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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 孝懐皇帝

2012-01-19 13:53:55 | 十八史略
石勒長嘯す
孝懐皇帝名熾。當恵帝之十五年、武帝子二十五人、兄弟相屠之餘、存者三人而已。熾其一也。素好學。故立爲太弟。至是即位。
成都王李雄稱帝、國號成。
漢主劉淵稱帝、徙都平陽。遣其子聰及石勒等、攻晉内郡、以至洛陽。勒武郷羯人也。先是嘗至洛陽、倚上東門長嘯。王衍識其有異。後爲寇、已而從漢。
漢王淵卒。子和立。聰弑而代之。

孝懐皇帝名は熾(し)。恵帝の十五年に当って、武帝の子二十五人、兄弟(けいてい)相屠(ほふ)るの余り、存する者三人のみ。熾は其の一也。素(もと)より学を好む。故に立って太弟と為る。是(ここ)に至って即位す。
成都王李雄、帝と称し、国を成と号す。
漢主劉淵、帝と称し、徙(うつ)って平陽に都(みやこ)す。其の子聡及び石勒(せきろく)等を遣わして、晋の内郡を攻め、以って洛陽に至らしむ。勒は武郷の羯人(けつじん)なり。是より先、嘗て洛陽に至り、上東門に倚(よ)って長嘯(ちょうしょう)す。王衍(おうえん)、其の異有るを識る。後、寇(こう)を為し、已(すで)にして漢に従う。
漢主淵卒す。子和(か)立つ。聡、弑(しい)して之に代る。


羯人 五胡の一族で山西省に居住した。族長の石勒は後に後趙を建てた。 長嘯 声を長く引いて詩を吟ずる。 寇 あだ、害をくわえる。

孝懐皇帝は名を熾といった。恵帝の十五年目になると、二十五人もいた武帝の子は互いに殺し合って、僅か三人になってしまっていた。司馬熾はその一人で、平生から学問を好んだので、太帝に立てられていたが、ここに至って帝位に即いた。
成都王の李雄は自ら帝と称して国号を成と名乗った。
漢主の劉淵も帝を称して離石から移って平陽を都と定めた。子の聡は石勒を派遣して、晋の内地の諸郡を攻め、洛陽に迫らせた。石勒は武郷の羯族の長で、以前に洛陽に行ったとき、上東門に倚りかかって長嘯していたときがあった。たまたま通りかかった太尉の王衍が、これを聞いて謀反の心を感じ取っていたが、はたして後に晋に攻め入って、間もなく漢主に従った。
漢主の淵が死んで、子の和が立ったが、聡は兄の和を殺して、之に代った。


十八史略 鮮卑の拓跋氏興る

2012-01-17 13:45:20 | 十八史略
鮮卑の索頭拓跋氏
鮮卑索頭拓跋氏、先是有質子在晉。武帝遣歸。既而拓跋力微、又遣其子入貢。力微死。子悉禄官立。及帝世、索頭分國爲三部。一居上谷之北、禄官自統之。一居代郡參合陂之北、使兄子猗■統之。一居定襄之盛樂故城、使猗■弟猗盧統之。晉人附者稍衆。猗■渡漠北巡。西略諸國。降附者三十餘國。拓跋氏之盛始於此。夷狄亂華之禍、皆萌蘖於韓・魏・晉、至帝之世、乘中國大亂、始四起。
帝在位十七年、改元者五、曰元康・永康・太安・永興・光熙。太弟立。是爲孝懐皇帝。

鮮卑の索頭(さくとう)拓跋氏(たくばつし)、是より先、質子(ちし)有って晋に在り。武帝遣(や)り帰す。既にして拓跋力微(りょくび)、又其の子を遣わして、入貢(にゅうこう)せしむ。力微死す。子、悉禄官(しつろくかん)立つ。帝の世に及んで、索頭、国を分かって三部と為す。一は上谷の北に居り、禄官自ら之を統(す)ぶ。一は代郡参合陂(たいぐんさんごうは)の北に居り、兄の子猗它(いだ)をして之を統べしむ。一は定襄の盛楽故城に居り、猗它の弟猗盧(いろ)をして之を統べしむ。晋人(しんひと)の附く者稍(やや)多し。猗它、漠(ばく)を渡って北巡し、西のかた諸国を略す。降り附く者、三十余国。拓跋氏の盛んなる、此に始まる。夷狄(いてき)、華を乱るの禍は皆、漢・魏・晋の間に萌蘖(ほうげつ)し、帝の世に至って中国の大乱に乗じて始めて四(よも)に起これり。帝在位十七年、改元する者(こと)五、元康・永康・太安・永興・光熙と曰(い)う。太弟立つ。是を孝懐皇帝と為す。

索頭 鮮卑の一種族。 拓跋氏 拓跋力微には沙漠汗、悉鹿、綽(しゃく)、禄官がいたが長子沙漠汗は謀略により殺され、次子悉鹿が後を継いだ。その後は綽―弗(沙漠汗の三男)―禄官―猗盧と続いた。 悉禄官 禄官か悉鹿か不明、悉鹿ならば277年、禄官ならば295年。 猗■ ■は施のつくり部分。宋書には猗駞と書かれるが仮に它と表記する。沙漠汗の長子。 漠 沙漠。 萌蘖 きざし、萌めばえと蘖ひこばえ。 

鮮卑の支族索頭部の拓跋氏は、以前子を人質として晋に入れていたが、武帝はその子を送り還してやった。やがて拓跋力微は長子砂漠汗を質子として遣わした。その力微が死んだ。後に子の悉禄官が立った。恵帝の時代に入って、索頭は国を三部に分けた(299年)。ひとつは上谷の北、禄官自ら統治した。一つは代郡の参合陂の北、これは兄砂漠汗の子の猗它を頭にした。もう一つは定襄の盛楽故城に猗它の弟猗盧を遣った。晋の人で拓跋氏に従う者が次第に増えてきた。猗它はその後沙漠を渡り、北方を巡って、西の諸国を攻略した。降伏して帰順したものが三十国余りにのぼった。拓跋氏の隆盛はここに始まった。
異民族が中華を乱す禍いは漢・魏・晋を通じて兆し恵帝の代になって中国の大乱に乗じて、始めて四方から起こったのである。
恵帝は在位十七年、改元する者(こと)五回、元康・永康・太安・永興・光熙である。皇太弟が後を嗣いだ。これを孝懐皇帝という。


十八史略 氐姜の李氏・鮮卑の慕容氏の勃興

2012-01-14 17:37:14 | 十八史略

巴西氐李特、初以流民入蜀。旬月衆二萬。據廣漢、進攻成都、爲刺史羅尚所敗、斬其首。弟流代領其衆。勢復盛。流死。弟雄代、攻走羅尚、入成都。至是自稱成都王。
鮮卑慕容廆、自武帝時已爲寇。既而降。以爲鮮卑都督。廆生皝。自遼東徙居徒河、又徙大棘城。及帝世、慕容部愈盛。

巴西(はせい)の氐(てい)李特(りとく)、初め流民を以(ひき)いて蜀に入る。旬月にして衆二万。広漢に拠(よ)り、進んで成都を攻め、刺史羅尚(らしょう)の敗る所と為り、其の首を斬らる。弟流、代って其の衆を領す。勢い復盛んなり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尚を走らせ、成都に入る。是に至って自ら成都王と称す。
鮮卑(せんぴ)の慕容、廆(ぼようかい)、武帝の時より已に寇(あだ)を為す。既にして降る。以って鮮卑の都督と為す。廆、皝(こう)を生む。遼東より徙(うつ)って徒河に居り、又大棘城(だいきょくじょう)に徙る。帝の世に及び、慕容の部愈々盛んなり。


巴西 四川省中部。 氐 氐姜、チベット系遊牧民族。 広漢 四川省遂寧県。 刺史 地方監察官。 鮮卑 モンゴル系遊牧民三国時代に慕容・宇文・拓跋などの部族に分裂した。

巴西郡の氐族の李特は初め流民を率いて、蜀に入ってきた。十ヶ月ほどの間に二万人にもふくれあがった。広漢郡を根城にして、成都を攻めたが刺史の羅尚に破れて首を斬られた。弟の李流が後を継いで勢力をもりかえした。李流が死ぬとまた弟の李雄が後をつぎ、羅尚を破って逃走させて成都を占拠して自ら成都王と称した(304年)。
鮮卑族の慕容、廆は武帝の時から辺境を侵していたが、すでに晋に帰順して鮮卑の都督となっていた。慕容廆の子が皝である。遼東から徒河に、さらに大棘城に移った(294年)。恵帝の時代に慕容氏の部族は大いに盛んになった。


十八史略 劉淵・劉聡・劉曜

2012-01-12 09:13:45 | 十八史略

淵子聰、亦驍勇絶人、博渉經史善屬文、彎弓三百斤。淵從祖宣曰、漢亡以來、我單于徒有虡號、無復尺土。自餘王侯、降同編戸。今吾衆雖衰、猶二萬。奈何斂手受役、奄過百年。司馬氏骨肉相殘、四海鼎沸。左賢王英武超世。復呼韓邪之業、此其時也。乃相與謀推之。淵説頴。請帥五部來助。既至左國城、宣等推爲大單于。二旬衆五萬、都離石。胡晉歸之者愈衆。乃建國號曰漢、稱漢王。淵有族子曜、生而眉白、目有赤光。幼聰慧、有膽量。亦好讀書屬文。射能洞鐵七寸。至是爲淵將。

淵の子聡、亦驍勇(ぎょうゆう)人に絶す。博く経史に渉(わた)り、善く文を属(しょく)し、弓三百斤なるを彎(ひ)く。淵の従祖(じゅうそ)宣曰く、「漢亡んでより以来、我が単于、徒(いたずら)に虚号あって、復尺土(せきど)無し。自余(じよ)の王侯、降って編戸(へんこ)に同じ。今、吾が衆、衰えたりと雖も、猶二万あり。奈何(なん)ぞ、手を斂(おさ)めて役を受け、奄として百年を過ごさんや。司馬氏、骨肉相残(そこな)い、四海鼎沸(ていふつ)す。左賢王、英武世に超ゆ。呼韓邪の業を復せんは、此れその時なり」と。乃(すなわ)ち相与に謀って之を推す。淵、頴に説く、「請う帰って五部を帥(ひき)いて来り助けん」と。既に左国城に至れば、宣等推して大単于と為す。二旬の間に衆五万、離石に都(みやこ)す。胡・晋の之に帰する者愈々衆(おお)し。乃ち国号を建てて漢と曰い、漢王と称す。淵、族子曜有り、生まれながらにして眉白く、目に赤光あり。幼にして聡慧、胆量あり。亦た好んで書を読み文を属(しょく)す。射は能く鉄を洞(どう)すること七寸。是に至って淵の将となる。

驍勇 勇ましく強い。 属 つづる。 弓三百斤 弓の強さ、常人の2倍にあたる。 従祖 祖父母の兄弟。 自余 その外。 編戸 戸籍に編入すること、平民。 斂め ちじこめる、こまねく。 奄 塞がる、絶え入る。 鼎沸 かなえの湯が沸騰する。 呼韓邪 呼韓邪単于、漢の宣帝の時、匈奴を統一した。 族子 従弟の子。 洞 穴をあける。 

劉淵の子劉聡もまた人にすぐれて勇猛であり、経書、史書にも通暁し、文章を綴ることもたくみで、さらに三百斤の弓を引く膂力をもっていた。
劉淵の祖父の兄弟の宣が言うことには「漢が亡んでよりこの方、単于とはただ名ばかりで、一尺の土地も無い。他の王侯にいたっては落ちぶれて平民になった者もいる。いまわが部族は衰えたりとえどもまだ二万を擁している。手をこまねいて使役を甘んじて受け、このまま空しく一生を送ってよいものか。司馬氏は骨肉の争いに明け暮れて、天下は乱れ沸きかえっている。わが左賢王は英明武勇世に並ぶべき者がない。古の呼韓邪単于の偉業を再び達成するのは今をおいてない」と。匈奴の主だった者が相談して淵を統領に推した。劉淵は司馬頴に説いて「一旦国に帰って、五部の兵を率いて戻り助力いたしましょう」と申し出た。こうして劉淵が左国城に帰ると、宣等は劉淵を推して大単于とした。二十日ほどで五万人が集結した。淵は離石に都を開いた。匈奴、晋の別なく淵に帰服する者がますます多くなった。そこで国号を漢と定め、漢王と称した。
淵の兄弟の子に曜という者がいたが、生まれつき眉が白く、眼に赤い光を宿していた。幼少の頃から利発な上に、胆力度量があり、また読書を好み、文章もよくした。弓を取れば七寸の鉄板を射ぬくほどの力を持っていた。曜もこの時淵の部将になった。


