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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 隋王楊堅、北周を亡ぼす

2012-08-18 09:00:40 | 十八史略

周主邕、深沈有遠識。政事嚴明。稱爲賢主。滅齊一年而殂。壽三十六。諡曰武皇帝。太子贇立、立皇后楊氏。后父隋公楊堅用事、爲上柱國大司馬。贇自爲太子時、好昵近小人。立未一年、傳位於子闡、自稱天元皇帝。驕侈彌甚。未一年而殂。諡曰宣皇帝。楊堅自爲大丞相、進相國隋王、加九錫。未幾、周主闡禪位于隋、尋被弑。隋主盡滅宇文氏之族。周自稱帝、至是五世、二十五年而亡。
陳主在位十四年。改元者一、曰大建。殂。太子立。是爲後主長城公煬公。

周主邕(よう)、深沈(しんちん)にして遠識有り。政事厳明なり。称して賢主と為す。斉を滅ぼして一年にして殂(そ)す。寿三十六。諡(おくりな)して武皇帝と曰う。太子贇(いん)立ち、皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用い、上柱国大司馬と為る。贇、太子たりし時より、好んで小人を昵近(じっきん)す。立って未だ一年ならずして、位を子闡(せん)に伝え、自ら天元皇帝と称す。驕侈(きょうし)弥(いよいよ)甚(はなは)だし。未だ一年ならずして殂す。諡(おくりな)して宣皇帝と曰う。楊堅自ら大丞相と為り、相国隋王に進み、九錫を加う。未だ幾(いくば)くならずして、周主闡、位を隋に禅(ゆず)り、尋(つ)いで弑せらる。隋主尽(ことごと)く宇文氏の族を滅ぼす。周、帝と称してより、是(ここ)に至るまで五世、二十五年にして亡びぬ。
陳主、在位十四年。改元すること一、大建と曰う。殂す。太子立つ。是を後主長城公煬公(ようこう)と為す。


昵近 昵懇にして近づけること。 

周主の宇文邕は、沈着で先を見通す識見をもっており、政治は厳正公明であったので賢主と讃えられた。北斉を滅ぼして一年にして没した。三十六歳であった。武皇帝とおくり名された。太子の贇が即位し、皇后として楊氏を立てた。楊皇后の父で隋公の楊堅が政治を専らにし、上柱国大司馬となった。贇は皇太子であったころから、好んで小人物を近づけた。即位して一年足らずで位を子の闡に譲り、自身は天元皇帝と称した。驕りたかぶることがいよいよつのり、一年経たぬうちに死んだ。おくり名して宣皇帝といった。
楊堅は自ら大丞相となり、相国隋王に進み、九種の特権を得た。そして間もなく、北周の主静帝宇文闡は帝位を隋に禅(ゆず)り、すぐに弑殺された。楊堅は他の宇文氏一族をも皆殺しにした。北周は帝と称してからここまで五世、二十五年で亡び、北朝は隋にとって代わられた。
一方南朝の陳では宣帝頊が在位十四年で死んだ。改元すること一回、大建という。太子が立った。これが後主長城公煬公である。

十八史略 北周、北斉を滅ぼす

2012-08-16 10:01:57 | 十八史略
昨夜、終戦の日に、NHKの番組で衝撃を受けた。先の大戦でソ連軍が参戦に踏み切ることを陸海軍は把握していた。というもので、この極秘情報は軍の上層部で握りつぶしていたようである。互いに口を閉ざし、会議だけが繰り返され日を費やしていた。早く停戦交渉にはいれば、広島・長崎の原子爆弾はもとより、シベリア抑留も防げたはずで今更ながら悔やまれてならない。翻って福島原発の事故の経緯をみるとき、過去の忌まわしい体質が払拭されているかどうか、はなはだ疑問である。

