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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 司馬相如

2010-07-08 13:50:35 | 十八史略
上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。
唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。
又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。

上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。
唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。
又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。

武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。
唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。
また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。

大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。

十八史略 武帝神仙を求む。

2010-07-06 13:35:20 | 十八史略
二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。

二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。

元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。

丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者

十八史略  力行如何(いかん)を顧みるのみ

2010-07-01 14:04:46 | 十八史略
上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。
三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。
帝始爲微行、起上林苑。
五年、置五經博士。
六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。
元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。

上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。
三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。
帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。
五年、五経博士を置く。
六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。
元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。

武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。
三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。
武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。
五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。
六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。
年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。

安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。

十八史略  董仲舒の対 4

2010-06-29 13:47:59 | 十八史略

又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。

又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。

また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。

春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。

十八史略 董仲舒の対 3

2010-06-26 11:52:01 | 十八史略
太學
又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。

又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。
又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。

董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」
又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。

太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること