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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 股肱の美を思い、麒麟閣に図画す

2011-02-19 12:14:26 | 十八史略
匈奴亂、五單于爭立。呼韓邪單于上書、願欵塞稱藩臣。甘露三年、来朝。詔以客禮待之、位諸侯王上。
上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。

匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。
上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。

匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。
帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。

藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある

十八史略 

2011-02-15 13:02:17 | 十八史略
甘露元年、公卿奏、京兆尹張敞、之黨友。不宜處位。上惜敞材、寝其奏。敞使掾絮舜有所案驗。舜私歸曰、五日京兆耳、安能復案事。敞聞舜語、即収繋獄、竟致其死。後爲舜家所告。敞上書、從闕下亡命歳餘、京師枹鼓數警。上思敞能、復召用之。

甘露元年、公卿(こうけい)奏す、京兆の尹(いん)張敞(ちょうしょう)はの党友なり。宜しく位に処(お)るべからず、と。上、敞の材を惜しみ、其の奏を寝(や)む。敞、掾(えん)の絮舜(じょしゅん)をして案験する所有らしむ。舜、私に帰って曰く、五日(ごじつ)の京兆のみ、安(いづ)くんぞ能(よ)く復(また)事を案ぜん、と。敞、舜の語を聞き、即ち収めて獄に繋ぎ、竟(つい)に其れを死に致す。後、舜の家の告ぐる所と為る。敞、上書して、闕下(けっか)より亡命すること歳余、京師、枹鼓(ふこ)数しば警(いまし)む。上、敞の能を思い、復た召して之を用う。

甘露元年(前53年)に三公九卿が「京兆の長官、張敞は楊の一党であります。その職にとどまることは宜しくありません」と上奏した。宣帝は、張敞の才能を惜しんで、その上奏を取り上げなかった。その後、属官の絮舜という者に命じてある事件を取り調べさせた。絮舜は勝手に家に帰ってしまった。「どうせあと五日の長官さまだ、調査などしておられようか」と人に言った。その言葉が張敞の耳に入ったから、すぐさま捕えられ獄に繋がれついに死刑に処された。その後絮舜の家人が訴えでると、敞は辞職の文書を上(たてまつ)ったうえで朝廷から一年余り姿をくらました。
その間、都では非常を警告する太鼓のばち音がしばしば聞かれるようになった。帝は改めて張敞の有能さを思い知って、呼び戻して任用した。

寝 止める、握りつぶす。 掾 属官。 闕下 闕は宮城の門、朝廷のこと。 枹鼓 枹は太鼓のばち。

十八史略 人生行樂耳

2011-02-12 09:35:21 | 十八史略
四年、太司農耿壽昌白、令邊郡皆築倉、穀賤増價而糴、以利農、穀貴減價而糶、以利民。名曰常平倉。
殺前光祿勲楊。廉潔無私。人上書告爲妖惡言。免爲庶人。家居、治産自娯。其友孫會宗戒之。報曰、過大行虧。當爲農夫以没世。田家作苦、歳時伏臘、烹羊炮羔、斗酒自勞。酒後耳熱、仰天拊缶、而呼嗚嗚。其詩曰、田彼南山、蕪穢不治。種一頃豆、落而爲萁。人生行樂耳、須富貴何時。淫荒無度、不知其不可也。人上書告、驕奢不悔。下廷尉案、得所與會宗書。帝見而惡之、以大逆無道要斬。

