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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 人、堯舜に非ず、何ぞ毎事善を尽くすを得ん

2012-03-13 11:20:53 | 十八史略

晉丞相王導卒。初帝即位沖幼。毎見導必拝。既冠猶然。委政於導。導以門地、王述爲掾。述未知名。人謂之癡。既見、問江東米價。述張目不答。導曰、王掾不癡。導毎發言、一坐莫不贊歎。述正色曰、人非堯舜、何得毎事盡善。導改容謝之。導性寛厚、所委任諸將、多不奉法。大臣患之。

晋の丞相王導卒す。初め帝、位に即いて沖幼なり。導を見る毎に必ず拝す。既に冠すれども猶お然り。政を導に委(まか)す。導、門地を以って、王述を掾(えん)と為す。述未だ名を知られず。人之を癡(ち)と謂う。既に見るとき、江東の米価を問う。述、目を張って答えず。導曰く「王掾(おうえん)は癡ならず」と。導、言を発する毎に、一座賛嘆せずということ莫(な)し。述、色を正して曰く「人、堯舜に非ず、何ぞ毎事善を尽くすを得ん」と。導、容(かたち)を改めて之を謝す。導の性寛厚、委任する所の諸将、多くは法を奉ぜず。大臣之を患(うれ)う。

沖幼 沖もおさないこと。 冠 礼記に「二十を弱と曰う、冠す」から二十歳のこと、弱冠。 門地 家柄。 掾 副官。 

晋の丞相の王導が死んだ(330年)。初め成帝が即位したときは幼かったので、王導を見ると必ず拝した。すでに成人してからもそれは変わらなかった。政治はすべて王導に委ねられた。王導は家柄の点から王述を副官に任命した。名の通っていない王述は、周りから能力を疑われていた。あるとき王導が江東の米価を聞いたところ、王述は目を見開いたまま答えなかった。すると王導は「王副官はバカではないよ」と言った。導が何か言うたびに坐の人々は賛同しない者はいなかったが、王述は「人はだれも堯や舜にはなれません。どうして全ての事に最善ということがありましょうか」と言った。導はいずまいを正して王述に謝した。王導が寛大温厚であったため、任用された将軍の中には法を守らなかった者も多く大臣たちはそれを心配した。

十八史略 拓跋什翼犍

2012-03-10 17:18:12 | 十八史略
代王什翼犍立。先是代王賀■卒。弟紇那嗣。紇那出奔。鬱律子翳槐立。紇那復還。翳槐奔趙。趙納翳槐于代。翳槐臨卒、命諸大人、立弟什翼犍。自猗盧死、國多内難、離散。什翼犍雄勇有智略、能修祖業、始制百官。號令明白、
政事清簡。百姓安之。於是東自濊貊、西及破落那、南距陰山、北盡沙漠、率皆歸服。有衆數十萬人。拓跋氏自是愈大。

代王什翼犍(じゅうよくけん)立つ。是より先、代王賀■(がとく)卒す。弟紇那(こつな)嗣ぐ。紇那出奔す。鬱律(うつりつ)の子翳槐(えいかい)立つ。紇那復た還る。翳槐趙に奔(はし)る。趙、翳槐を代に納(い)る。翳槐卒するに臨み、諸大人に命じて弟什翼犍を立てしむ。猗盧(いろ)の死せしより、国に内難多く、離散す。什翼犍、雄勇(ゆうゆう)にして智略有り、よく祖業を修め、始めて百官を制す。号令明白にして、政事清簡なり。百姓(ひゃくせい)之を安んず。是(ここ)に於いて東は濊貊(かいはく)より、西は破落那(はらくな)に及び、南は陰山を距(へだ)て、北は沙漠を尽し、率(おおむ)ね皆帰服す。衆数十万人有り。拓跋氏(たくばつし)是より愈々大なり。

代 チベット系遊牧民族、拓跋氏(1.17参照)猗盧-普根―(幼帝)―鬱律―賀■―紇那―翳槐―什翼犍。■ 人偏に辱。 

代王の什翼犍が立った。これより前、代王賀とくが死んで弟の紇那が後を嗣いだ。その紇那が出奔してしまったので、鬱律の子翳槐を立てた。ところが紇那がまた戻って来たので翳槐は趙に逃げた。趙では翳槐を援けて再び代に入れて王となった。翳槐は死に臨んで支族の長たちに命じて、弟の什翼犍を立てさせた。猗盧が死んで以来代では内紛が多く、離散したもあった。什翼犍は勇気智略ともに優れ、よく父祖の業を受け継ぎ、始めて百官の制を定めた。命令は平明で政事は簡潔であったから人々は安泰に暮らしていた。こうして東は濊貊から西は破落那に、南は陰山を境に、北は沙漠一帯まで、殆んど皆帰服した。民衆は数十万に達し、拓跋氏はますます大きくなった。

