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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 王昭君、呼韓邪單于に降嫁す

2011-03-17 10:11:01 | 十八史略

竟寧元年、呼韓邪單于來朝、願婿漢。以後宮王嬙字昭君賜之。
帝崩。在位十六年。改元者四。初元・永光・建昭・竟寧。帝雖喜儒術、得韋玄成・匡衡爲相、無相業、帝徒優游不斷、漢業衰焉。太子即位。是爲孝成皇帝。

竟寧(きょうねい)元年、呼韓邪(こかんや)単于来朝し、願わくは漢に婿(むこ)たらん、と。後宮の王嬙(おうしょう)字は昭君を以って之に賜う。
帝崩ず。在位十六年。改元する者(こと)四。初元・永光・建昭・竟寧。帝儒術(じゅじゅつ)を喜び、韋玄成・匡衡を得て相と為すと雖も、相業なく、帝徒(いたずら)に優游不断(ゆうゆうふだん)にして、漢業衰う。太子位に即く。是を孝成皇帝となす。

竟寧元年(前33年) 呼韓邪単于が来朝して、漢室の女婿(むすめむこ)になりたいと願いでた。そこで後宮の王嬙、字は昭君を皇女として賜った。
この年元帝が亡くなった。在位十六年。改元すること四。初元・永光・建昭・竟寧である。元帝は儒者の道を好み、韋玄成・匡衡を丞相にしたが、この二人は丞相としての功績はなく、帝もきわめて優柔不断であった。そのため漢の帝業は衰退した。太子が即位した。これを孝成皇帝(成帝)という。

王昭君については有名な伝説があるが、ここでは触れない。李白の五言絶句と
我が朝の凌雲集より七言絶句を紹介する。

王昭君            李白
昭君玉鞍(ぎょくあん)を払い 馬に上って紅頬(こうきょう)啼く
今日(こんにち)漢宮の人   明朝胡地(こち)の妾(しょう)

王昭君            滋野貞主(しげののさだぬし)
朔雪(さくせつ)翩翩として沙漠暗く 辺霜惨烈として隴頭(ろうとう)寒し
行く行く常に望む長安の日     曙色(しょしょく)東方看るに忍びず

朔雪 北方から吹き付ける雪。 隴頭 長安の西方隴山のほとり

十八史略 牢か石か五鹿の客か

2011-03-15 10:07:39 | 十八史略

顯威權日盛。與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗、結爲黨友。諸附倚者得寵位。民歌之曰、牢邪石邪、五鹿客邪、印何纍纍、綬若若邪。
三年、西域副校尉陳湯、矯制發兵、與都護甘延壽、襲撃郅支單于於康居斬之。四年春、傳首至京。縣藁街十日。

顕の威権日に盛んなり。中書僕射の牢梁(ろうりょう)、少府の五鹿充宗(ごろくじゅうそう)と結んで党友となる。諸々の附倚(ふい)する者寵位を得たり。民之を歌いて曰く、
牢か石か五鹿の客か、印何ぞ累累(るいるい)たる、綬(じゅ)若若(じゃくじゃく)たるか、
三年、西域の副校尉陳湯(ちんとう)、制と矯(いつわ)り兵を発して、都護の甘延壽と郅支(しっし)単于を康居に襲撃して之を斬る。四年春、首を伝えて京(けい)に至る。藁街(こうがい)に縣くること十日なり。

石顕の威光権勢は日増しに盛んになり、中書僕射の牢梁と少府の五鹿充宗らと徒党を組んだ。そしてこれらにおもねり従う者が位を得た。人々はこの事を歌にして「牢か石か五鹿の客か、印は累るい、綬は長ながと」と歌った。
建昭三年、西域の副校尉の陳湯が勅命と偽って兵を動かし、都護の甘延寿とともに康居にいた郅支単于を襲撃して之を斬り殺した。翌年の春、その首を都に送り匈奴の居留区に十日間さらした。

少府 宮中の衣服・宝物・食事をつかさどる。 印 官印  綬 印のひも

十八史略 我が道を得て身を亡ぼさん者は、京生ならん

2011-03-12 17:25:48 | 十八史略
先ず東北地方太平洋沖地震に罹災された方と不幸にして亡くなられた方に哀悼の意をささげます。

弘恭死。石顯爲中書令。
五年、匈奴郅支單于漢使者、西走康居。
永光元年、匈奴呼韓邪單于北歸庭。
建昭二年、殺魏郡太守京房。房學易於焦延壽。延壽嘗曰、得我道以亡身者、京生也。爲郎屢言災異有驗。嘗宴見言事、意指石顯。顯奏出之、尋徴下獄、棄市。

弘恭死す。石顕中書令と為る。
五年、匈奴の郅支(しっし)単于、漢の使者を殺して、西のかた康居に走る。
永光元年、匈奴の呼韓邪(こかんや)単于、北のかた庭(てい)に帰る。
建昭二年、魏郡の太守京房(けいぼう)を殺す。房、易を焦延壽(しょうえんじゅ)に学ぶ。延壽嘗て曰く、我が道を得て以って身を亡ぼさん者は、京生ならん、と。郎と為り、しばしば災異を言いて験有り。嘗て宴見(えんけん)して事を言い、意、石顕を指す。顕奏して之を出だし、尋(つ)いで徴(め)して獄に下し、棄市す。

