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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

春誠流を旗揚げ

2011-10-18 10:53:47 | 春誠流・中野区吟連
ようやく待ちに待った創流が決定しました。16日中澤先生より電話を頂き、春洋流宗家から正式に許状を頂いたとのことです。
流派名は春誠流となります。小平市の本拠は吟誠会を、広島教場の中村春荘師範は山陽吟詠会と名乗ると聞きましたが、中野教室は未定です。

十八史略 赤壁の戦い

2011-10-18 10:04:02 | 十八史略
子を生まばまさに孫仲謀の如くなるべし
瑜部將黄蓋曰、操軍方連船艦、首尾相接、可燒而走也。乃取蒙衝・鬭艦十艘、載燥荻枯柴、灌油其中、裹帷幔、上建旌旗、豫備走舸、繋於其尾。先以書遣操、詐欲降。時東南風急。蓋以十艘最著前、中江擧帆、餘船以次倶進。操軍皆指言、蓋降。去二里餘、同時發火。火烈風猛、船往如箭。燒盡北船、烟焰漲天。人馬溺燒、死者甚衆。瑜等率輕鋭、靁鼔大進。北軍大壊、操走還。後屢加兵於權、不得志。操歎息曰、生子當如孫仲謀。向者劉景昇兒子、豚犬耳。

瑜の部将黄蓋曰く、「操軍方(まさ)に船艦を連ね、首尾相接す、焼いて走らす可し」と。乃ち蒙衝(もうしょう)闘艦十艘を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せて、油を其の中に潅(そそ)ぎ、帷幔(いまん)に裹(つつ)んで、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(そうか)を備えて、其の尾に繋ぐ。先づ書を以って操に遣り、詐(いつわ)って降らんと欲すと為す。時に東南の風急なり。蓋、十艘を以って最も前に著(つ)け、中江(ちゅうこう)に帆を挙げ、余船、次(じ)を以って倶(とも)に進む。操の軍皆指さして言う、蓋降ると。去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛(たけ)く、船の往くこと箭(や)の如し。北船を焼き尽くし、烟焰(えんえん)天に漲る。人馬溺焼(できしょう)し、死する者甚だ衆(おお)し。瑜等軽鋭(けいえい)を率いて、靁鼔(らいこ)して大いに進む。北軍大いに壊(やぶ)れ、操走り還る。後屢しば兵を権に加うれども、志を得ず。操嘆息して曰く、「子を生まば当(まさ)に孫仲謀(そんちゅうぼう)の如くなるべし。向者(さき)の劉景昇の児子は、豚犬のみ」と。

首尾 舳艫(じくろ)、へさき、とも(舳も艫もともに船首船尾)。 蒙衝(艨艟) 敵船に衝突して突き破る軍船。 帷幔 幕、とばり。 走舸 はや舟。 靁鼔 靁は雷の古字、鼔 鼓を打つこと、鼔と鼓は別字。 豚犬のみ 自分の子を謙遜して豚児というのはここから。 孫仲謀 孫権の字。 劉景昇 劉表の字。

周瑜の部将黄蓋が言うには「曹操の軍は船首に船尾が接するほどの大船団であります。火攻めにして潰走させるべきでしょう」と。そこで突破船と戦闘艦十艘を選び枯草や柴を積み込み、油をそそぎ、幕で包んで上に旗を立てた。そして予め船尾に速舟を繋いだ。それから曹操に書を送り、偽って降伏を申し出ておいた。折から東南の風が激しくなった。黄蓋は十艘を先頭に揚子江の中流に帆をあげ、他の船も並んで後に続いた。曹操の軍はそれを指さして「黄蓋が降参してきた」と言い合っていた。操軍との間が二里ほどに迫ったころ、一斉に火を放った。火は激しく風強く、火船は矢の如く進み曹操軍の船団に突入し、焼き尽くした。焔と煙が天をおおうばかり、人馬はあるいは焼け死に、あるいは溺れ死に、さらに周瑜の率いる軽装の精鋭が鼓をとどろかせて、追い打ちをかけた。曹操軍は大敗し、散りぢりになって逃げ帰った。その後、しばしば戦いを仕かけたがことごとく失敗した。曹操は歎息してこう言った「子を持つなら孫権のような子が欲しい、さきに降伏した劉表の子などは豚か犬のようなものだ」

十八史略 将軍と呉に会猟せん

2011-10-15 11:02:09 | 十八史略

曹操撃劉表。表卒。子擧荊州降操。劉備奔江陵。操追之。備走夏口。操進軍江陵、遂東下。亮謂備曰、請求救於孫將軍。亮見權説之。權大悦。操遣權書曰、今治水軍八十萬衆、與將軍會獵於呉。權以示羣下。莫不失色。張昭請迎之。魯肅以爲不可、勸權召周瑜。瑜至。曰、請得數萬精兵、進往夏口、保爲將軍破之。權抜刀斫前奏案曰、諸將吏敢言迎操者、與此案同。遂以瑜督三萬人、與備并力逆操、進遇於赤壁。