四年、太司農(たいしのう)耿壽昌(こうじゅしょう)白(もう)して、辺郡をしてみな倉を築かしめ、穀賤(いや)しければ価を増して糴(てき)し、以って民を利し、穀貴(たっと)ければあたいを減じて糶(ちょう)し、以って民を利す。名づけて常平倉と曰(い)う。
さきの光祿勲(こうろくくん)楊(よううん)を殺す。、廉潔にして私無し。人上書して、妖悪(ようあく)の言を為す、と告ぐ。免ぜられて庶人(しょじん)と為る。、家居(かきょ)し、産を治めて自(みずか)ら娯(たの)しむ。其の友、孫会宗これを戒む。、報じて曰く、過ち大にして行い虧(か)く。当(まさ)に農夫と為って以って世を没すべし、と。田家作苦(でんかさくく)し、歳時伏臘(ふくろう)、羊を烹(に)、羔(こひつじ)を炮(あぶ)り、斗酒自ら労(ねぎら)う。酒後耳熱し、天を仰ぎ缶(ふ)を拊(う)って、嗚嗚(おお)と呼ぶ。其の詩に曰く、彼(か)の南山に田つくるに、蕪穢(ぶあい)にして治まらず。一頃(いっけい)の豆を種(う)うれば、落ちて萁(き)と為る。人生行楽せんのみ、富貴を須(ま)つ何れの時ぞ、と。淫荒(いんこう)度無くして、其の不可なるを知らず。人、上書して告ぐ、、驕奢(きょうしゃ)にして悔いず、と。廷尉に下して案ぜしめ、会宗に与えし所の書を得たり。帝、見て之を悪(にく)み、大逆無道を以って要斬す。

五鳳四年(前54年)、太司農の耿寿昌が言上して、辺境の郡に倉庫を造らせ、穀物の相場が安い時には、値を高くして買い入れて農民を助け、相場が高いときには値を下げて売り出して、人びとを助ける事にした。これを常平倉と名づけた。
前の光祿勲の楊が殺された。楊は廉潔で公正無私であった。ところが、ある者が「楊は世を乱す怪しげな言葉を撒き散らしております」と上書したので罷免せられて庶民となった。それ以後、楊は家に居て財産をふやして、気ままに楽しんでいた。友人の孫会宗がそれを諌めると、楊は書をしたためて「私は過ちが多く、行いもよろしくありませんでした、農夫となって身を終えるのがふさわしいというものです。いったいに農家の作業は厳しく、夏の酷暑と真冬の酷寒の一日づつ、羊を煮、子羊を炙って酒を傾けてみずから労うのです。酒が進んで耳が熱くなったころ、天をあおぎ、缶(ほとぎ)を打って嗚嗚と大声で歌います。その詩とは
『彼の南山で耕せど、草がはびこり手に負えぬ。百畝の豆を植えてみたが、豆がらばかりが枯れ落ちる。ならばいっそ楽しまむ富貴を待つは無駄なこと。』
やがて際限もなく酔いしれてゆき、自分でそれが悪いこととも気づかないのです」と。ある者が「楊は驕りをほしいままにして悔いることがありません」と訴え出た。そこで帝は廷尉に下して取り調べさせたところ、孫会宗にあてた書簡を手にいれた。宣帝はこれを見て楊を悪み、大逆無道の者として腰斬りの刑に処した。

太司農 九卿の一、銭穀を司どる。 糴・糶 かいよね・うりよね
光祿勲 九卿の一、宮中に宿衛する。 虧 欠に同じ。 伏臘 伏は真夏の酷暑の日、臘は十二月の異称とも、酷寒の日。 缶 ほとぎ、酒や水を入れる土器、かめ。 南山 終南山、朝廷の比喩。 蕪穢 土地が荒れていること、朝廷の群臣の比喩。

十八史略 凡そ治道は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ

2011-02-05 15:58:51 | 十八史略

三年、丙吉薨。黄覇爲丞相。覇嘗爲潁川太守。吏民稱明不可欺。力教化後誅罰。許丞、老病聾。督郵白欲逐之。覇曰、許丞廉吏、雖老尚能拝起。重聽何傷。數易、送故迎新之費、及姦吏因縁、絶簿書盗財物、公私費耗甚多。所易新吏、又未必賢、或不如其故。徒相爲亂。凡治道去其太甚者耳。覇以外寛内明、得吏民心、治爲天下第一。至是代吉。覇材長於治民。及爲相、功名損治郡時。

