寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 大風起こって雲飛揚す

2010-04-13 18:21:26 | 十八史略
淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。
十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、
 大風起雲飛揚。
 威加海内兮歸故郷。
 安得猛士兮守四方。
令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。

淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。
十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、
 大風起って雲飛揚(ひよう)す。
 威、海内に加わって故郷に帰る。
 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。
沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。
淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。
十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。
かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。

過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。
太牢 たいそう立派なご馳走。

十八史略 陸賈新語

2010-04-10 12:16:57 | 十八史略
承前
賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。

賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。
つづき
陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。

新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語)

十八史略 安くんぞ詩書を事とせん

2010-04-08 15:38:05 | 十八史略
前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、
帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。

遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。

陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。

高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。

南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。
乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。

十八史略 梁王彭越殺さる

2010-04-06 10:32:53 | 十八史略
梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族

梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。

梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。

十八史略 高祖蒯徹を赦す 

2010-04-03 12:06:55 | 自由律俳句
十一年、帝破豨還、詔捕蒯徹。至曰、秦失其鹿、天下共逐。高材疾足者先得之。當時臣獨知韓信。非知陛下。天下欲爲陛下所爲者甚衆、力不能耳。又不可盡烹邪。帝赦之。

十一年、帝、豨を破って還り、詔(みことのり)して蒯徹(かいてつ)を捕う。至って曰く、秦、其の鹿を失い、天下共に逐(お)う。高材疾足(こうざいしっそく)の者先ず之を得たり。当時臣独り韓信を知れり。陛下を知れるに非ず。天下、陛下の為(な)しし所を為さんと欲する者甚だ衆(おお)きも、力、能(あた)わざるのみ。又尽く烹る可からざるか、と。帝之を赦す。

漢の十一年に高祖は陳豨を破って凱旋したが、蒯徹がかつて韓信に謀反をそそのかしたことを知り、詔を出して蒯徹を捕えさせた。蒯徹は高祖の前に引き据えられて言うには、「秦が天子の位を失ったとき、天下の英雄たちはこれを得ようと争いましたが、才能がすぐれ、より俊敏なあなたさまが手にいれました。当時私は韓信だけを知って、陛下のことは存じあげておりませんでした。当時、天下には陛下のなされたことを限りないほど居りましたが、力が足りなかっただけでございます。といってそれらの者を皆煮殺すことが出来るでしょうか、とても出来ないでしょう」と。高祖は蒯徹を赦した。