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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 太祖の治績 2

2014-11-01 10:27:57 | 十八史略
 内外官、有事望者、籍記姓名、以待不次選用。稱職者多久任不遷。定銓選法、嚴譽擧主連坐法、嚴臟吏法、有極刑者。懲五代藩鎭苛征重斂之弊、寛商征、寛麴鹽酒禁。倉吏多入民租者、或棄市。五代多以武人爲牧守。率意用刑。上懲之。故入者必抵罪。定大辟詳履法、定折杖法、頒新刑統、定差役法。作版籍・戸帖・戸鈔。

内外の官、時望(じぼう)有る者、姓名を籍記して、以って不次の選用を待つ。職に称(かな)う者、久しく任じて遷(うつ)らざること多し。銓選(せんせん)の法を定め、挙主連坐の法を厳にし、臟吏(ぞうり)の法を厳にして、極刑に(お)く者有り。五代藩鎮の苛征重斂(かせいじゅうれん)の弊(へい)に懲りて、商征を寛(ゆる)うし、麹(きく)塩・酒の禁を寛うす。倉吏の多く民租を入るる者をば、或いは棄市(きし)す。五代、多く武人を以って牧守(ぼくしゅ)と為す。意に率(したが)いて刑を用う。上、之に懲る。故(ことさ)らに入るる者は必ず罪に抵(いた)す。大辟詳履(たいへきしょうふく)の法を定め、折杖(せつじょう)の法を定め、新刑統を頒(わか)ち、差役の法を定む。版籍・戸帖(こちょう)・戸鈔(こしょう)を作る。

内外官 中央の官吏と地方の管理。 時望 当時の人望。 不次の選用を待つ 序列によらず抜擢して任用する。 銓選法 銓ははかる、人材選抜の法。 挙主 推薦者。 臟吏 賄賂を受けた官吏。 極刑 は置く、死刑にする。 苛征重斂 征は取る、斂はおさめる。租税を厳しく取り立てる。 商征 商人に対する租税。 棄市 死刑にして市中にさらす。 牧守 牧は州の長官、守は郡の長官。 故入 わざと人を陥れること。 大辟詳履法 大辟は大罪、地方で死刑判決を受けた罪人を中央で再び審理する法。 折杖法 折は減ずる杖は杖罪。 差役の法 差役は公役に服すること。この日数を一定にした。 版籍 戸数人口、土地財産を記録した帳簿 戸帖は版籍と同じものを人民に渡しておくもの 戸鈔 戸券の類で戸別の手形としているが詳細は不明。

太祖は内外の官吏でその時代に人望のある者は、帳簿に記録しておいて、順序に拘わらず抜擢して登用の機会を待った。適任の者はなるべく長くその職に留まらせ転任させぬようにした。また人材選抜の法を定め、推薦者連坐の法を厳重にし、収賄官吏の取り締まり法を厳重にした。そのため死刑に処せられる者もあった。帝は五代の節度使のひどい租税の取り立てを嫌い、商人への課税をゆるやかにし、禁じられていた麹や塩や酒の自家製造を寛大にした。米穀を取り立てる倉役人で規定以上に取り立てた役人は死体を市中にさらす極刑に処することもあった。五代の時代には多く武人を地方の長官にしたが、勝手に刑罰を行った。帝はこれに懲りて、故意に民を罪に陥れた者は必ず罪に処した。また死刑者再審の法を定め、杖罪軽減の法を定め、新刑法の書を公示し、賦役使用の法を定め、版籍・戸帖・戸鈔の法を作った。