北齊主湛、傳位於太子緯、自稱太上皇帝。
陳主起自囏難、知民疾苦。性明察儉勤。在位八年殂。改元者二、曰天嘉、曰天康。太子立。是爲廢帝臨海王。
廢帝臨海王名伯宗。在位三年。改元者一、曰灮大。爲安成王頊所廢。
北齊上皇湛殂。諡曰武成皇帝
陳安成王自立。是爲高宗宣皇帝。
宣皇帝名頊。初陥入長安。文帝時、周人送頊還陳。至是即位。
周主邕誅宇文護、始親政。
北齊後主緯、多嬖寵、政亂。周伐齊入鄴、執緯、歸殺之、夷其族。北齊建國五世。三十年而亡。

北斉の主湛(たん)、位を太子緯(い)に伝え、自ら太上皇帝と称す。
陳主、囏難(かんなん)より起こって民の疾苦(しっく)を知る。性明察にして倹勤なり。在位八年にして殂(そ )す。改元すること二、天嘉といい、天康という。太子立つ。これを廃帝臨海王と為す。
廃帝臨海王、名は伯宗。在位三年改元すること一、灮大(こうだい)という。安成王頊(ぎょく)の廃する所と為る。
北斉の上皇湛殂す。諡して武成皇帝という。
陳の安成王自立す。是を高宗宣皇帝と為す。
宣皇帝、名は頊(ぎょく)。初め長安に陥入(かんにゅう)せらる。文帝の時、周人頊を送って陳に還す。是(ここ)に至って位に即く。
周主邕(よう)、宇文護を誅して、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。
北斉の後主緯、嬖寵(へいちょう)多く、政乱る。周、斉を伐って鄴(ぎょう)に入り、緯を執(とら)え、帰って之を殺し、其の族を夷(たいら)ぐ。北斉、国を建つること五世、三十年にして亡びぬ。


囏難 艱難におなじ。 灮 光の古字。 陥入 没入に同じ、財は没収、身柄は移されること。 嬖寵 嬖は気に入り。

北斉の国主高湛が帝位を太子の緯に伝えて自らは太上皇帝と称した。
陳主の文帝蒨(せん)は艱難の間から身を起こしたので、人々の苦難をよく知っていた。そのうえ人となりも明敏でつつましやかで勤勉だった。在位八年で世を去った(566年)。改元すること二回、天嘉と天康という。太子が立った。これが廃帝臨海王である。
廃帝臨海王は名を伯宗という。位に在ること三年、年号を改めること一回で光大という。安成王頊によって廃位させられた(568年)。
この年、北斉では上皇の高湛が死んだ。おくり名して武成皇帝という。
陳の安成王が廃帝を追放したのち、自ら帝位に即いた。高宗宣皇帝である。
高宗宣皇帝は名を頊である。以前西魏のために長安に抑留されていたが文帝のときに、西魏を亡ぼした北周が陳に送還してくれた。それで位に即いたのである。
北周の国主宇文邕は、太師の宇文護を誅殺し、始めて政治を自らの手で行った。
北斉の後主の高緯は佞臣、寵臣を多く近づけ、政治が乱れた。北周は北斉に攻め入って、都の鄴を陥れ、緯を捕えて連れ帰って殺し、一族を根絶やしにした。北斉は国を建ててから五世、三十年で亡んだ(577年)。ここに再び北朝は統一されたのである。

十八史略 骨肉の争い

2012-08-14 14:46:47 | 十八史略
文皇帝名蒨。武帝之兄子也。在武帝平梁亂時、已有功。至是即位。
周王毓稱帝。
北齊主洋、盡滅元氏之族。洋殂。諡曰文宣皇帝。
周宇文護憚周帝明敏有識量、進毒弑之。諡曰明皇帝。毓弟邕立。
北齊文宣帝之母弟、常山王演、廢其主殷而自立。尋弑殷。演立一年而殂。諡曰孝昭皇帝。母弟長廣王湛、又廢演子百年而自立。後殺百年。
後梁主詧殂。太子巋立。

文皇帝名は蒨(せん)。武帝の兄の子なり。武帝が梁の乱を平らげし時に在って已に功有り。是に至って位に即く。
周王毓(いく)、帝と称す。
北斉の主洋、尽く元氏の族を滅す。洋殂(そ)す。諡(おくり名)して文宣皇帝と曰う。
周の宇文護、周帝の明敏にして識量有るを憚り、毒を進めて之を弑す。おくり名して明皇帝と曰う。毓の弟邕(よう)立つ。
北斉の文宣帝の母弟、常山王演、其の主殷を廃して自立す。尋(つ)いで殷を弑す。演立って一年にして殂す。おくり名して孝昭皇帝と曰う。母弟、長広王湛(たん)、又演の子百年を廃して自立す。後百年を殺す。
後梁の主詧(さつ) 殂す。太子巋(き)立つ。


