匈奴亂、五單于爭立。呼韓邪單于上書、願欵塞稱藩臣。甘露三年、来朝。詔以客禮待之、位諸侯王上。
上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。
匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。
上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。
匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。
帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。
藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある
上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。
匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。
上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。
匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。
帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。
藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある