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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 ゆ翼、桓温を薦む

2012-03-24 09:28:25 | 十八史略

瑯琊内史桓温、豪爽有風概。翼嘗薦之曰、英雄之才、宜委以方・召之任。至是翼以滅胡取蜀爲己任、欲悉衆北伐、移鎭襄陽。詔翼都督征討諸軍。翼以温爲前鋒督。
韓主李壽卒。子勢立。
帝在位三年崩。改元者一。曰建元。太子立。是爲孝宗穆皇帝。

瑯琊(ろうや)の内史桓温(かんおん) 豪爽にして風概(ふうがい)有り。翼嘗て之を薦めて曰く、「英雄の才、宜しく委ねるに方・召の任を以ってすべし」と。是に至って翼、胡を滅ぼし蜀を取るを以って己が任と為し、衆を悉(つく)して北伐せんと欲し、移って襄陽を鎮(しず)む。翼に詔(みことのり)して征討の諸軍を都督せしむ。翼、温を以って前鋒の督(とく)と為す。
漢主李壽卒す。子勢立つ。
帝、在位三年にして崩ず。改元する者(こと)一。建元と曰う。太子立つ。是を孝宗穆(ぼく)皇帝と為す。


内史 内務大臣。 豪爽 気性がすぐれて爽やかなこと。 風概 風格。 方・召 方叔と召伯と共に周の中興の功臣。 

瑯琊の内史の桓温は、豪快で爽やか、風格があった。庾翼はあるとき桓温を推薦して、「英雄の才がある。周の功臣方叔と召伯に並ぶ役目を任せるべきである」といった。ここに至って庾翼は胡を滅ぼし、蜀の地を奪還することが自分の役目と考え、ある限りの兵を繰り出して北を討とうとして、襄陽に移って鎮台とした。康帝が庾翼に征討諸軍事都督の詔を下した。庾翼は桓温を前鋒の都督に任命した。
漢主の李寿が死んで子の勢が立った。
康帝が在位三年で崩じた(344年)改元すること一回で、建元という。太子が即位した、これが孝宗穆皇帝である。

十八史略 康皇帝

2012-03-22 13:47:45 | 十八史略
淵源出でずんば、当に蒼生を如何にすべき

康皇帝名嶽。成帝臨崩以嶽爲嗣。遂即位。
都督荊江等州軍事庾翼、爲人慷慨、喜功名、不尚浮華。殷浩才名冠世。翼弗之重曰、此輩宜束之高閣、俟天下太平、徐議其任耳。時人擬浩管葛、伺其出處、以卜興亡。曰、淵源不出、當如蒼生何。翼請浩爲司馬。不應。翼以王夷甫嘲之。

康皇帝名は嶽。成帝崩ずるに臨んで嶽を以って嗣(し)となせり。遂に位に即く。
都督荊江等の州軍事庾翼(ゆよく)、人となり慷慨、功名を喜び浮華を尚(たっと)ばず。殷浩の才名世に冠たり。翼之を重んぜずして曰く、「此の輩宜しく之を高閣に束(つか)ねて、天下の太平を俟(ま)って徐(おもむろ)に其の任を議すべきのみ」と。時人浩を管・葛(かつ)に擬し、其の出処を伺うて、以って興亡を卜(ぼく)す。曰く、「淵源出でずんば、当(まさ)に蒼生を如何にすべき」と。翼、浩を請うて司馬と為さんとす。応ぜず。翼、王夷甫を以って之を嘲る。


庾翼 庾亮の弟。 慷慨 意気盛んなこと。 管・葛 管仲と諸葛亮。 淵源 殷浩のあざな。 蒼生 人民。 王夷甫 王衍(既出2011.12.29)のこと。竹林の七賢の一人山濤が評して「天下の蒼生を誤る者は未だ必ずしも此の人に非ずんばあらざるなり」言った人物。

