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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 周

2008-11-13 14:00:00 | Weblog
杉山公園のひよどりじょうごがいつの間にか色づいていました、十八史略もいよいよ周に突入です。

周の武王は姫(き)姓にして、名は發、后稷(こうしょく)の十六世の孫(そん)なり。后稷名は棄(き)。棄の母は姜嫄(きょうげん)と曰い、帝嚳(こく)の元妃(げんひ)たり。野に出でて巨人の跡を見、心欣然として之を践(ふ)み、棄を生む。以て不祥と為して、之を隘巷(あいこう)に棄つ。馬牛避けて踏まず。徒(うつ)して山林に置く。適ゞ(たまたま)林中人多きに会す。之を氷上に遷(うつ)す。鳥之を覆翼(ふよく)す。以て神と為して遂に之を収む。児たりし時屹として巨人の志の如し。其の遊戯するに種樹を好む。成人に及んで、能く地の宜しきを相し、民に稼穡(かしょく)を教う。陶唐虞夏の際に興り、農師と為り、邰(たい)に封ぜらる。其の姓を別ち、后稷と号す。

武王は后稷の十六世の子孫で、その后稷の母姜嫄は帝嚳の元妃(第一夫人)で棄(后稷)を産んだが不吉として路地に棄てた。牛馬も避けて踏まず、山林に置いたが、人が居たので果たせず、氷の上において凍死させようとしたが、鳥が翼で覆って助けた。姜嫄は神の子であるとして拾って帰った。幼時からしっかりしていて、大人の様であった。遊びには樹を植え、成人しては地の良し悪しを見て、民に農事を教えた。堯、舜、禹の時代に身を興し、農師となって、邰を支配した。公孫姓を棄て、姫姓を名乗り后稷と号した。

隘巷 狭い路地  稼穡 稼は植えつけ、穡は取り入れ 后稷 后は尊称 稷は五穀で
農事を司る長官
※古代中国では長男は不祥として棄てられたと読んだことがあります。

十八史略拾い読み おさらい

2008-11-12 15:50:51 | Weblog
殷の滅亡まで来たところで、ざっとさらっておきたいと思います。天皇、地皇、人皇、有巣、燧人、 伏羲、女禍、神農、の三皇、 黄帝、顓頊、帝嚳,堯(陶唐)、舜(有虞)の五帝、までは完全に伝説の範囲にあったようです。続く禹(夏后)についても、最近になってその存在がほぼ確定されたようです。紀元前二十一世紀から紀元前十六世紀頃と極めて大雑把ではありますが。続く殷は紀元前1400年頃興り紀元前1027年ごろに滅亡したとみられます。ただし司馬遷の史記は黄帝から書き始めています。

全国吟詠大会in日本武道館

2008-11-10 17:50:17 | Weblog
今日素敵なブログを見つけたので早速お気に入りに入れておきました。雛さんと名乗っておいででした。昨日武道館の合吟コンクールに出場されたそうです。私も役員で特別来賓受付に居りました。地下鉄東西線の中野から九段下まで行ったとき、向かい側の席にいらっしゃった人かもしれません、紺色の着物にベージュの上掛けを着けていらっしゃいました。
宗家の白男川先生には、ことぶき吟詠大会で何かとお世話になっているので、ブログを見た時なんだか嬉しく感じました。これからも折にふれてブログを訪問させていただきます。

十八史略拾い読み 殷の最期

2008-11-10 13:22:14 | Weblog
前回妲己(だっき)と末喜(ばっき)の音が似ていると書きましたが。もうすこし細かく説明させて下さい。
450年ごろ沈約という人が、漢字の音を四分して発音別にグループ付けをおこないました。平声(ひょうしょう)上声(じょうしょう)去声(きょしょう)入声(にっしょう)の四種で、上声去声入声を仄音(そくおん)平声を二分して上平十五種、下平十五種、を平音(ひょうおん)としました。
漢詩はこの平と仄の組み合わせで、リズムを作っています。現代日本でも絶句、律詩とよべるものは、この規則に基づいています。妲と末は共に上声四の曷に属します、己と喜も入声七の紙にはいっています。それでは殷の最後の章をどうぞ

箕子、後に周に朝し、故(もと)の殷の墟(あと)を過ぎ、宮室毀壊して禾黍を生ずるを傷む。哭せんと欲すれば不可なり、泣かんと欲すれば則ち為(しわざ)婦人に近し。乃ち麦秀の歌を作って曰く、麦秀でて漸漸(ぜんぜん)たり、禾黍(かしょ)油油(ゆうゆう)たり。彼(か)の狡童、我と好(よ)からず、と。殷の民之を聞いて皆涕(なみだ)を流せり。殷、天子たること三十一世、六百二十九年なり。
哭 声をあげてなく 泣 声を出さずに涙をながす  漸漸 秀でるさま
油油 盛んなさま  狡童 ずるい子供、紂のこと
麦秀の歌 故国の頽廃を嘆く「麦秀之嘆」はこの詩から


十八史略拾い読み 殷の滅亡

2008-11-06 13:45:51 | Weblog
十八史略 殷の滅亡
ここで妲己と、以前夏の終焉で登場した末喜とを比べてみるといくつかの類似点が見つかる。共に亡国の王の寵姫で、他国を侵略した時に献上されたこと。だっき、と、ばっき、音が近いこと。酒池肉林も共通であること。等等を考えると末喜はのちに創作されたか、或いは訛伝したのではなかろうか。これはあくまで想像です。

周公昌及び九侯、鄂侯は、紂の三公たり。紂、九侯を殺す。鄂侯争う。并(あわ)せて之を脯(ほ)にす。昌聞いて嘆息す。紂、昌を羑里(ゆうり)に囚(とら)う。昌の臣散宜生、美女珍宝を求めて進む。紂大いに悦び、乃ち昌を釋(ゆる)す。昌退いて徳を修む。諸侯多く紂に叛いて之に帰す。昌卒す。子發立つ。諸侯を率いて紂を伐つ。紂牧野に敗れ、宝玉を衣(き)て自ら焚死(ふんし)す。殷亡ぶ。

脯 干し肉