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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 恵帝、華林園に蛙鳴を聞く

2012-01-07 08:46:41 | 十八史略
天下大いに乱る
帝食麺中毒而崩。或曰、東海王越鴆之也。帝昏愚。天下大饑。帝曰、何不食肉糜。華林園聞蛙鳴。帝曰、彼鳴者糜、爲官乎、爲私乎。左右戲之曰、在官地者爲官、在私地者爲私。方賈氏專政、時人知將亂。索靖指洛陽宮門銅駝、歎曰、會見汝在荊棘中耳。趙王倫亂後、諸王迭相殘滅、天下大亂。

帝、麺を食らい、毒に中(あた)って崩ず。或ひと曰く、「東海王越、之を鴆(ちん)するなり」と。帝昏愚なり。天下大いに餞(う)う。帝曰く、「何ぞ肉糜(にくび)を食らわざる」と。
華林園に蛙鳴(あめい)を聞く。帝曰く、「彼(か)の鳴く者は、官の為にするか、私の為にするか」と。左右、之に戯れて曰く、「官地に在る者は官の為にし、私地に在る者は私の為にす」と。
賈氏の政を専らにするに方(あた)って、時人、将(まさ)に乱れんとするを知る。索靖(さくせい)洛陽宮門の銅駝(どうだ)を指さして歎じて曰く、「会(かなら)ず、汝が荊棘(けいきょく)の中に在るを見んのみ」と。
趙王倫の乱後、諸王、迭(たが)いに相残滅し、天下大いに乱る


鴆 鴆毒。 肉糜 肉入りの粥。 銅駝 銅製の駱駝像。 

恵帝は麺を食べて中毒を起こして死んだ(307年)。東海王司馬越が鴆毒を盛って殺したという人もいた。
恵帝は暗愚の性質と思われていた。天下が飢饉にあえいでいた年、帝は「米が無いのならどうして肉粥を食べないのか」と言われた。また華林園に遊んだとき、蛙の声を聞き、左右の者にこう言った。「あの蛙は役目と心得て鳴いているのか、それとも勝手に鳴いているのか」と。側近の者はあきれて「官の土地にいる蛙は 官の為に鳴いています。私有地にいる蛙は自分の為に鳴いております」と半ばあなどって答えた。
賈后が朝政を左右するようになって、当時の人々は世が乱れはじめたことを知った。索靖という者が、洛陽宮の門前の駱駝の銅像を指さし、「きっと廃墟の草むらにお前だけが立っていることだろうよ」と歎息した。果たして趙王司馬倫の乱の後、諸王が互いに攻め合い滅ぼし合って、天下は大いに乱れた。


十八史略 八王の乱

2012-01-05 16:22:49 | 十八史略

冏輔政。驕奢擅權。顒使長沙王乂殺之。頴亦恃功驕奢。已而與顒擧兵反。乂奉帝及頴戰。頴將陸機戰敗被収。歎曰、華亭鶴唳可復聞乎。與弟雲、皆爲頴所殺。機・雲皆陸抗子也。頴進兵入京師、爲丞相。已而還鄴。顒表頴爲皇太弟。東海王越、奉帝命征頴。頴遣兵拒戰于蕩陰。乘輿敗績。侍中嵆紹、以身衞帝。被殺、血濺帝衣。頴迎帝入鄴。左右欲浣帝衣。帝曰、嵆侍中血、勿浣也。頴奉帝還洛。顒將張方在洛、遷帝於長安。顒廢太弟頴、更立豫章王熾爲太弟。東海王越發兵、西入長安、奉帝還洛、以越輔政。成都王頴、先據洛陽。已而奔長安、又自武關奔新野、遂北濟河、収故將士、爲頓丘太守所執。時范陽王虓據鄴。送頴於虓。未幾被殺。

冏(けい)、政(まつりごと)を輔(たす)く。驕奢(きょうしゃ)にして権を擅(ほしいまま)にす。顒(ぎょう)、長沙王乂(かい)をして之を殺さしむ。頴(えい)も亦驕奢なり。已(すで)にして顒と兵を挙げて反す。乂、帝を奉じて頴と戦う。頴の将陸機、戦い敗れて収(とら)えらる。歎じて曰く、「華亭の鶴唳(かくれい)復た聞く可(べ)けんや」と。弟雲と皆頴の殺す所と為る。機・雲は皆陸抗(りくこう)の子なり。頴、兵を進めて京師に入り、丞相と為る。已にして鄴(ぎょう)に還る。顒、頴を表して皇太弟と為す。東海王越、帝の命を奉じて頴を征す。頴、兵を遣わして蕩陰に拒(ふせ)ぎ戦う。乗輿(じょうよ)敗績(はいせき)す。侍中嵆紹(けいしょう)、身を以って帝を衛(まも)る。殺さる。血、帝の衣に濺(そそ)ぐ。頴、帝を迎えて鄴に入る。左右、帝の衣を浣(あら)わんと欲す。帝曰く「嵆侍中の血なり、浣うこと勿れ」と。頴、帝を奉じて洛に還る。顒の将張方、洛に在り、帝を長安に遷(うつ)す。顒、太弟頴を廃して、更に予章王熾(し)を立てて太弟と為す。東海王越、兵を発して西のかた長安に入り、帝を奉じて洛に還り、越を以って政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に拠(よ)る。已にして長安に奔(はし)り、又、武関より新野に奔り、遂に北のかた河を済(わた)り、故(もと)の将士を収め、頓丘(とんきゅう)太守の執(とら)うる所と為る。時に、范陽王虓(こう)鄴に拠る。頴を虓(こう)に送る。未だ幾(いくばく)ならずして殺さる。