曹操、劉表を撃つ。表卒す。子(そう)、荊州を挙げて操に降る。劉備江陵に奔(はし)る。操之を追う。備、夏口に走る。操、軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮、備に謂って曰く、「請う救いを孫将軍に求めん」と。亮、権に見(まみ)えて之に説く。権大いに悦ぶ。操、権に書を遣(おく)って曰く、「今水軍八十万衆を治め、将軍と呉に会猟(かいりょう)せん」と。権、以って群下に示す、色を失わざるもの莫(な)し。張昭之を迎えんと請う。魯肅以って不可と為し、権に勧めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、「請う数万の精兵を得て、進んで夏口に往き、保(ほ)して将軍の為に之を破らん」と。権、刀を抜いて前の奏案を斫(き)って曰く、「諸将吏敢えて操を迎えんと言う者は、此の案と同じからん」と。遂に瑜を以って三万人を督(とく)せしめ、備と力を併せて操を逆(むか)え、進んで赤壁に遇う。

江陵 湖北省江陵県。 夏口 湖北省武昌城の西。 治め 統率する。 会猟共に狩をすることだが、暗に決戦を挑むこと。 保 請合う。 奏案 上奏文を読む机。 

曹操が劉表を攻撃した。前後して劉表が死に、子のが荊州をすべて献じて曹操に降った。劉備は江陵に逃れたが、曹操が追撃してきたので、さらに夏口に逃れた。曹操は軍を江陵に進め、さらに揚子江を下って東に向かった。諸葛亮は劉備に呉の孫権に救援を求めるよう勧め、自ら孫権のもとに赴いて同盟を説くと、孫権は大いに喜んだ。ところが曹操から「わが水軍八十万を率いて呉の地に赴き、孫将軍と狩りをしたいと思うが、いかがであろうか」と恫喝にもとれる書が届いた。孫権はこれを諸将に見せると皆畏れて顔色を変えた。張昭がまず曹操を迎えて降るよう説いたが魯粛がひとり反対を称え、周瑜を召して意見を聞くよう勧めた。周瑜は伺候すると「私に数万の精兵をお貸しください。夏口まで出陣して必ずや曹操を打ち破ってごらんにいれます」と請け合った。孫権は刀を抜いて机ごと断ち切って「今後曹操を迎えて降ろうなどと言う者がいたらこの机と同じになると思え」と言った。かくて周瑜に三万の兵を統率させ、劉備とともに曹操を迎え撃たせた。両軍は進んで赤壁の地で曹操の軍とあいまみえた。

十八史略 三顧の礼。水魚の交わり。

2011-10-13 09:43:35 | 十八史略

瑯琊諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・樂毅。備訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・龐士元也。徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。備三往乃得見亮、問策。亮曰、操擁百萬之衆。挾天子令諸侯。此誠不可與爭鋒。孫權據有江東、國險而民附。可與爲援、而不可圖。荊州用武之國、州險塞、沃野千里。天府之土。若跨有荊・、保其巖阻、天下有變、荊州之軍向宛・洛、州之衆出秦川、孰不箪食壺漿、以迎將軍乎。備曰、善。與亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。士元名統、龐公從子也。公素有重名。亮毎至其家、獨拝床下。

瑯琊(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽の隆中に寓居(ぐうきょ)す。毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)う。徽曰く、「時務(じむ)を識る者は俊傑に在り。此の間自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明・龐士元(ほうしげん)なり」と。徐庶(じょしょ)も亦備に謂って曰く、「諸葛孔明は臥龍なり」と。備、三たび往いて乃ち亮を見るを得、策を問う。亮曰く、「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)んで諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒(ほこ)を争う可からず。孫権、江東に拠有(きょゆう)し、国険にして民附く。与に援(えん)と為す可くして、図る可からず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)、沃野千里。天府(てんぷ)の土なり。若し荊・益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、天下変有らば、荊州の軍は宛(えん)・洛に向かい、益州の衆は秦川(しんせん)に出でば、孰(たれ)か箪食壺漿(たんしこしょう)して、以って将軍を迎えざらんや」と。備曰く、「善し」と。亮と情好(じょうこう)日に密なり。曰く、「孤(こ)の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」と。
士元、名は統、龐徳公(ほうとくこう)の従子なり。徳公素(もと)より重名(じゅうめい)有り。亮其の家に至る毎に、独り床下に拝す。


瑯琊 山東省南部の地名。 襄陽の隆中 湖北省襄陽県の隆中山。 管仲 春秋時代斉の宰相。楽毅 戦国時代の燕の将軍。 時務 当世の急務。 三たび往いて 三顧の礼。 図る 画策する。 天府 天然の庫、豊かな土地。 跨有 領有。 箪食壺漿 飲食物、箪食は竹の器に入れた飯、壺漿は壺に入れた飲み物。 魚の水あるが如し 水魚の交わり。 従子 甥。 

