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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 衛青と霍去病

2010-07-20 18:17:08 | 十八史略
元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。
西域始通。置酒泉・武威郡。
五年、遣將軍路博等撃南越。
方士五利將軍欒大、以詐誅。
六年、討西羌平之。
南越平。置九郡。

元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。
西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。
五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。
方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。
六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。
南越平らぐ。九郡を置く

元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。
西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。
五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。
六年、西羌国を討伐してこれを平定した。
南越も平定したので、九郡を置いた。

文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。

衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没
霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。

十八史略 霍去病、西域を平ぐ

2010-07-17 12:16:10 | 十八史略

二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。
匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。
三年、匈奴入右北平・定襄。
四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。

二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。
匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。
三年、匈奴、右北平・定襄に入る。
四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。

元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。
匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。
三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。
元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。

十八史略 張騫を西域に遣わす

2010-07-15 11:51:44 | 十八史略
五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。
匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。
六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。
元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。

五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。
匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。
還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。
六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。
元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。

元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。
匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。
衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。
匈奴が代郡に攻め入った。
六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。
元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。

代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族

十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや

2010-07-13 08:27:32 | 十八史略

匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。
元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。

匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。
元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。

匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。
元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。
この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。

上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。

十八史略 曲学阿世

2010-07-10 15:53:05 | 十八史略

曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ
徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。
六年、初算商車。

吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。
六年、初めて商車を算す。

武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。
元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。

菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問