康皇帝は名を嶽という。成帝が崩ずるに際して嶽を後継ぎにし、位に即いた。
都督、荊・江等の州軍事である庾翼はその人となり、意気盛んにして功名を尊び、軽佻さを嫌った。当時殷浩の才名は天下に鳴り響いていたが、清談の風を嫌っていた庾翼は、「こんな連中は一からげにして高殿に放り込んで、太平になってから使い道でも考えればいい」と言った。それでも人々は殷浩を管仲・諸葛亮になぞらえ、その出処進退がそのまま国の興亡を左右するといって、「淵源が出なければわれわれはどうなるのか」とまで評判した。庾翼はそこで帝に請うて殷浩を司馬にしようとしたが、殷浩が断った。それで庾翼は王衍になぞらえて暗に殷浩を嘲った。


「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何にせん」はここから出た。

十八史略 

2012-03-20 09:44:48 | 十八史略
晉封慕容皝爲燕王。自皝父廆爲遼東公、立皝爲世子。雄毅多權略、喜經術。廆卒。皝立。其下勸稱王。皝使請晉。遂封之。
帝在位十八年。頗有勤儉之。改元者二。曰咸和・咸康。崩。二子丕・奕在襁褓。帝母弟瑯琊王立。是爲康皇帝。

晋、慕容皝(ぼようこう)を封じて燕王と為す。皝の父廆(かい) 遼東公と為りしより、皝を立てて世子と為す。雄毅にして権略多く、経術を喜ぶ。廆卒す。皝立つ。其の下(しも)勧めて王と称せしむ。皝、晋に請わしむ。遂に之を封ぜり。
帝、在位十八年。頗る勤倹の徳有り。改元する者(こと)二。咸和(かんわ)・咸康という。崩ず。二子丕(ひ)・奕(えき)、襁褓(きょうほ)に在り。帝の母弟瑯琊王(ろうやおう)立つ。是を康皇帝と為す。


雄毅 雄々しく強いこと。 権略 臨機応変の計略。 経術 四書五経などの経書を学ぶこと。 襁褓 おしめ、乳飲み子のこと。母弟 同母の弟。

晋は慕容皝を封じて燕王とした。慕容皝の父廆は遼東公となってから皝を嗣に立てて世子に決めていた。勇壮剛毅で才略に富み、経書を読むことも好んだ。慕容廆が死ぬと、皝が立ったのを機に臣下が王と称することを勧めた。皝が晋に王号を請わせると、晋は願いを容れて燕王に封じた。
成帝は位に在ること十八年。たいそう勤勉倹約の美徳があった。改元すること二回、咸和、咸康という。帝が崩じたとき、丕と奕の二子がいたが、未だ乳呑み児であったので、帝の同母弟の瑯琊王が立った。これが康皇帝である

十八史略 ゆ亮、泥首して罪を謝す

2012-03-17 09:29:59 | 十八史略
晉司空庾亮卒。初蘇峻之亂、亮激之也。峻平、亮泥首謝罪、求外鎭自效。後都督江・荊等州諸軍事、辟殷浩參軍。浩與褚裒、皆識度清遠。善談老・易、擅名江東。而浩尤爲風流所宗。亮欲開復中原、上疏請率大衆、移鎭石城、遣諸軍羅布江・沔、爲伐趙之規。蔡謨曰、不能以大江禦蘇峻。安能以沔水禦石虎。乃詔亮、不聽移鎭。至是卒于武昌。

晋の司空庾亮(ゆりょう)卒(しゅっ)す。初め蘇峻の乱は、亮之を激したればなり。峻平らぎ、亮泥首(でいしゅ)して罪を謝し、外鎮を求めて自ら效(いた)す。後、江・荊等の州の諸軍事を都督し、殷浩(いんこう)を辟(め)して参軍とす。浩、褚裒(ちょほう)と、皆識度清遠なり。善く老・易を談じ、名を江東に擅(ほしいまま)にす。而して浩、尤も風流の為に宗(そう)とせらる。亮、中原を開復せんと欲し、上疏(じょうそ)して大衆を率い、移って石城を鎮し、諸軍を遣(や)って江・沔(べん)を羅布(らふ)し、趙を伐つの規を為さんと請う。蔡謨(さいぼ)曰く「大江を以って蘇峻を禦(ふせ)ぐこと能わずして、安(いずく)んぞ能(よ)く沔水を以って石虎を禦がん」と。乃ち亮に詔(みことのり)して、鎮を移すを聴(ゆる)さざりき。是に至って武昌に卒す