三年、丙吉薨ず。黄覇丞相と為る。覇嘗て潁川の太守と為る。吏民、神明にして欺くべからずと称す。教化をつとめて誅罰を後にす。許丞(きょじょう)老いて聾を病む。督郵白(もう)して之を逐わんと欲す。覇曰く、許丞は廉吏なり、老いたりと雖も尚能く拝起す。重聴(ちょうちょう)すること何ぞ傷(いた)まん。数しばを易(か)えば、故を送り新を迎うるの費、及び姦吏因縁(いんえん)し、簿書を絶ち、財物を盗み、公私の費耗(ひこう)甚だ多し。易うる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず、或いは其の故に如かざらん。徒(いたずら)に相益(ま)して乱を為さんのみ。凡そ治道(ちどう)は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ、と。覇、外寛に内あきらかなるを以って、吏民の心を得、治、天下第一と為す。是(ここ)に至って吉に代る。覇の材、民を治むるに長ず。相と為るに及んで、功名、郡を治むるの時よりも損す。

 郡の長官を補佐する役。 督郵 行政を監督する役目の官。 姦吏 不正をはたらく役人。

五鳳三年に、丞相の丙吉がなくなった。黄覇が代って丞相になった。黄覇もかって潁川の太守であったが、役人も民も覇が極めて聡明で、欺くことができないと評判しあった。民を教化することに力をそそぎ、誅罰を二の次にした。補佐官の許丞が老いて耳が遠くなったとして督郵が罷免したいと申し出た。黄覇は「許丞は廉潔な役人である。老いたりとはいえ、拝礼はとどこおりなく行えるし、同じ事を聞き直すからとて何の差し障りがあろう。たびたび補佐官を代えていたら、歓送の費用もかかる。悪い役人がドサクサ紛れに重要な帳簿を匿したり、官の財産を盗んだりするなど、公私の冗費がはなはだ多い。また交替させた役人が必ずしも有能とは限らず、前任者に及ばないこともあろう、ただたがいに混乱を益すだけだ。およそ民をおさめる道は、特にその甚だしいものを除きさればそれで良いのだ」と。黄覇は外は寛大、内は聡明であったので、官民こぞって信服し、その治績は天下第一と称せられた。
丙吉が亡くなって代って丞相になった黄覇だが実地に人民を治めることには長じていたが、丞相になってからからは、功績も、名声も郡を治めていたときよりも劣った。

十八史略 韓延壽

2011-01-29 09:52:15 | 十八史略
五鳳元年、殺左馮翊韓延壽。延壽爲吏、好古教化。由潁川太守、入爲馮翊。民有昆弟相訟。延壽閉閤思過。訟者各悔、不復爭。郡中翕然相敕。恩信周徧、莫復有詞訟。民吏推其至誠、不忍欺紿。至是坐事棄市。百姓莫不流涕。

五鳳元年、左馮翊(さひょうよく) 韓延壽を殺す。延壽、吏となり、いにしえの教化を好む。潁川(えいせん)の太守より、入って馮翊となる。民に昆弟(こんてい)相訟うるもの有り。延壽、閤(こう)を閉じて過ちを思う。訴うる者、各々悔い、復た争わず。郡中翕然(きゅうぜん)として相敕(ちょくれい)す。恩信周徧(おんしんしゅうへん)にして、復た詞訟(ししょう)有ること莫(な)し。民吏、其の至誠を推(お)し、欺紿(きたい)するに忍びず。是(ここ)に至って、事に坐して棄市(きし)せらる。百姓(ひゃくせい) 流涕(りゅうてい)せざるは莫し。

五鳳元年(前57年)に左馮翊(さひょうよく) 韓延壽が殺された。延壽は官吏となってから、古の聖人が民を教化したやり方を踏襲したいと考えていた。潁川郡の太守から朝廷に入って左馮翊の長官になった。その民で兄弟が互いに訴え出た者があった。延壽は部屋に閉じこもり、自分に落度があったのではないかと思い悩んだ。訴えでた兄弟は互いに後悔して、二度と争わなくなった。郡中の民は相いましめ、励ましあった。延壽の恩情と信望はあまねく行きわたって、訴えを起こすこともなくなった。民も役人も延壽の至誠にうたれ、他人を騙すことをしなくなった。ところがこのたび、ある事件に連坐して死罪になり、市中にさらされた。これを見た市民は皆涙を流した。

昆弟 兄弟。 閤 小窓。 翕然 集まるさま。 敕 いましめ励ます。
欺紿 欺くこと。