文皇帝名は蒨で武帝の兄の子である。武帝が梁の反乱を鎮定したときから、功績を重ね、ここに至って位に即いた。
この頃北周では王と称していた宇文毓(いく)が皇帝を称した。
北斉では国主の高洋が、東魏の王族の元氏をことごとく滅ぼしたが、この年世を去った。おくり名を文宣皇帝という。
北周の宇文護は周帝毓が聡明で見識度量に富むことに怖れをいだき、毒を進めて弑殺した。明皇帝とおくり名した。毓の弟邕が立った。
また北斉では文宣帝の同母弟で常山王の高演が、文宣帝の死後、位を継いだ高殷を廃して、自ら帝位に即き、間もなく殷を殺した。その高演は一年後に世を去った。おくり名を孝昭皇帝という。その同母弟の長広王高湛が演の子百年を廃して自ら帝位に即き、後に百年を殺した。
後梁の主蕭詧が亡くなって太子の巋が立った。


十八史略 陳の高祖

2012-08-11 08:28:54 | 十八史略
陳高祖武皇帝姓陳。名覇先。呉興人也。梁武帝大同中、爲廣州參軍。廣有亂。討平之。以功爲將軍。尋爲交州司馬、西江都護、高要太守、督七郡諸軍、屢平寇亂。侯景陥臺城。覇先時守始興。結郡中豪傑、起兵討景、先取江州、爲州刺史、引兵會諸軍、卒以平景、遂爲將相於梁、以至受禪。即位三年殂。改元者一、曰永定。子二人。昌・頊。皆以江陵陥時、没入長安。臨川王立。是爲世祖文皇帝。

陳の高祖武皇帝、姓は陳、名は覇先。呉興の人なり。梁の武帝の大同中、広州の参軍と為る。広に乱あり。討って之を平らぐ。功を以って将軍と為る。尋(つ)いで交州の司馬、西江の都護、高要の太守と為り、七郡の諸軍を督し、しばしば寇乱(こうらん)を平らぐ。侯景台城を陥(おとしい)る。覇先、時に始興に守たり。郡中の豪傑と結び、兵を起して景を討ち、先ず江州を取り、州の刺史と為り、兵を引いて諸軍を会し、卒(つい)に以って景を平らげ、遂に梁に将相と為り、以って禅(ゆずり)を受くるに至る。位に即いて三年にして殂(そ)す。改元すること一、永定と曰う。子二人有り。昌・頊(ぎょく)という。皆江陵の陥(おちい)りし時を以って、長安に没入(ぼつにゅう)す。臨川王立つ。是を世祖文皇帝と為す。

呉興 浙江省の郡の名。 広州 広東省の郡。 交州 越南北部の地。 西江 広西自治区附近。 高要 広東省の地名。 始興 広東省の郡。 江州 江西、福建省地方。 参軍 軍事参与。 司馬 軍事を管掌する将軍の属官。 都護 辺境の統治にあたる官。 太守 郡の長官。 刺史 州の行政の最高責任者。 寇乱 寇は徒党を組んで害を加えること。 台城 宮城。 没入 官により没収されること。

陳の高祖武皇帝、姓は陳、名は覇先といい、呉興の人である。梁の武帝の大同年間に、広州の参軍と為り、そこで起こった反乱を討って鎮圧し、その功によって将軍になった。続いて交州の司馬、西江の都護、高要の太守となって七郡の諸軍を率いて、しばしば擾乱を平らげた。
侯景が建康の宮城を陥れたとき、覇先は始興郡の太守であったが、郡中の剛勇の士を糾合して兵を起して侯景討伐に立ち上がり、まず江州を攻略して刺史となり、兵を率いて各地の軍を集め、ついに侯景の乱を平定した。そして大将軍、相国となって遂に梁より禅譲を受けるに至った。
位に即いて三年で歿した。改元したのは一回、永定という。陳昌・陳頊という二人の子がいたが、西魏が江陵に攻め入ったとき、家財ともども長安に送られた。それで甥の臨川王が立った(559年)。これが世祖文皇帝である。


十八史略 西魏は北周に、梁は陳覇先に禅譲す

2012-08-09 08:34:08 | 十八史略

敬皇帝名方智。元帝子也。年十三即位。陳覇先爲丞相。
西魏太師大冢宰安定公宇文泰卒。世子覺嗣。年十五。宇文護輔之。未幾、以覺爲周公。
西魏主廓禪于周。廓遇弑。後諡曰恭皇帝。西魏建國四世。二十四年而亡。覺。稱周天王。性剛果、惡護之專。護弑之。後諡曰孝閔皇帝。立泰之長子毓。
梁丞相陳覇先、爲相國、封陳公、加九錫、尋進爵爲王。梁主改元者二、曰詔泰、曰太平。尸位未三年而禪于陳、尋遇弑。梁自高祖武帝、至是四世。凡五十六年而亡。

敬皇帝名は方智。元帝の子なり。年十三にして位に即く。陳覇先、丞相となる。
西魏の太師大冢宰(たいちょうさい)安定公宇文泰卒(しゅっ)す。世子覚嗣(つ)ぐ。年十五なり。宇文護之を輔(たす)く。未だ幾ばくならずして、覚を以って周公となす。
西魏の主廓、周に禅(ゆず)る。廓、弑に遇う。後おくり名して恭皇帝と曰う。西魏、国を建つること四世、二十四年にして亡びぬ。覚、周天王と称す。性剛果にして、護の専(せん)なるを悪(にく)む。護之を弑す。後おくり名して孝閔皇帝と曰う。泰の長子毓(いく)を立つ。
梁の丞相陳覇先、相国となり、陳公に封ぜられ、九錫を加え、尋(つ)いで爵を進めて王となる。梁主、改元すること二、詔泰と曰い、太平と曰う。尸位(しい)未だ三年ならずして陳に禅(ゆず)り、尋いで弑に遇う。梁、高祖武帝自り、是に至るまで四世、凡(すべ)て五十六年にして亡びぬ。


大冢宰 天子を補佐し百官を統率する周代の官制。 世嗣 諸侯の後継ぎ。 剛果 剛毅果敢。 九錫 天子から賜った九種の特典、車馬・衣服・楽器・朱戸(門を朱塗りにする特典)・納陛(宮殿に昇降する権利)・虎賁(こほん勇猛な兵士三百人)・弓矢・鈇鉞(ふえつ 殺生の権)・秬鬯(きょちょう 祭祀に用いる酒)。 尸位 名目だけの帝位。 

敬皇帝の名は方智といい、元帝の子である。十三歳で帝位に即いた。陳覇先が丞相となった。
西魏の太師大冢宰で安定公の宇文泰が亡くなった。世嗣の宇文覚が後を継いだが十五歳だったので従兄の宇文護が輔佐した。間もなく覚が周公に任ぜられた。
西魏の国主元廓が周公に禅譲した(557年)元廓はすぐに弑殺され、後に恭皇帝とおくり名された。西魏は国を建てて四代、二十四年で滅んだ。宇文覚は周天王と称し、国は北周と呼ばれた。覚は生来剛毅で決断力に富んでいた。しかし政治の実権は従兄の宇文護がにぎっているのでこころよく思っていなかった。それと察知した護が先手をとって覚を弑殺して、後に孝閔皇帝とおくり名した。そして宇文泰の長男毓を立てた。
梁では丞相の陳覇先が相国となり、陳公に封ぜられ、さらに九錫が加えられた。つづいて爵位を進めて王となった。
西魏が滅んだ年、梁主の敬帝は詔泰・太平と二度改元し、名目だけの帝位にあること三年ならずして、陳王覇先に禅譲し、ついで弑殺された。梁は高祖武帝から敬帝まで四世五十六年で滅亡した。