十八史略 匈奴国を興す

2012-01-10 08:39:49 | 十八史略

劉淵興于左國城。淵故南匈奴之後。匈奴由漢魏以來臣中國。其先世自以漢甥冒漢姓。父豹爲左部帥。生淵。幼而雋異、博習經史。嘗曰、吾恥随陸無武、遇高帝而不能建封侯業、絳灌無文、遇文帝而不能興庠序之教。豈不惜哉。於是兼學武事。姿貌魁偉。初爲侍子在洛。豹死。武帝以淵代爲五部帥。既而爲北部都尉。五部豪傑多歸之。及帝世、以爲五部大都督。成都王頴、表爲左賢王。嘗使將兵在鄴。

劉淵、左国城に興る。淵は故(もと)の南匈奴の後(のち)なり。匈奴は漢魏より以来、中国に臣たり。其の先世、自ら漢の甥(そう)なるを以って漢の姓を冒(おか)す。父豹、左部の帥(すい)たり。淵を生む。幼にして雋異(しゅんい)、博く経史を習う。嘗て曰く、「吾、随陸(ずいりく)、武無く、高帝に遇えども封侯の業を建つる能(あた)わず絳灌(こうかん)、文無く、文帝に遇えども庠序(しょうじょ)の教えを興す能わざるを恥ず。豈惜しからずや」と。是(ここ)に於いて、武事を兼ね学ぶ。姿貌(しぼう)魁偉(かいい)。初め、侍子(じし)と為り、洛に在り。豹死す。武帝、淵を以って代わって、五部の帥と為す。既にして北部都尉と為る。五部の豪傑、多く之に帰す。帝の世に及んで、以って五部の大都督と為す。成都王頴(えい)、表して左賢王と為す。嘗て兵に将として鄴(ぎょう)に在らしむ。


左国城 山東省の地名。 漢の甥 漢の外孫(匈奴の祖冒頓単于が漢の高祖から娘?をもらったから)。 雋異 雋はすぐれる、秀才。随陸 漢の随何と陸賈、学問を以って高祖に仕えた。 絳灌 漢の降侯周勃と灌嬰 共に文帝に仕えて武功があった。 庠序 学校、周で庠といい、殷では序といった。 姿貌魁偉 姿容貌が大きく立派なさま。 侍子 諸侯や匈奴の王が天子の側に差し出した人質。 五部の帥 嘗て曹操が匈奴を左右前後中に分けたが、そのすべてのかしら。 都尉 軍司令官。  大都督 総司令官。 左賢王 匈奴の貴族の称号。

劉淵が左国城に国を興した(304年、後に前趙となる)。劉淵は南匈奴の単于の後裔である。漢魏時代より臣として仕えていた。その昔、漢の外孫となったことから、劉の姓を名乗り漢王と称していた。父の劉豹は匈奴左部の統領であった。その子として生まれた劉淵は幼少の頃から人にすぐれ、経書、史書を博く学んだ。嘗てこう言ったことがある。「あの漢の随何と陸賈は武勇に欠け、高帝の時代に遇いながら、諸侯となることができず、降侯周勃と灌嬰は学問が無かったばかりに、文帝の世に遇いながら教育を振興することが出来なかったことが気がかりで、惜しまれて仕方ない」と言って、武の道もおろそかにしなかった。淵は姿顔立ちが大きく立派だった。初めは人質として洛陽にいたが、父の劉豹が亡くなったので、武帝は淵を匈奴五部の統帥とした。やがて北部の都尉となったが、多くのおもだった者は淵に心服した。恵帝の世になって、五部大都督に任じ、さらに司馬頴の上表によって左賢王に封じた。嘗ては兵を率いて鄴に駐在したこともあった。