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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 宦官石顯台頭す

2011-03-05 11:32:46 | 十八史略

中書令弘恭、僕射石顯、自宣帝時、久典樞機。及帝即位多疾。以顯中人無外黨、遂委以政事、事無大小、因顯白欠。貴幸傾朝、百僚皆敬事顯。顯巧慧習事、能深得人主微指。内深賊持詭辯、以中傷人、與高表裏。望之等患外戚許・史放從、又疾恭・顯擅權、建白。以爲、中書政本、國家樞機。宜以通明公正處之。武帝遊宴後庭、故用宦者。非古制也。宜罷中書宦官、應古之不近刑人之義。上不能從。

中書令の弘恭、僕射(ぼくや)の石顯(せきけん)は宣帝の時より、久しく枢機を典(つかさど)る。帝、位に即くに及び多疾なり。顕の中人にして外党無きを以って遂に委するに政事を以ってし、事大小と無く、顕に因(よ)って白決(はっけつ)す。貴幸、朝(ちょう)を傾け、百僚皆顕に敬事す。顕、巧慧(こうけい)にして事に習い、能く人主の微指を探得(たんとく)す。内深賊(しんぞく)にして詭弁を持し、以って人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚許・史の放縦(ほうしょう)なるを患い、又恭・顕の権を擅(ほしいまま)にするを疾(にく)んで、建白す。以為(おも)えらく、中書は政の本(もと)、国家の枢機なり。宜しく通明公正を以って之に処(お)くべし。武帝は後庭に遊宴す、故に宦者(かんじゃ)を用う。古制に非ざるなり。宜しく中書の宦官を罷(や)め、古の刑人を近づけざりしの義に応ずべし、と。上、従う能わず。

中書令の弘恭と僕射の石顕は宣帝の時から久しく政治の枢要にあった。宣帝は即位以来病気がちであった。ところが石顕は宦官で一族係累がいないというので気を許して、次第に政治を任せ、事の大小を問わず全て石顕の奏上によって決するようになった。帝の恩寵は石顕の一身に集まり、百官みな顕を敬い仕えた。顕は知恵才覚に富み抜け目がなく、よく帝の微かな意中を察することができた。しかし内心は陰険で詭弁を弄して人を貶(おとし)めた。石顕と史高は宮中と朝廷と表裏一体となって気脈を通じていた。蕭望之らは、外戚の許延寿や史高の放縦をうれい、弘恭と石顕が権力を専(もっぱ)らにするのを悪(にく)んで、帝に建白書をたてまつって「思いますに、中書は政治の根本で、国家の枢機を扱っています時勢に明らかで公正な人物がその官に就くべきです。武帝はよく後宮で遊宴をされておられましたので、宦官を用いられましたが、これは古の制ではありません。どうか中書にいる宦官を罷免して古の帝が宮刑を受けた者を近づけられなかった道理に適うようになさってください」と。しかし元帝はこの措置をとることができなかった。
 
中書令 宮中の書記を総括する。 僕射 尚書僕射、宰相の一。 中人 宮中の宦官、この時代から権力に関わってきた。 外党 宮中外の徒党。 白決 白は申し上げる、奏上して裁決すること。

十八史略 蕭望之・周堪・劉更生を獄に下し、庶人と為す。

2011-03-03 09:34:11 | 十八史略

二年、下蕭望之・周堪及宗正劉更生獄皆免爲庶人。時吏高以外屬領尚書事。望之・堪副之。二人帝師傅。數言治亂、陳正事、選更生給事中、與侍中金敞、竝拾遺左右。四人同心謀議。史高充位而已。由是與望之有隙。

二年、蕭望之(しょうぼうし)・周堪(しゅうかん)及び宗正(そうせい)の劉更生(りゅうこうせい)を獄に下し、皆免じて庶人と為す。時に史高(しこう)、外属を以って尚書の事を領す。望之・堪、之に副たり。二人は帝の師傅(しふ)なり。数しば治乱を言い、正事を陳(ちん)し、更生を給事中(きゅうじちゅう)に選び、侍中(じちゅう)の金敞(きんしょう)と、並びに左右に拾遺(しゅうい)せしむ。四人心を同じうして謀議す。史高は位に充つるのみ。是に由(よ)って望之と隙(げき)有り。

