この封建制にあったのである。

十八史略 精を務めて多を務めず

2014-06-07 09:18:19 | 十八史略
周主謂侍臣曰、兵務精不務多。農夫百、未能養戰士一。奈何浚民之膏血、養此無用之物乎。乃命大簡諸軍。又詔諸道、募天下壯士、咸遣詣闕。命匡胤選其尤者、爲殿前諸班。其騎歩諸軍、各命將帥選之。由是士卒精強、所向克捷。
周攻北漢。汾・遼・憲・嵐・石・泌・忻州、皆入于周。周主攻晉陽。不克。引軍還。
北漢主劉旻殂。子鈞立。周伐蜀、取秦・階・成・鳳州。

周主侍臣に謂って曰く「兵は精を務めて多を務めず。農夫百も、未だ戦士一を養うこと能わず。奈何(いかん)ぞ民の膏血(こうけつ)を浚(さら)えて、此の無用の物を養わんや」と。乃ち命じて大いに諸軍を簡(えら)ばしむ。又諸道に詔(みことのり)して、天下の壮士を募り、咸(ことごと)く闕(けつ)に詣(いた)らしむ。匡胤に命じて其の尤(ゆう)なる者を選ばしめて、殿前の諸班と為す。其の騎歩諸軍は、各々将帥に命じて之を選ばしむ。是より士卒精強にして、向こう所克捷(こくしょう)す。
周、北漢を攻む。汾(ふん)・遼(りょう)・憲(けん)・嵐(らん)・石(せき)・泌(しん)・忻(きん)州、皆周に入る。周主晋陽を攻む。克たず。軍を引いて還る。
北漢の主劉旻(りゅうびん)殂す。子の鈞立つ。周蜀を伐って、秦・階・成・鳳州を取る。



膏血 あぶらと血。 闕 宮城の門。 尤 優に通ず。 克捷 敵にうち勝つこと。 
 
周主柴栄があるとき侍臣に「兵は精強なることに務め、数を務めるべきでない。農夫百人でも兵士一人を養うことはできない。どうして民の血とあぶらをしぼり取って、役に立たない者どもを養うことがあろうか」と言って、命令を下して諸軍の弱卒を除かせた。また国中に詔を下して壮士を募集し、ことごとく宮城に召集し、趙匡胤に命じて特に優秀な者を選び抜いて宮城守護の部隊を編成させた。残った騎兵歩兵はそれぞれの将軍に選ばせた。この結果、士卒皆精強になり向かうところ敵なしとなった。
周が北漢を攻めて汾・遼・憲・嵐・石・泌・忻の七州を手に入れた。さらに晋陽を攻めたが勝たずに軍を引いて還った。
北漢主の劉旻が死んで子の鈞が立った。周が蜀を伐って秦・階・成・鳳の四州を取った。