杉山公園のひよどりじょうごがいつの間にか色づいていました、十八史略もいよいよ周に突入です。
周の武王は姫(き)姓にして、名は發、后稷(こうしょく)の十六世の孫(そん)なり。后稷名は棄(き)。棄の母は姜嫄(きょうげん)と曰い、帝嚳(こく)の元妃(げんひ)たり。野に出でて巨人の跡を見、心欣然として之を践(ふ)み、棄を生む。以て不祥と為して、之を隘巷(あいこう)に棄つ。馬牛避けて踏まず。徒(うつ)して山林に置く。適ゞ(たまたま)林中人多きに会す。之を氷上に遷(うつ)す。鳥之を覆翼(ふよく)す。以て神と為して遂に之を収む。児たりし時屹として巨人の志の如し。其の遊戯するに種樹を好む。成人に及んで、能く地の宜しきを相し、民に稼穡(かしょく)を教う。陶唐虞夏の際に興り、農師と為り、邰(たい)に封ぜらる。其の姓を別ち、后稷と号す。
武王は后稷の十六世の子孫で、その后稷の母姜嫄は帝嚳の元妃(第一夫人)で棄(后稷)を産んだが不吉として路地に棄てた。牛馬も避けて踏まず、山林に置いたが、人が居たので果たせず、氷の上において凍死させようとしたが、鳥が翼で覆って助けた。姜嫄は神の子であるとして拾って帰った。幼時からしっかりしていて、大人の様であった。遊びには樹を植え、成人しては地の良し悪しを見て、民に農事を教えた。堯、舜、禹の時代に身を興し、農師となって、邰を支配した。公孫姓を棄て、姫姓を名乗り后稷と号した。
隘巷 狭い路地 稼穡 稼は植えつけ、穡は取り入れ 后稷 后は尊称 稷は五穀で
農事を司る長官
※古代中国では長男は不祥として棄てられたと読んだことがあります。
周の武王は姫(き)姓にして、名は發、后稷(こうしょく)の十六世の孫(そん)なり。后稷名は棄(き)。棄の母は姜嫄(きょうげん)と曰い、帝嚳(こく)の元妃(げんひ)たり。野に出でて巨人の跡を見、心欣然として之を践(ふ)み、棄を生む。以て不祥と為して、之を隘巷(あいこう)に棄つ。馬牛避けて踏まず。徒(うつ)して山林に置く。適ゞ(たまたま)林中人多きに会す。之を氷上に遷(うつ)す。鳥之を覆翼(ふよく)す。以て神と為して遂に之を収む。児たりし時屹として巨人の志の如し。其の遊戯するに種樹を好む。成人に及んで、能く地の宜しきを相し、民に稼穡(かしょく)を教う。陶唐虞夏の際に興り、農師と為り、邰(たい)に封ぜらる。其の姓を別ち、后稷と号す。
武王は后稷の十六世の子孫で、その后稷の母姜嫄は帝嚳の元妃(第一夫人)で棄(后稷)を産んだが不吉として路地に棄てた。牛馬も避けて踏まず、山林に置いたが、人が居たので果たせず、氷の上において凍死させようとしたが、鳥が翼で覆って助けた。姜嫄は神の子であるとして拾って帰った。幼時からしっかりしていて、大人の様であった。遊びには樹を植え、成人しては地の良し悪しを見て、民に農事を教えた。堯、舜、禹の時代に身を興し、農師となって、邰を支配した。公孫姓を棄て、姫姓を名乗り后稷と号した。
隘巷 狭い路地 稼穡 稼は植えつけ、穡は取り入れ 后稷 后は尊称 稷は五穀で
農事を司る長官
※古代中国では長男は不祥として棄てられたと読んだことがあります。