瑯琊の人諸葛亮は襄陽の隆中山に寓居し、つねづね管仲、楽毅になぞらえていた。ある時、劉備は司馬徽に当代の傑物を尋ねた。すると「時局の急務を認識している者は俊傑といえるだろうが、中でも伏龍、鳳雛と言われる大人物がいる。それが諸葛孔明と龐士元だよ」と答えた。徐庶からも「諸葛亮は臥龍なり」と聞かされていた。そこで劉備は三度亮を訪ねてやっと会うことができた。劉備が天下経略の策を問うと、「曹操は百万の兵を擁し、天子を奉じて諸侯に号令しています。決して兵を交えてはいけません。孫権は江東を根城にして、その地は険阻で人民もよくなついています。共に援けあうべきであって、策略を用いて事をかまえるべきではありません。この荊州は武略を用いるのに適した国であり、益州は険阻な要害に恵まれ、そのうえ肥沃の野が続くまさに天恵の宝ともいうべき地であります。この二州を領有し、嶮しい地勢に守られつつ、天下の大事にあたって荊州の軍は宛から洛陽に向け、益州の軍隊は、秦川に撃って出れば、誰もが食物と飲み物を用意して将軍を迎えるに違いありません」と答えた。劉備はこれは良いと喜び、以後日増しに親密になってゆき、「自分にとって孔明はなお魚に水があるようなものだ」と言うようになった。
龐士元は名を統といい、龐徳公の甥である。公は平素から評判の高い人物であった。諸葛亮がその家に行くたびに、自分だけは床下から拝礼した。


十八史略 髀肉の歎

2011-10-11 10:36:32 | 十八史略
老のまさに至らんとするに、功業建たず
車騎將軍董承、稱受密詔、與劉備誅曹操。操一日從容謂備曰、今天下英雄、唯使君與操耳。備方食。失匕筯。値雷震詭曰、聖人云、迅雷風烈必變。良有以也。備既被遣邀袁術。因之徐州。起兵討操。操撃之。備先奔冀州。領兵至汝南。自汝南奔荊州。歸劉表。嘗於表坐。起至厠。還慨然流涕。表怪問之。備曰、常時身不離鞍。髀肉皆消。今不復騎。髀裏肉生。日月如流、老將至、功業不建。是以悲耳。

車騎将軍董承(とうしょう)、密詔を受くと称し、劉備と曹操を誅せんとす。操一日従容として備に謂って曰く、「今天下の英雄は唯使君(しくん)と操とのみ」と。備方(まさ)に食す。匕筯(ひちょ)を失っす。雷震に値(あ)って詭(いつわ)って曰く、「聖人云う、迅雷風烈には必ず変ず、と。良(まこと)に以(ゆえ)有り」と。
備既に遣(つか)わされて袁術を邀(むか)う。因(よ)って徐州に之(ゆ)き、兵を起こして操を討つ。操之を撃(う)つ。備先づ冀州(きしゅう)に奔(はし)る。兵を領して汝南に至る。汝南より荊州(けいしゅう)に奔り、劉表に帰す。嘗て表の坐に於いて、起って厠に至る。還って慨然として涕(なみだ)を流す。表怪しみて之を問う。備曰く「常時身鞍を離れず、髀肉(ひにく)皆消す。今復た騎(の)らず。髀肉生ず。日月流るるが如く、老の将(まさ)に至らんとするに、功業建たず。是を以って悲しむのみ」と。


使君 州の長官である刺史あるいは郡の長官の太守の尊称。 匕筯 匙と箸。値 あう、遭に同じ。 聖人 孔子。 迅雷風烈には・・論語郷党篇にある。
良 まことに。 髀肉 ももの肉。
 

車騎将軍の董承が、献帝から内密の詔を受けたとして、劉備と謀って曹操を討とうとした。ある日曹操は悠揚として劉備に語りかけた「さしあたって今、英雄といえるのは貴君とこの操だけであろうな」と。ちょうど食事中の劉備ははっとして箸を取り落とした。そのとき雷鳴が轟いたので、「あの孔子さまでさえ雷や烈しい風には顔色を変えたと言われますが、まことにもっともであります」ととりつくろった。
やがて劉備は袁術を迎え撃つために派遣されることになった。それを機に徐州に行き、そこで曹操討伐の兵を挙げた。曹操はこれを撃ち破り、劉備はまず冀州に逃れ、兵をまとめて汝南郡に行き、汝南から荊州に逃げ、劉表のもとに身を寄せた。ある日、劉表と同坐していたとき、厠に立ったが、帰ってくると嘆き悲しみ、涙を流したので、劉表はいぶかって訳を聞くと、劉備が答えた。「これまでは戦場に在って鞍から身を離すことがなく腿の肉はそげ落ちていましたが、このところ馬に乗る機会が無くなって、腿に肉が付いてきました。月日の経つのは早いもので、老いが迫っているというのに未だ功業が立ちません。それが悲しいのです」と。