泥首 頭を土につけて拝礼する。 效す つとめる、手柄をたてる。 識度 識見と度量。 風流 老荘思想を談論すること、風流人士、清談家。 開復 とりもどす、回復。 江沔 漢江と沔水。 羅布 つらねる、並べる。 規 計る、手本。

司空の庾亮が死んだ。以前に蘇峻が反乱を起こしたのは、庾亮がそそのかしたからである。蘇峻の乱が平定されると庾亮は頭を地にすりつけて罪を詫び、自ら地方の鎮撫を志願し、功績をあげて償おうとした。後に江州・荊州等の都督州軍事となった。
庾亮は殷浩を軍事参与に任用した。殷浩と褚裒とは、ともに識見度量が清明深遠で、よく老子や周易を談じて江東にあまねく知れ渡り、特に殷浩は風流人士として清談家の尊敬を集めていた。庾亮はまた中原を回復すべく諸軍を結集して石城に鎮台を移し、漢江・沔水に兵を連ねて布陣し、趙を討つ計画を上書した。蔡謨がこれに反対して、「大江をもってしても蘇峻を防ぐことができなかったのに、どうして沔水をもって石虎を防ぐことができましょうか」と。そこで詔を下し、庾亮に鎮台を移すことを許さなかった。こうして庾亮は志を遂げぬまま武昌で死んだ。


十八史略  角巾して第に帰らん

2012-03-15 09:58:44 | 十八史略
庾亮欲起兵廢導。或勸導蜜備。導曰、吾與元規、休戚是同。元規若來、吾便角巾歸第。復何懼哉。亮雖居外鎭而遥執朝權、據上流、擁強兵。趨勢者多歸之。導内不能平。嘗遇西風塵起、擧扇自蔽、徐曰、元規塵汚人。導簡素寡欲、善因事就功。雖無日用之、而歳計有餘。輔相三世、倉無儲穀、衣不重帛。

庾亮、兵を起こして導を廃せんと欲す。或るひと導に勧めて密かに備えしむ。導曰く「吾と元規とは、休戚是れ同じ。元規若(も)し来らば、吾便(すなわ)ち角巾して第(てい)に帰らん。復た何ぞ懼れんや」と。亮、外鎮に居ると雖も、而も遥かに朝権を執り、上流に拠(よ)って、強兵を擁す。勢いに趨(おもむ)く者多く之に帰す。導内平らかなる能(あた)わず。嘗て西風に塵の起こるに遇い、扇を挙げて自ら蔽い、徐(おもむろ)に曰く「元規の塵、人を汚す」と。
導、簡素寡欲、善く事に因(よ)って功を就(な)す。日用の役無しと雖も、而も歳計に余りあり。三世に輔相(ほしょう)として、倉に儲穀(ちょこく)無く、衣、帛(はく)を重ねず。


元規 庾亮のあざな。 休戚 休は幸い、戚は憂の意でよいことと悪いこと。 角巾 隠者のかぶりもの。 第 邸、やしき。 外鎮 地方鎮撫の役所。輔相 天子を輔けて政治を行う人。 儲穀 備蓄の穀物。

庾亮が兵を起こして王導を追放しようとする気配が窺えた。或る人が備えを固めるよう勧めたが、王導は「自分と元規とは共に国家の喜憂を分かち合う仲だ。もし元規がわしを逐おうとするなら、わしは隠者の頭巾をかむって家に帰るだけの話だ、何を懼れることがあろうか」と取り合わなかったが、庾亮が外に居ながら、遥かに朝廷の権勢をも握り、揚子江上流に本拠を置いて、強大な兵力を擁していた。勢力のおもむくところ付き従う者も多く、王導も内心穏やかではいられなかった。あるとき西風が砂ぼこりを巻き上げると扇で風をさえぎりながら「元規の塵かな人を汚す」とつぶやいた。
王導は簡素で欲が無く、最善の方法で物事を処理した。その日一日の益は無いようでも一年経った後には余りがでるといった風であった。元帝・明帝・成帝に宰相として仕えながら、倉には蓄えがなく、着る物も質素で、絹を重ねることがなかった。