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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 成帝

2012-03-01 09:12:45 | 十八史略
父は忠臣たり、子は孝子たり。何ぞ恨みん

顯宗成皇帝名衍。母庾氏。五歳即位。司徒導與帝舅中書令庾亮輔政。太后臨朝。
歴陽内史蘇峻反。峻前守臨淮。於王敦再犯闕時、入衞有功。威望漸著。及在歴陽、卒鋭器精。志輕朝廷、招納亡命。庾亮修石頭城以備之、建請徴峻爲大司農。峻擧兵陥姑孰。尚書令卞壺督軍、與峻力戰死。二子随之、亦赴敵死。母撫其屍曰、父爲忠臣、子爲孝子。何恨。庾亮出奔。峻兵犯闕。陶侃・温嶠、入討峻斬之。

顕宗成皇帝、名は衍(えん)。母は庾氏(ゆし)。五歳にして即位す。司徒導、帝の舅(きゅう)中書令の庾亮と政(まつりごと)を輔(たす)く。太后朝(ちょう)に臨む。
歴陽の内史蘇峻(そしゅん)反す。峻前(さき)に臨淮(りんわい)に守たり。王敦の再び闕(けつ)を犯しし時に於いて、入衛して功有り。威望(いぼう)漸く著(あら)わる。歴陽に在るに及んで、卒鋭に器精なり。志、朝廷を軽んじ、亡命を招納(しょうのう)す。庾亮石頭城を修して以って之に備え、建請(けんせい)して峻を徴(ちょう)して大司農と為す。峻、兵を挙げて姑孰(こじゅく)を陥(おとしい)る。尚書令卞壺(べんこ)軍を督し、峻と力戦して死す。二子之に随(したが)い、亦敵に赴いて死す。母其の屍を撫して曰く、「父は忠臣たり、子は孝子たり。何ぞ恨みん」と。庾亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃(とうかん)・温嶠(おんきょう)、入って峻を討って之を斬る。


歴陽 今の安徽省の県名。 内史 書記官。 臨淮 安徽省の郡名。 闕 宮城。 卒鋭 兵卒が精鋭なこと。 器精 兵器が精剛なこと。 亡命を招納 亡命者を招きいれること。 建請 建議要請。 大司農 財務長官、実権は無かった。 姑孰 安徽省の地名。 

顕宗成皇帝は名を衍という。母は庾氏でわずか五歳にして即位した。司徒の王導と帝の舅にあたる中書令の庾亮とで政治を補佐し、太后が帝に代わって朝廷に臨んだ。
歴陽の内史、蘇峻が謀叛を起こした。蘇峻は以前臨淮郡の太守であった。王敦が二度目に宮城に押し入ろうとしたとき、宮門を守って功があり、名が知れわたった。歴陽に移ってから兵を鍛え、武器を整えて次第に朝廷をも軽んじるようになり、亡命者を受け入れた。危機に感じた庾亮は石頭城を修理して来襲に備えることとし、蘇峻を大司農にして朝廷に参内させるよう奏上した。一方蘇峻はこれを機に謀叛の腹を決め、まず姑孰を陥れた。尚書令の卞壺が軍を指揮して力戦したが及ばずに敗死した。二人の子も続いて敵陣に斬り込んで死んでしまった。母はその屍骸を撫でながら「父さんは国のために死んで忠臣となり、お前たちは父さんに殉じて孝子となったのだもの、決して恨みはしないよ」と語りかけた。庾亮は敗走し、峻の兵が宮城に攻め入った。しかし陶侃と温嶠が反乱軍を討って蘇峻を斬り殺した。