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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 于定國丞相となる

2011-02-17 10:05:49 | 自由律俳句
黄覇卒。于定國爲丞相。定國父于公、初爲獄吏。東海有孝婦。寡居不嫁、以養其姑。姑以年老妨婦嫁、自經死。姑女告婦迫死其母。婦不能辯、自誣伏。于公爭之不能得。孝婦死。東海枯旱三年。後太守來。公言其故。太守祭孝婦冢。遂雨。于公治獄有陰。令高大門閭、容駟馬車曰、吾後世必有興者。子定國、以地節元年爲廷尉。朝廷稱之曰、張釋之爲廷尉、天下無寃民、于定國爲廷尉、民自以不寃。至是由御史大夫代覇。

黄覇卒す。于定國丞相と為る。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦有り。寡居(かきょ)して嫁(か)せず、以って其の姑を養う。姑、年老いて婦の嫁を妨ぐるを以って、自經して死す。姑の女(むすめ)、婦迫って其の母を死せしむ、と告ぐ。婦、弁ずること能わず、自ら誣伏(ふふく)す。于公、之を争えども得ること能わず。孝婦死す。東海枯旱(こかん)すること三年。後の太守来る。公、其の故(ゆえ)を言う。太守、孝婦の冢(ちょう)を祭る。遂に雨ふる。于公、獄を治めて陰徳有り。門閭(もんりょ)を高大にし、駟馬(しば)の車を容(い)れしめて曰く、わが後世必ず興る者有らん、と。子定國、地節元年を以って廷尉と為る。朝廷、之を称して曰く、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為って、天下寃民(えんみん)無く、于定國廷尉と為って、民みずから寃ならずと以(おも)う、と。是(ここ)に至って、御史大夫より覇に代る。

黄覇が亡くなり、于定國が丞相となった。定國の父の于公は、かつて東海郡の獄吏をしていたとき、郡のなかに孝行な嫁があった。夫に先立たれた後、再婚せず、姑の面倒をみていた。姑は自分が生き永らえば嫁が再婚できぬと考えて、自から首をくくってしまった。姑の娘が、「嫁が責めて殺しました」と告訴した。嫁は抗弁できずに、無実の罪を被ってしまった。于公はこの嫁を助けようと言い争ったがついに助けることができずに死刑に処せられてしまった。するとその後東海郡では三年間旱魃が続いた。新しい太守が来たとき、于公は異変の由来を語った。太守は孝婦の塚を丁重にまつり、霊を慰めたところ遂に雨が降ってきたのであった。このように于定國の父は人知れぬ陰徳があった。ある時、自分の家の門と、村の入り口の門を高く、大きくし四頭立ての馬車が通れるほどに造り直して、自分の子孫の中から必ず身を立てるものが出て来るであろう、と言った。果たして、子の定國が地節元年に廷尉となった。朝廷の人々は彼を称えて、「昔、張釋之が廷尉になって、天下に冤罪に苦しむ民がなくなった。今また、于定國が廷尉となって、民みずからが、冤罪であると思うことが無くなった」と言った。後に御史大夫に昇進し、黄覇が亡くなるにおよんで丞相となった。

十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(2)

2010-11-27 13:13:43 | 自由律俳句

乘傳至渤海界。郡發兵迎。遂皆遣還、移書罷捕、諸持田器者爲良民、持兵者乃爲盗。遂單車至府。盗聞即時解散。民有持刀劔者、使賣劔買牛、賣刀買犢。曰、何爲帶牛佩犢。勞來巡行。郡中皆有蓄積。獄訟止息。至是召入。

伝に乗じて渤海の界(さかい)に至る。郡、兵を発して迎う。遂(すい)皆遣(や)り還し、書を移して捕を罷(や)め、諸々田器を持する者は良民と為し、兵を持する者は乃ち盗と為す。遂(つい)に単車にて府に至る。盗、聞いて即時に解散す。民に刀剣を持する者有れば、剣を売って牛を買い、刀を売って犢(とく)を買わしむ。曰く、何為(なんす)れぞ牛を帯び犢を佩ぶるや、と。労来巡行す。郡中、皆蓄積(ちくし)あり。獄訟(ごくしょう)止息(しそく)す。是(ここ)に至って召されて入る。

龔遂は宿継ぎを乗り継いで渤海の堺にたどり着いた。郡では兵士を差し向けて出迎えたが、遂は尽く引き返させた。まず布告して盗賊の捕縛を中止させたうえ、農具を持つ者は良民、武器を持っている者は盗賊とみなすとした。護衛も連れず単身役所にむかった。これを聞いて盗賊の多くは解散した。それでも武器を棄てきれぬ者には、剣を売って、牛を買い、刀を売って小牛を買うよう勧めて「どうして牛を腰に差したり小牛を腰につけたりする者があろうか、働かせて、育てて、富を生み出すのだよ」と諭した。こうして領内をいたわりはげまして巡行し、郡中皆蓄えができ、訴訟が無くなった。こうした訳で龔遂は朝廷に召し戻され、水衡都尉に任命されたのであった。

兵 武器。 犢 小牛。 労来 来はねぎらいはげます。 蓄積 つむの意はセキ、たくわえるはシ。

十八史略

2010-11-16 17:02:34 | 自由律俳句
一ヶ月余りご無沙汰しましたが、11月4日退院して今日初めての外来検診に行って来ました。

 秦の一失、尚存す。
地節三年(前67年)、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。
膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。
魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。

