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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 周

2008-11-19 19:03:16 | Weblog
周代の統治制度は天子(王)の下に、多くの諸侯が土地を領有し、領内の政治の全権を
諸侯が掌握した。(封土を分けて諸侯を建てる 封建制度)諸侯は王の命があれば、自国の兵を発した。王の権威が弱くなると、弱小国を併合する者、勝手に王を称するもの、鼎の軽重を問うものが出てきた。

平王崩ず。太子の子、桓王林立つ。崩ず。子の荘王侘(た)立つ。崩ず。子の釐王胡碎齊(きおうこせい)立つ。齊の桓公始めて覇たり。釐王崩ず。子の恵王閬(ろう)立つ。
崩ず。子の襄王鄭立つ。晉の文公始めて覇たり。中略 楚の荘王人をして鼎の軽重を問わしむ。王孫満之を卻(しりぞ)く。  以下続く。

十八史略拾い読み

2008-11-18 17:58:47 | Weblog
周の幽王のつづきです。
宜臼、申に奔(はし)る。王求めて之を殺さんとす。得ず。申を伐つ。申侯、犬戎を召して王を攻む。王、烽火を挙げて兵を徴(ちょう)す。至らず。犬戎、王を驪山の下に殺す。諸侯、宜臼を立つ。是を平王と為す。西都の戎に逼(せま)らるるを以て、徒(うつ)って東都の王城に居る。時に周室衰微して、諸侯、強は弱を併せ、齊・楚・秦・晉、始めて大なり。平王の四十九年は、即ち魯の隠公の元年なり。其の後孔子春秋を修する、此に始まる。

宜臼(ぎきゅう)は母の生国である申に逃げた。王は殺そうとしたが果たせなかった。そこで申を攻めた。申は犬戎の援けを得て幽王を攻めた。王は烽火を挙げたが、諸侯は懲りて参集せず驪山のもとで殺されてしまった。諸侯は宜臼を立ててこれを平王とした。都の鎬京(こうけい)がしばしば外敵に侵されるので東の洛陽に遷都した。ここに西周は終わる、紀元前771年とされる。周王室は衰え、斉、楚、秦、晋が強大となり、後に孔子がまとめた春秋は平王四十九年魯の隠公元年より書き起こしたので、この時をもって春秋時代の始めとする。

※春秋 紀元前722年から前481年まで魯国の歴史を編年体で記す、孔子の手が加えられ儒教の聖典五経の一つに数えられる。左丘明が注釈をしたものを春秋左氏伝(左伝)という。

十八史略拾い読み 周

2008-11-17 18:27:01 | Weblog
時はうつり、十一代宣王の世にこんな事が起こった。
その昔、夏の世に二匹の龍が吐いた泡を櫃に入れて蔵っておいた、後の世に周人がこれをひらいたところイモリに変わっていた。宮中の少女がこれに出会って孕み、女児を生んだが不祥として棄てられた。、ある人、少女の捨児を拾って褒(ほう)に行く。

幽王の時に至り、褒人(ほうひと)罪有り。是の女を王に入る。是を褒娰(ほうじ)と為す。王之を嬖(へい)す。褒娰笑うことを好まず。王その笑わんことを欲し、萬方すれど笑わず。故(かっ)て王、諸侯と約し、寇(あだ)至る有らば、則ち烽火を挙げ、其の兵を召して来援せしむと。乃ち故無くして火を挙ぐ。諸侯悉(ことごと)く至る。而も寇無し。褒娰大いに笑う。王、申后及び太子宜臼(ぎきゅう)を廃し、褒娰を以て后と為し、其の子伯服を太子と為す。

十二代幽王の時、褒ひとが咎めを受け、償いにこの女を献上した。幽王は褒娰と名づけて寵愛した。褒娰は笑うことをしない、いろいろ試したが笑わない。かねてより、幽王は諸侯と、外敵が侵入したら、のろしを合図に来援すべし、と約す。ある日何も無いのに烽火を挙げたところ、諸侯が残らず参集した、しかし外敵は無し。褒娰がここで笑った、王、申后及び太子宜臼を廃し褒娰を皇后にし其の子伯服を太子にした。

十八史略 周(三)

2008-11-15 09:20:08 | Weblog

西伯、徳を修む。諸侯之に帰す。虞芮(ぐぜい)田を争い、決すること能わず。
乃ち周に如(ゆ)く堺に入って畊(たがや)す者を見るに、皆畦(あぜ)を遜(ゆず)り、民俗皆長に譲る。二人慙(は)ぢ、相謂いて曰く、吾が争う所は、周人の恥づる所なり、と。乃ち西伯に見(まみ)えずして還り、倶に其の田を譲って取らず。漢の南、西伯に帰する者四十国。皆以て受命の君と為す。天下を三分して、其の二を有(たも)つ。

虞芮 虞と芮の二国  受命 天命を受けた  有つ 保有の有
周人(しゅうひと)シュウジンとは読まない。豳人、商人も同じ

この後10月9日の太公望、次いで10月6日の伯夷叔斉へと続きます。

十八史略拾い読み 周

2008-11-14 13:06:22 | Weblog
昨日は旧暦10月16日、月がとても綺麗でした。稽古が終わって四人で焼き鳥屋で一杯

武王が卒して十二世、古公亶父(ここうたんぽ)に至ります。外敵に攻められ豳(ひん)を去り岐山に遷(うつ)りました。

豳人曰く仁人なり。失う可からずと。老を扶け幼を携えて以て従う。他の旁國皆之に帰す。古公の長子は太伯。次は虞仲。其の妃太姜、少子季歴を生む。季歴、太任を娶って昌を生む。聖瑞有り。太伯・虞仲、古公の季歴をたてて以て昌に伝えんと欲するを知り、乃ち荊蠻にゆき、断髪文身し、以て季歴に譲る。古公卒し、公季立つ。公季卒し、昌立つ。西伯と為る。

豳の人々は古公が仁君であると、離れず従う。周りの国の人々もついてきた。古公の長男は太伯、次男が虞仲、古公の妃太姜が季歴を生む。季歴は太任を娶って昌を生んだ。時に聖人があらわれる兆しがあった。太伯虞仲は、古公が季歴を経て昌に継がせたいのだと悟って、南蛮の地に移り髪を剪りいれずみをして(二度と戻れないように)季歴に譲った。古公死んで公季(季歴)立ち、公季死んで昌が立った。昌は西方の諸侯の長となる。