十八史略 陶侃、夢に八翼を生ず。

2012-03-08 08:45:01 | 十八史略

晉太尉陶侃卒。侃都督八州、威名赫然。或謂、侃曾夢生八翼上天門、至八重折左翼而下。力能跋扈、毎思折翼之夢、輒自制。在軍四十一年。明毅善斷。人不能欺。自南陵至白帝數千里、路不拾遺。
後趙石虎、殺其主弘、而自立爲趙天王、殺勒種無遺。
成、改國號曰漢。李雄以兄子班爲太子。雄卒。班立。雄子越、弑班而立其弟期。期忌雄弟漢王壽威名、使出屯于外。壽還、襲弑期而自立。

晋の太尉陶侃(とうかん)卒す。侃、八州を都督し、威名赫然たり。或いは謂う、侃曽(かつ)て夢に八翼を生じて天門に上り、八重(はっちょう)に至り、左翼を折って下る。力能(よ)く跋扈(ばっこ)すれども、翼を折るの夢を思う毎に、輒(すなわ)ち自制せりと。軍に在ること四十一年。明毅(めいき)にして善く断ず。人欺くこと能(あた)わず。南陵より白帝に至るまで数千里、路遺(お)ちたるを拾わず。
後趙の石虎、其の主弘を殺して、自立して趙天王と為り、勒の種を殺して遺(のこ)す無し。
成、国号を改めて漢と曰う。李雄兄の子班を以って太子と為す。雄卒す。班立つ。雄の子越、班を弑して其の弟の期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて外に屯せしむ。壽還り、襲うて期を弑して自立す。


八州 侃は明帝のとき荊・湘・雍・梁の四州を成帝のとき交・広・荊・江の四州を都督した。 八重 帝位が九重であるから、その一歩手前。 赫然 さかん、輝くさま。 跋扈 権勢を自由にすること。 明毅 明敏剛毅、才知がすぐれて意思が強いこと。 拾遺 落ちた物を拾うこと。 成 306年に成都王李雄が建てた国。

晋の太尉の陶侃が死んだ。侃は八州を治めて、威勢名望とも盛んであった。ある人が「陶侃が以前夢の中で八つの翼が生えて天門に上って、八重にまで達したが、九重に至る直前で左の翼を折ったために地に落ちた。それで、思うままに権力を行使することはできたが、翼を折った夢を思い出して自制したのだ」と言った。軍に在ること四十一年、明敏剛毅で決断力に富んでいたので誰も侃を欺くことはできなかった。南陵から白帝城に至るまで数千里の間、路に落ちている物を拾う者が居ないほどよく治まっていた。
後趙の石虎が、主の石弘を殺して自立して天王となり、石勒の子孫を残らず殺した。

成が国号を漢と改めた。李雄は兄の子班を太子とした。雄が死ぬと班が立ったが、雄の子の越が班を殺して弟の期を立てた。期は父の弟の漢王寿の威名を嫌って、成都から追い出して地方に駐屯させた。寿は還ると、不意に襲って期を殺して自ら立ったのであった。

十八史略 日月の皎然たるが如くなるべし

2012-03-06 09:26:01 | 十八史略
後趙石勒稱天王、尋稱帝。嘗大饗羣臣、問曰、朕可方古何主。或曰、過於漢高。勒笑曰、人豈不自知。卿言太過。若遇高帝、當北面事之、與韓・彭比肩耳。若遇光武、當竝驅中原。未知鹿死誰手。大丈夫行事。當礌礌落落、如日月皎然。終不效曹孟・司馬仲達、欺人孤兒寡婦、狐媚以取天下也。勒雖不學、好使人讀書而聽之、時以其意論得失。聞者悦服。嘗聽讀漢書、至酈食其勸立六國後、驚曰、此法當失。何以遂得天下。及聞張良諌、乃曰、頼有此耳。後遣使修好于晉。晉焚其幣。勒卒。子弘立。

後趙の石勒、天王と称し、尋(つ)いで帝と称す。嘗て大いに群臣を饗し、問うて曰く「朕は古(いにしえ)の何(いず)れの主に方(くら)ぶべきか」と。或るひと曰く「漢高より過ぎたり」と。勒笑って曰く「人豈(あに)自ら知らざらんや。卿の言(げん)太(はなは)だ過ぎたり。若(も)し高帝に遇(あ)わば当(まさ)に北面して之に事(つか)うべく、韓・彭と肩を比べんのみ。若し光武に遇わば当に中原に並駆(へいく)すべし。未だ鹿の誰が手に死するを知らず。大丈夫、事を行うや、当に礌礌落落(らいらいらくらく)たること、日月(じつげつ)の皎然(こうぜん)たるが如くなるべし。終(つい)に曹孟・司馬仲達が、人の孤児、寡婦を欺き、狐媚(こび)して以って天下を取るに效(なら)わざるなり」と。勒学ばずと雖も、好んで人をして書を読ましめて之を聴き、時に其の意を以って得失を論ず。聞く者悦服(えっぷく)す。嘗て漢書を読むを聴き、酈食其(れきいき)が六国(りくこく)の後(のち)を立つるを勧むるに至って、驚いて曰く「此の法当(まさ)に失すべし。何を以ってか遂に天下を得たる」と。張良の諌めを聞くに及んで、乃ち曰く「頼(さいわい)に此れ有るのみ」と。のち、使いを遣わして好(よしみ)を晋に修(おさ)む。晋、其の幣(へい)を焚(や)く。勒卒す。子弘(こう)立つ。

漢高 前漢の高祖。 北面 君主は南面。臣下は北面して見えたから。 韓・彭 韓信と彭越。 鹿 「中原に鹿を遂う」は帝位を争うこと。 礌礌 磊磊におなじ、小事に拘らないさま。 落落 度量の大きいさま。 皎然 明らかなさま。 曹孟 曹操。 司馬仲達 司馬懿。 狐媚 人を惑わすこと。 悦服 よろこんで従うこと。 酈食其 既出2009.9.8ただし(れいいき)と誤ってルビを振った。 頼 おかげで、都合よく。 好を修む 修好 国と国とが仲良くすること。 幣 礼物、進物。

後趙の石勒は天王と称し、やがて帝と称するようになった。あるとき群臣を集めて饗応の席で「朕はいにしえの君主のうちでだれと比肩しうるであろうか」と言うと、一人が「漢の高祖にもすぐれておりましょう」と言うと、笑って「何のおのれの器量ぐらい知らずにどうする。そなたの言はちと過ぎるぞ、もし高祖と巡り合えたとしたら、臣下の礼を取ってせめて韓信や彭越と肩を並べる位いのものだ。もし光武帝に出会えたなら、中原に馬を駆ってどちらが覇権を手にするだろうか。大丈夫たるもの、事を成すにもこせこせせずにからりと日月の輝きの如くやってのけたいものだ。曹操や司馬懿のように孤児や寡婦をたぶらかすようなまねはしたくないものだ」言った。石勒は学問はしなかったが、好んで人に書物を読ませてそれを聞き、時に自分の考えでその得失を語るのだが、それが周りの者を感服させた。あるとき漢書を読ませていたが酈食其が六国の王の子孫を再び封ずるように進言する場面になると石勒は驚いて「まさかそんなことを聞き入れて、どうして天下が取れたのか」といぶかった。そして張良の諌めるに至って「なるほど、そのせいか」と納得した。後に使いをおくって晋と修好を結ぼうとしたが、晋はその礼物を焼いて、拒絶した。
石勒が亡くなった。子の弘が立った。


十八史略 温嶠裾を絶って母に別る

2012-03-03 09:14:26 | 十八史略
後趙主石勒、大破趙兵、獲趙主劉曜。曜與勒連攻戰、互勝負。曜攻後趙金墉城。勒自將救之、大戰于洛陽。趙兵大潰。曜醉堕馬、爲勒獲。歸殺之。前趙亡。
晉驃騎將軍温嶠卒。嶠初爲劉琨所遣、使江東。母不欲。嶠絶裾而去。既至不復得歸北。終身以爲恨。嶠盡心晉室。敦・峻之平皆嶠力。

後趙の主石勒(せきろく)、大いに趙の兵を破り、趙主の劉曜を獲(え)たり。曜、勒と連(しき)りに攻戦して互いに勝負あり。曜、後趙の金墉城(きんようじょう)を攻む。勒、自ら将として之を救い、大いに洛陽に戦う。趙の兵大いに潰(つい)ゆ。曜、酔うて馬より堕(お)ち、勒の為に獲らる。帰って之を殺す。前趙亡ぶ。
晋の驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)温嶠(おんきょう)卒す。嶠初め劉琨(りゅうこん)の為に遣(つか)わされて、江東に使いす。母欲せず。嶠、裾を絶って去る。既に至って復北に帰るを得ず。身を終うるまで以って恨みとなせり。嶠、心を晋室に尽す。敦・峻の平らぎしは皆嶠の力なり。


勝負 勝ったり負けたり。 前趙 後趙の石勒に対していう。

後趙の主の石勒は、趙の軍を大いに破って、趙主の劉曜を生け捕りにした。それまで劉曜と石勒は戦闘を続け、勝ち負けを繰り返していたが、このとき劉曜が金墉城を攻めた。石勒は急きょ自ら兵を指揮して救援に駆けつけ、洛陽で大会戦となった。趙の兵が総崩れとなり、劉曜は酔って落馬し、石勒の兵に捕えられた。石勒は凱旋してからこれを殺した。こうして前趙は亡んだ(329年)。
晋の驃騎将軍、温嶠が死んだ。温嶠は以前劉琨に遣わされて江東に使者となった。嶠の母が行かせまいと袖にとりすがったのを振り切って出発した。果たして二度と北に帰ることができず、母に背いたことを一生悔いた。嶠は誠心誠意晋の皇室のため尽した。王敦や蘇峻の乱が平定できたのも、皆温嶠の力であった。