地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興(おこ)す可し、と。上、為に廷尉平(ていいへい)を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。
膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。
魏相丞相(じょうしょう)と為り、丙吉、御史大夫と為る。

地節三年(前67年)に路温舒が上書して言うには「秦には誤りが十有りました。しかしその一つは今なお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。世間でも、地面に線を引いてここが獄だと言えば、その中に入るまいと思うし、木を刻んでそれを獄吏だといえば、その前に立たないように注意する。と言っております。まことに悲痛なことばと言わざるを得ません。どうか法を簡略にし、刑を寛大にしていただきたい。そうすれば太平の風が興りましょう」と。天子はこれを取り上げて、廷尉平という官職を設けた。以後裁判が公平になったと称せられるようになった。
膠東王の宰相王成は、民を労わり恩恵をほどこし、著しい治績をあげたので関内侯の爵位を賜った。
魏相が丞相となって、丙吉が御史大夫となった。

議し 思いめぐらす。 労来 労者をいたわり恩恵をほどこして、慕って来させる。

十八史略 公孫病已立つ

2010-10-05 09:38:16 | 自由律俳句

及長、高材好學、亦喜游俠、具知閭里姦邪、吏治得失。昭帝元鳳中、泰山有大石、自起立。上林有僵樹、復起。蠶食其葉、曰公孫病已立。及賀、病已年十八矣。光等奏、病已躬節儉、慈仁愛人。可以嗣孝昭後。迎入即位。既立六年、霍光卒、始親政。

長ずるに及び、高材にして学を好み、亦游侠を喜(この)み、具(つぶさ)に閭里(りょり)の姦邪(かんじゃ)、吏治(りち)の得失を知る。昭帝の元鳳中、泰山に大石有り、自ずから起立す。上林に僵樹(きじゅ)有り、復立つ。蠶(かいこ)其の葉を食い、公孫病已立つと曰(い)う。賀、廃せらるるに及び、病已、年十八なり。光等奏す、病已、躬(みずか)ら節倹にして慈仁、人を愛す。以って孝昭の後を嗣(つ)がしむ可し、と。迎え入れて位に即(つ)かしむ。既に立って六年、霍光卒(しゅっ)し、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。

成長するに従い、病已は才幹が優れ向学心に富み、また遊侠の気風を好み、村里の中の悪事、小役人の仕事の裏表にまで通じていた。昭帝の元鳳年間に、泰山の大石が自然に立ったり、宮中の庭苑の倒れた木が立ち上がり、蚕がその葉を食って、「公孫病已立つ」と読める食い跡を残した、という不思議が起こった。
後に賀が廃せられたとき病已は十八歳になっていた。霍光等は皇太后に、「病已は、自らつつしみ情け深く、人を愛する徳を備えており、孝昭皇帝のお後継ぎにふさわしいと存じます」と奏上した。お許しがあって朝廷に迎え入れて天子とした。即位して六年目に霍光が亡くなり、帝ははじめてみずから政務を執るようになった。

僵樹 倒れた木。

十八史略 一抔(いっぽう)の土(ど)

2010-05-22 10:51:40 | 自由律俳句
其後、人有盗高廟玉環。得。下廷尉治。釋之奏、當棄市。上大怒曰、人盗先帝器。吾欲致之族。而廷尉以法奏之。非吾所以共承宗廟意也。釋之曰、盗宗廟器而族之、假令愚民取長陵一抔土、何以加其法乎。帝許之。

其の後、人、高廟の玉環を盗むもの有り。得たり。廷尉に下(くだ)して治(ち)せしむ。釈之(せきし)奏す、棄市(きし)に当(とう)す、と。上(しょう)大いに怒って曰く、人、先帝の器(き)を盗む。吾、之を族(ぞく)に致さんと欲す。而(しか)るに廷尉、法を以って之を奏す。吾が宗廟に共承(きょうしょう)する所以(ゆえん)の意に非(あら)ざるなり、と。釈之曰く、宗廟の器を盗んで之を族せば、仮令(もし)愚民、長陵一抔(いっぽう)の土(ど)を取らば、何を以って其れに法を加えんや、と。帝、之を許す。

その後、高祖の廟から玉環を盗んだ者があり、捕えられた。廷尉に引き渡してその罪を調べさせた。張釈之は、棄市の刑に相当いたしますと奏上した。帝はたいそう怒って、「先帝の宝器を盗むような不届き者は、その一族皆殺しの刑に相当すると思っておった。しかるに廷尉は法を盾に棄市と申しおる。それではわしが宗廟に恭しくお仕えしている気持ちがすまぬではないか」と言った。釈之は答えて「御たまやの御物を盗んで、その一族を皆殺しにするならば、もし愚か者が先帝の御陵の土を一すくいでも掘り出す不敬を働いたならば、一体いかほどの量刑に処したらよいのでしょうか」と。文帝はまた釈之の奏上通り認めた。

棄市 死罪にして市にさらす。 共承 共は恭に通じる。承は奉仕すること。
長陵一抔の土 宗廟の大量の宝器を一すくいの土になぞらえた。墓荒らしを婉曲に言った。