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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 董仲舒の対 2

2010-06-24 17:29:44 | 十八史略
今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。
十八史略董仲舒の続きです。
陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。

陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。

陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。
漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。

然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。
更張 張り替えること。 更化 改め変えること。

十八史略 董仲舒の対

2010-06-22 17:56:07 | 十八史略
又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。

又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。

また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく

極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。

十八史略  始めて改元して建元という

2010-06-19 08:05:52 | 十八史略
孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。
擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。

孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。
賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。

孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。
武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。

十八史略 物盛んにして衰うる

2010-06-17 08:42:38 | 十八史略
爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。

吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。
帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。

官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。
すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。
景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。

重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。

十八史略

2010-06-15 08:32:52 | 十八史略
自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。

漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、
黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。
漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく

黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。
廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