弘恭が死んで、代わって石顕が中書令になった。
初元五年(前44年) 匈奴の郅支単于が漢の使者を殺して、西方の康居に逃げた。
永光元年、匈奴の呼韓邪単于が北方の自分の領土に帰った。
建昭二年、魏郡の太守京房を処刑した。京房は、焦延壽から易を学んだが、ある時延壽が「わたしの易学を体得して、そのために身を亡ぼす者がいたとすれば、それは京房であろう」ともらした。京房は郎中になり、数しば天災地異を言い当てた。ある時、元帝の暇な折りに謁見して、或ることを予言したが、暗に石顕をほのめかす意味が込められていた。石顕は奏上して朝廷から追い出し、間もなく呼び出して投獄したのち、処刑して市中にさらした。

康居 西域の国の名。 郎 郎中、天子近侍の官、宴見 宴はくつろぐ。棄市 殺して屍を市中にさらすこと。

十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す(通釈)

2011-03-10 09:00:23 | 十八史略
弘恭・石顕の二人が帝に「蕭望之・周堪・劉更生は徒党を組んで互いに誉めあい、度たび大臣を讒訴(ざんそ)し、皇族を仲違いさせて自分たちで思うままにして不忠をはたらこうとしています。陛下をあざむくことは道にはずれたことであります、謁者に命じて廷尉に引き渡させたく存じます」と奏上した。時に元帝は即位したばかりで、召し出して廷尉に引き渡すとは獄に送ることとは気づかず、その奏上を裁可した。後に帝が周堪と更生とを召し出そうとしたところ、牢につながれているとの返事に大いに驚いて「廷尉が取り調べるだけではないのか」と言った。すぐに牢から出して政務を執らせた。しかし弘恭と石顕の二人は史高を通じて帝を説得して、とうとう三人を罷免してしまった。その後元帝は再び周堪と劉更生を召して中郎とし、さらに蕭望之を宰相にしようとした。弘恭・石顕・許延寿・史高の四人は横目で見合って危ぶんだ。そして望之が生来気骨が高く、屈辱に耐えられない質であることを知ってこう建議した「望之は過ちを悔い罪に服そうとはせず深く怨みを抱いており、自分は帝の師傅であったことを頼みに結局罰せられないと思っているようです。少しく獄に留め置き不平不満を懲らさねば、聖朝の恩沢をあまねく施すとは申せません」元帝は「太傅蕭望之はもとより剛直な性質である。どうして獄吏の手にかかることを承服しようぞ」と。石顕等は「人の命はきわめて重く、望之の罪は言葉の上の僅かな過失です、ご心配には及びません」と、そこで取り次ぎ役を遣って望之を召させ、一方執金吾の兵を出し、蕭望之の邸をとり囲んだ。望之ははたして鴆毒を飲んで自殺した。

譖詐 かげ口を言ってそしる。 毀離 仲違いさせる。 誣うる あざむく。
謁者 客の取次ぎをする者。 出でて事を視しむ 獄舎から出して政務を執らせた。 中郎 宿衛の事を掌る官。 詘辱 屈辱に同じ。 師傅 もり役。
怏怏 不平の気持ち。 執金吾 宮門警護 金は武器、吾は禦(ふさ)ぐ。鴆 毒鳥、羽を浸した酒を飲むと死ぬという。

十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す。

2011-03-08 12:00:51 | 十八史略

恭・顯奏。望之・堪・更生、朋黨相稱譽、數譖詐大臣、毀離親戚、欲以專檀權勢、爲不忠。誣上不道。請謁者召致廷尉。時上初即位、不省召致廷尉爲送獄、可其奏。後上召堪・更生。曰、繋獄。上大驚曰、非但廷尉問邪。令出視事。恭・顯使高説上、竟罷免。後上復徴堪・更生爲中郎、且欲以望之爲相。恭・顯・許・史皆側目。知望之素高節不詘辱詘、建白。望之不悔過服罪。深懐怨望、自以託師傅、終不坐。非頗屈望之於獄、塞其怏怏心、則聖朝無以施恩厚。上曰、太傅素剛。安肯就吏。顯等曰、人命至重。望之所坐、語言薄過。必無所憂。令謁者召望之、因急發執金吾軍騎、馳圍其第。望之飲鴆自殺。

恭・顯奏す。望之・堪(かん)・更生、朋党相称誉(しょうよ)し、数しば大臣を譖詐(しんさ)し、親戚を毀離(きり)し、以って専ら権勢を檀(ほしいまま)にして、
不忠を為さんと欲す。上(しょう)を誣(し)うるは不道なり。請う謁者をして召して廷尉に致さしめん、と。時に上、初めて位に即き、召して廷尉に致すとは獄に送ることたるを省(せい)せずして、其の奏を可とす。後に上、堪・更生を召す。曰く、獄に繋ぐと。上、大いに驚いて曰く、但だ廷尉の問うのみに非ざるか、と。出でて事を視しむ。恭・顯、高をして上に説かしめ、畢(つい)に罷免す。後に上復た堪・更生を徴(め)して中郎と為し、且つ望之を以って相と為さんと欲す。恭・顯・許・史皆目を側(そばだ)つ。望之の素(もと)より高節にして詘辱(くつじょく)せられざるを知って、建白す。望之、過を悔いて罪に服せず。深く怨望(えんぼう)を懐いて、自ら以って師傅(しふ)に託し、終に坐せられずとなす。頗る望之を獄に屈して、其の怏怏(おうおう)の心を塞ぐに非ずんば、則ち聖朝以って恩厚を施す無からん、と。上の曰く、太傅もとより剛なり。安(いず)くんぞ肯(あえ)て吏に就(つ)かんや、と。顕等曰く、人命は至重なり、望之の坐する所は、語言の薄過(はくか)なり、必ず憂うる所無からん、と。謁者をして望之を召さしめ、因(よ)って急に執金吾(しっきんご)の軍騎を発し、馳せてその第(てい)を囲む。望之、鴆(ちん)を飲んで自殺す。