十八史略 太祖の治績

2014-10-28 09:16:14 | 十八史略

削平諸國、必招之、不至而後用兵。及其既降、皆不加戮、禮而存之、終其世。嘗幸武成王廟、觀從祀有白起。指曰、起殺已降。不武。命去之。周恭帝封鄭王、後遷于房州。上以辛文悦長者、俾爲房州倄守。恭帝先上二年、始卒。上發哀輟朝十日、還葬如禮。上初入京時、周韓通死節。追贈優厚。王彦昇棄命專殺、終身不授節鉞。受禪之際倉卒、未有恭帝禪制。學士陶穀出諸懷中。上薄之。穀久在翰林、頗怨望。上曰、吾聞學士草制、依様晝葫蘆耳。何勞之有。卒不登之政府。

諸国を削平(さくへい)するには、必ず之を招き、至らずして後に兵を用う。其の既に降るに及んでは、皆戮(りく)を加えず、礼して之を存し、其の世を終えしむ。嘗て武成王廟に幸(こう)して、従祀を観るに白起(はっき)有り。指さして曰く「起は已に降れるを殺す。不武なり」と。命じて之を去らしむ。周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に僊(うつ)る。上(しょう)、辛文悦(しんぶんえつ)が長者なるを以って房州の守と為らしむ。恭帝、上に先立つこと二年、始めて卒す。上、哀を発して朝(ちょう)を輟(や)むること十日、還り葬ること礼の如くす。上、初め京に入りし時、周の韓通(かんとう)、節に死す。追贈優厚なり。王彦昇(おうげんしょう)命を棄てて殺を専らにせしかば、身を終わるまで節鉞(せつえつ)を授けず。禅を受くるの際、倉卒にして、未だ恭帝、禅の制有らず。学士陶穀(とうこく)、緒(これ)を懐中より出だす。上、之を薄(うす)んず。穀、久しく翰林に在り、頗る怨望(えんぼう)す。上、曰く「吾聞く、学士の制を草(そう)する、様に依って葫蘆(ころ)を画くのみ。何の労か之れ有らん」と。卒に之を政府に登さず。

削平 平らげること。 武成王 周の太公望呂尚、唐の粛宗が追贈した。 従祀 墓陵に配置された武将の像。 白起 秦の将軍、趙の降兵を生き埋めにした。 不武 武徳に反すること。 房州 湖北省房県。 周の恭帝 後周最後の帝、宋の太祖に譲位した。 俾 使役の助詞、 ・・させる。 韓通 太祖の汴京入城を阻み殺された。 王彦昇 太祖の命を破り後周の韓通を殺した。 節鉞 節は将軍に授けた信任の割符、鉞はまさかり処罰の権。 倉卒 あわただしいこと。 草制 詔勅の下書きをすること。 翰林 翰林学士の位。 様 手本。 葫蘆 ひょうたん。 

太祖が諸国を平らげる場合はいつも使者を遣わして招き、従わない場合のみ兵を用いた。相手が降伏すると、決して殺戮を加えず、礼遇して天寿を全うさせた。嘗て武成王の廟に参詣して左右に配置された将軍等の中に秦の白起を見つけると、帝は指さして「白起はすでに降伏した趙の兵卒四十万を生き埋めにした男である。武士道に反する者である」として像を取り除かせた。
後周の恭帝は太祖に譲位してから、鄭王に封ぜられ、その後房州に移されていたが、辛文悦が長者であるというので、房州の太守に任命して恭帝を守らせた。だが太祖に先立つこと三年で恭帝は亡くなった。帝は喪を発して朝政を十日間停止し、埋葬するにも天子の礼を以って葬った。初め帝が後周の将軍として汴京に入城した際、これを阻んだ韓通が王彦昇に殺された、帝は節義を守って死んだとして、韓通に中書令を追贈して手厚く葬った。王彦昇は命令を破って後周の公卿を殺したとして生涯節度使に任命することは無かった。また帝が禅譲を受けた時、突然の事で詔勅の用意が出来ていなかった。すると翰林学士の陶穀が、かねて下書きをしてあった詔勅を取り出した。帝は陶穀を軽卒であると軽んじ、翰林学士のままであった。陶穀はこれを怨んだが、あるとき帝は「学士が天子の詔勅を下書きするなどというのは、手本をみて瓢箪を画くようなものだ。何の苦労がいるものか」と言って、陶穀を政府の要職に就けなかった。