華亭 江蘇省松江県、陸機の領内。 鶴唳 鶴の鳴き声。 乗輿 天子の乗物、転じて天子。 敗績 大敗して過去の功績を失うこと。 侍中 天子の顧問官。

斉王司馬冏(しばけい)が朝政の補佐にあたったが、驕りたかぶって権勢をほしいままにした。司馬顒(しばぎょう)は長沙王司馬乂(しばかい)に冏を殺させた。司馬頴(しばえい)もまた、司馬倫討伐の功をたのんで驕奢になり、やがて司馬顒と共に兵を挙げて恵帝に謀叛した。司馬乂は帝を奉じて司馬頴らと戦ったがこの時、頴の部将の陸機は、敗戦の罪に問われ「華亭の鶴の鳴き声を聞くことができなくなった」と歎息して弟の陸雲とともに、頴に殺された。二人は嘗ての呉将陸抗の子である。その後、頴は兵を進めて京師に入り、丞相となったが、やがて鄴に還った。司馬顒は帝に上奏して頴を皇太弟にした。東海王の越は、恵帝の詔を奉じて頴を征伐した。頴は兵を遣わして蕩陰で防戦した。この戦いに帝の軍が惨敗した。侍中の嵆紹が身体を張って帝を庇って殺された。血しぶきが帝の衣にかかった。司馬頴は恵帝を迎え、鄴に入らせた。左右の者が衣を洗おうとしたところ、恵帝はそれをおしとどめて、「嵆侍中の血なり洗ってはならぬ」と命じた。やがて司馬頴は恵帝を奉じて洛陽に還った。洛陽にた司馬顒の部将の張方が恵帝を長安に遷した。そして司馬頴を太弟を廃し、代わりに予章王司馬熾を立てて皇太弟とした。東海王の司馬越は再び兵を挙げて西に向かい長安に入り、恵帝を奉じて洛陽に還った。そして司馬越が政治を補佐した。それまで洛陽を占拠していた司馬頴は長安へ逃れ、さらに武関から新野へ逃れた後、北上して黄河を渡り、もとの部下の将士を糾合して倦土重来を期したが、頓丘太守に捕えられてしまった。当時范陽王の司馬虓が鄴に拠っていた。頴は司馬虓のもとに送られ、間もなく殺された。

十八史略 

2012-01-01 16:58:46 | 十八史略
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
昨日のつづきです。

賈后は太子遹が自分が生んだ子ではなかったので、廃位したうえ殺してしまった。征西大将軍で趙王の司馬倫が、勅命と偽って兵を率いて宮中に入り賈后を廃して後に殺し、張華・裴頠も共に殺して、司馬倫自ら相国となった。淮
南王の司馬允が兵を率いて倫を討ったが勝てずに死んでしまった。司馬倫は衞尉の石崇も殺したが、それは倫の寵臣の孫秀が石崇の愛妾の緑珠をもらいたいと申し出たが、断られた。そこで秀は「石崇が淮南王を奉じて反乱をたくらんでいます」と誣告した。石崇は捕えられて「あの男が私の所有物が欲しくて仕組んだことに過ぎない」と言うと、捕えた者は「持ち物が禍いのもとになると知っていたならどうして早くくれてやらなかったのだ」と言い結局処刑されてしまった。司馬倫は自らに九錫を与えたうえ、帝に迫って位を禅譲させた。倫の一党は残らず大臣、宰相になり、下僕や兵卒にまで爵位が与えられた。朝廷に参集するごとに、貂蝉の冠があふれた。人々は「貂が足りず、犬の尾を継ぎ足しているぞ」と嗤った。
斉王の司馬冏は許昌を、成都王の司馬頴が鄴を、河間王の司馬顒が関中を守っていたが、それぞれ司馬倫を討伐する兵を挙げ、倫を誅殺した(301年)。