初元二年(前47年)に蕭望之と周堪および宗正の劉更生を獄吏におくり、罷免したうえで身分を庶人に落とした。当時、史高が外戚として尚書の事務を執っていた。蕭望之と周堪は共に副官となっていた。二人は元帝の師であり、守り役でもあったので、しばしば国家の治乱について言上し、正しいことを陳(の)べ、劉更生を給事中の官に推薦し、侍中の金敞と共に、帝の左右にあって過ちを正させた。この四人が心を一つにして何事をも相談したから、史高は名前だけ連ねているだけであった。このため史高と望之とは仲が悪かった。

宗正 皇族の諸事を掌る官。 尚書事 内閣の事務を掌る。給事中 上奏の取次ぎ及び顧問役。 拾遺 遺失したものを拾う。天子の見落としたものを拾う、つまり天子を諫言すること。

十八史略 

2011-03-01 11:10:21 | 十八史略
孝元皇帝名奭。初爲太子、柔仁好儒。見宣帝所用、多文法吏、以刑名縄下。嘗燕、從容言、陛下持刑太深。宜用儒生。宣帝作色曰、漢家自有制度。本以覇王道雜之。奈何純任教、用周政乎。且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。何足委任。乃歎曰、亂我家者太子也。宣帝少、依太子母家許氏。許后以霍氏毒死。故弗忍廢太子。至是即位。
初元元年、立皇后王氏。

孝元皇帝名は奭(せき)。初め太子たりとき、柔仁(じゅうじん)にして儒を好む。宣帝の用うる所を見るに、文法の吏多く、刑名を以って下(しも)を縄(ただ)す。嘗て燕(えん)するとき、従容として言う、陛下刑を持すること太(はなは)だ深し。宜しく儒生を用うべし、と。宣帝色を作(な)して曰く、漢家自から制度あり。本より覇王の道を以って之に雑(まじ)う。奈何(いかん)ぞ純(もっぱ)ら徳教に任じて、周の政を用いんや。且つ俗儒は時宜に達せずして、好んで古を是とし今を非とし、人をして名実に眩(げん)して守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや、と。乃(すなわ)ち歎じて曰く、我が家を乱る者は太子なり、と。
宣帝少(わか)きとき、太子の母家の許氏に依る。許后、霍氏の毒を以って死す。故に太子を廃するに忍びざりしなり。是(ここ)に至って位に即く。
初元元年、皇后王氏立つ。

孝元皇帝(元帝)は名を奭という。太子であった時から、温和柔順で仁愛に富み、儒学を好んだ。宣帝の用いる者を見ると、司法に関与する役人が多く、刑名の法に基づいて臣下を糺してきた。ある時、酒宴の席上で、おもむろに申し上げた。「陛下は大変仕置きを厳しくなさっておいでですが、聖人の道を説く儒生を登用されてはいかがでしょうか」と。宣帝は顔色を変えて「漢家には漢家の制度がある、それは覇道と王道を交えもちいている。道徳の教化に頼る周代の政治に倣うことがあろうか。それに儒者どもは時勢の変化について行けず、昔を良しとし、今を悪いと決めつける、建前と実状とについて人を惑わし何に従い何を守るべきかを知らせない。そんな者に政治を委ねることなど出来ようか」さらに歎息して「わが漢家を衰え乱す者はおそらく太子であろう」と言った。
宣帝は若い頃、太子の母(宣帝の后)の実家の許氏に身を寄せていた。ところが許后は霍氏によって毒殺されたので不憫に思い廃位に踏み切れなかった。かくて宣帝が崩御すると太子が位に即いた。
初元元年(前48年)、王氏を立てて皇后とした。

文法 法律。 刑名 刑は形に通じ、行い。名は言で言行。 言行の一致を要求し、それにより賞罰することを政治の根幹とする法家の学説。 燕 宴に同じ。 覇王 力で統治するのが覇道、徳で統治するのが王道。

十八史略 徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し

2011-02-24 10:52:57 | 十八史略
前回のつづき
宣帝の在位中、年号を改めること七回、本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍がそれで二十五年間であった。崩御して長安の南、杜陵に葬った。宣帝は市井から見出されて立ち、人々の苦しみをよく知っていたので、力を尽くして政治を行った。重要な点は周到に、制度方式も整備した。刺史・守・相を任命するときはその都度、親しく会って政道について下問された。嘗て「人民がその村里に安心して生活し、ため息をついたり、愁いや恨み言をいわないのは、政治が公平で訴訟も正しく行われているからに相違ない。私と供にその任務を果たせるのは、そなたのような善良な地方官なのだよ」と言った。また太守はその郡の役人や人民の中心であるから、頻繁に交代させては人々が安心して生活ができないと考えて、治績をあげた地方官にはその都度詔書を送って励まし、あるいは知行を増したり、黄金を贈ったりした。そして朝廷の高官で欠員が生じた場合は、さきに表彰した者から選び順次挙げ用いた。かくて漢代の良吏は宣帝の治世に最も多く輩出したといわれる。宣帝は功ある者は必ず賞し、罪ある者は必ず罰し、評判と実像を総合して見極めるようにした。政治、学問、法律に携わる者はその長所を発揮し、役人はその地位にかなって、民が安心してその家業にいそしむことができた。
たまたま匈奴が衰え乱れ立った時期に出会い、すでに亡びようとしている国は倒し、存続すべき国は保護して、漢の威光を匈奴一帯に示し広めた。単于は宣帝の義を慕って頭を地に垂れて、みずから漢室を守る臣下と称するようになった。宣帝の功績は祖先にまでも光り輝き、大業は子々孫々までも伝えられるもので、漢の中興に於いてその徳は殷の高宗、周の宣王に並ぶべきものといえよう。
太子が位に即いた。これが孝元皇帝である。

都知事選の候補者が名乗りをあげはじめていますが、「良二千石」と称えるにふさわしい人を待望しています。


十八史略 

2011-02-22 17:36:00 | 十八史略
十八史略 宣帝崩ず。
帝在位、改元者七、曰本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍。凡二十五年。崩。葬杜陵。帝興於閭閻、知民事之艱難、精爲治。樞機周密。品式備具。拜刺史・守・相、輒親見問。常曰、民所以安其田里、而無歎息愁恨之聲者、政平訴理也。與我共此者。其惟良二千石乎。以爲太守吏民之本。數變易、則民不安。故二千石有治理效、輒以璽書勉、秩賜金。公卿缺、則選諸所表、以次用之。漢世良吏、於是爲盛。信賞必罰、綜核名實。政事・文學・法理之士、咸精其能、吏稱其職、民安其業。遭値匈奴衰亂、推亡固存、信威北夷。單于慕義、稽首稱藩。功光祖宗、業埀後裔。可謂中興高宗・周宣矣。太子即位。是爲孝元皇帝。

帝、位に在り、改元する者(こと)七。本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍と曰(い)う。凡(すべ)て二十五年。崩ず。杜陵(とりょう)に葬る。帝、閭閻(りょえん)より興り、民事の艱難を知り、精を励まし治を為す。枢機周密(すうきしゅうみつ)にして、品式(ひんしき)備具(びぐ)す。刺史・守・相を拝するとき、輒(すなわ)ち親しく見て問う。常(かつ)て曰く、民の其の田里に安んじて、歎息愁恨の声無き所以の者は、政(まつりごと)平らかに、訟(うったえ)理(おさ)まればなり。我と此を共にする者は、其れ惟(ただ)良二千石(せき)か、と。以為(おも)えらく、太守は吏民の本なり。数しば変易(へんえき)すれば、則ち民安んぜず、と。故に二千石、治理の効有れば、輒ち璽書(じしょ)を以て勉励し、秩を増し金を賜う。公卿(こうけい)欠くれば、則ち諸々の表する所を選び、次(じ)を以て之を用う。漢の世の良吏、是に於いて盛んなりと為す。信賞必罰、名実を綜核す。政事・文学・法理の士、咸(みな)其の能を精(くわ)しくし、吏は其の職に称(かな)い、民は其の業に安んず。匈奴の衰乱に遭値(そうち)し、亡を推(お)し存を固くし、威を北夷(ほくい)に信(の)ぶ。単于、義を慕い、稽首(けいしゅ)して藩(はん)と称す。功は祖宗(そそう)に光り、業は後裔に垂(た)る。中興、徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し。太子、位に即く。是を孝元皇帝と為す。

閭閻 共に村の門、民間の意。 枢機 重要なところ、枢は戸の心棒、機は弩弓の弾き。 周密 行き届くこと。品式 品章程式 規則と方式。 刺史 地方監察官。 守 郡の行政官。 常 嘗てと同じ。 良二千石 二千石は守・相の俸禄、善良な地方長官の意。(我が国で知事を良二千石ということがある)
璽書 璽は玉璽、天子の印章が捺してある文書。  綜核 綜はくくる、核はあきらかにすること。 遭値 共に出会う意。 信 伸びる、伸ばす。 稽首 首が地に着くほど体を屈して拝すること。 祖宗 創業の祖と中興の祖。 高宗・周宣 殷の高宗と周の宣王