十八史略 何ぞ法網の密なるや

2014-10-23 12:41:23 | 十八史略

内臣有逮事後唐者。上問、莊宗英武定天下。享國不久何也。其人言其故。上撫髀嘆曰、二十年夾河戰爭、取得天下、不能用軍法約束、誠爲兒戲。朕今撫養士卒、不吝爵賞。苟犯吾法、惟有劍耳。五代以來、藩鎭強盛。上以漸削之。罷諸節鎭、專用儒臣。分理郡國、以革節鎭之横。又置諸州通判、以分刺史之權。自是諸侯勢輕、禍難不作。專務愛養民力、罷卻貢獻、禁進羨餘。常衣澣濯之衣、寝殿布縁葦簾。晩節好讀書。嘗歎曰、堯舜之世、四凶之罪、止於投竄。何近代法網之密邪。

内臣、後唐に事(つか)うるに逮(およ)ぶ者有り。上(しょう)問う、荘宗、英武にして天下を定む。国を享(う)くること久しからざるは何ぞや、と。其の人その故を言う。上、髀(ひ)を撫(ぶ)して嘆じて曰く「二十年河を夾(はさ)んで戦争し、天下を取り得て、軍法を用いて約束する能わざるは、誠に児戯たり。朕今士卒を撫養し、爵賞を吝(お)しまず。苟くも吾が法を犯さば、惟剣有るのみ」と。
五代以来、藩鎮、強盛なり。上、漸(ぜん)を以って之を削る。諸々の節鎮を罷(や)めて、専ら儒臣を用う。郡国を分理して以って節鎮の横(おう)を革(あらた)む。又諸州の通判を置き、以って刺史の権を分つ。是より諸侯勢い軽くして、禍難作(おこ)らず。専ら民力を愛養するを務め、貢献を罷め卻(しりぞ)け、羨余(せんよ)を進むるを禁ず。常に澣濯(かんたく)の衣(ころも)を衣(き)、寝殿は青布をもって葦簾(いれん)に縁(へり)す。晩節、書を読むを好む。嘗て歎じて曰く「堯舜の世、四凶の罪、投竄(とうざん)に止まる。何ぞ近代、法網の密なるや」と。


内臣 宦官。 髀 腿。 漸 しだいに。 節鎮 節度使の役所。 通判 藩鎮の力を削ぎ、州の政治を監督するため置いた。 羨余 剰余。 澣濯 洗いすすぐ。 葦簾 葦で編んだ廉。 四凶 堯時代の四人の悪人、共工・驩兜・三兜・鯤。 投竄 追放。

宦官の中に後唐の荘宗に仕えていた者があった。帝はその者に「荘宗は、英邁武勇で天下を平定させた。にも拘わらず。国家を永続できなかったのはいかなる訳か」と問うた。その宦官はいくつかの理由を述べた。すると帝は腿を打って嘆息して「二十年も黄河を挟んで梁と戦い、やっと天下を取ったのに軍法によって部下を取り締まることができなかった。およそ児戯に等しい。わしは士卒を慈しみ、爵位恩賞も惜しみなく与えている。そのかわり軍法を犯す者があったら剣をもってこれを誅するだけだ」と言った。
五代からこのかた、藩鎮の勢力が強大になった。そこで帝は徐々に藩鎮を弱める政策を執った。諸方の藩鎮をつぶし、儒臣を登用して郡県を分けて治めさせて、節度藩鎮の横暴を改めた。また諸州に通判を置いて刺史の権限を削除した。これ以来諸侯の勢力が弱まり災いが起こらなくなった。一方民政ではひたすら民の財力を養うことに務め、貢ぎ物を止めさせ、余った租税を返納することを禁じた。内では常に洗いざらしの着物を着、正殿には青い布で縁どった葦の簾をかけて豪奢を戒めた。晩年にはよく読書を好んだが、ある時歎息して「堯舜の時代、四人の悪人を罰するにも追放にとどまった。近頃の法の何と細かいことよ」と言った。


十八史略 邪曲有れば、人皆之を見る

2014-10-18 10:45:48 | 十八史略

開寶初、修京城及大内、營繕畢。上坐寝殿令洞開諸門。皆端直軒豁、無有壅蔽。因謂左右曰、此如我心。少有邪曲、人皆見之矣。平蜀之後、嘗擇其兵百餘、爲川班殿直。郊禮行賞、以御馬直扈從特給。川班撃登聞鼓、援例陳乞。上怒曰、朕之所與、即爲恩澤。豈有例邪。斬其妄訴者四十餘人、餘悉配隷諸軍。遂廢其直。

開宝の初め京城及び大内(たいだい)を修め、営繕し畢(おわ)る。上、寝殿に坐して諸門を洞開(どうかい)せしむ。皆端直軒豁(たんちょくけんかつ)にして、壅蔽(ようへい)有る無し。因って左右に謂って曰く「此れ我が心の如し。少しも邪曲有れば、人皆之を見る」と。
蜀を平らげて後、嘗て其の兵百余を択んで、川班殿直(せんぱんでんちょく)と為す。郊礼して賞を行うや、御馬直(ぎょばちょく)が扈従(こじゅう)するを以って特に給を増す。川班、登聞鼓(とうぶんこ)を撃って、例を援(ひ)いて陳(の)べ乞う。上怒って曰く「朕の与うる所、即ち恩沢たり。豈例あらんや」と。其の妄りに訴うる者四十余人を斬り、余は悉く諸軍に配隷(はいれい)す。遂に其の直を廃す。


開宝 建隆三年の誤り。 京城 大梁をさす。 大内 内裏、皇居。 営繕 建物を新築または修繕すること。 洞開 開放する。 端直軒豁 真っ直ぐで高く広いこと。 壅蔽 壅はふさぐ蔽はおおう。 郊礼 前出、郊外で天地を祀る礼。 御馬直 天子が出御の際護衛をする騎兵。 扈従 お供をすること。 登聞鼓 天子に直訴するために鳴らす鼓。 配隷 分配隷属、人数を分けて部下にすること。
開宝の初め大梁の宮城及び内裏を改修した。帝は寝殿に坐
って、全ての門を開かせた。全て直線で結ばれ軒高く遮る物は何も無かった。そこで帝は左右の者に向かって「これは我が心を見るが如しだ、少しでも曲がっていれば、人はすぐ見つける」と言った。また、蜀を平定した後のある時、蜀の兵のうち百人余りを選んで宿直させ、これを川班殿直と呼んだ。後に郊外で天地を祀る祭礼が済んで、関係者に恩賞があった際、御馬直の兵が護衛を勤めた功労で特に給付を増された。すると川班殿直の兵が登聞鼓を打って、自分たちにも恩賞が下されるよう訴えた。帝はおおいに怒って「この度御馬直に増給したのは特別の恩賞である。それを例にするとは何事か」と言って、訴え出た者四十余人を斬り、その他の者は諸軍に振り分けて配下につけ、遂に川班殿直を廃止してしまった。

十八史略 太祖崩御す

2014-10-14 09:14:51 | 十八史略

上崩。在位十七年。改元者三、曰建隆・乾・開寶。壽五十。上仁孝豁達、有大度。陳橋之變、迫於衆心。洎入京師、市不易肆。嘗一日罷朝、坐便殿不樂者久之。左右請其故。上曰、爾謂爲天子容易邪。適乘快指揮一事而誤。故不樂耳。嘗宴近臣紫雲樓下。因論及民事。謂宰相曰、愚下之民、雖不分菽麥、藩侯不爲撫養、務行苛虐。朕斷不容之。

上崩ず。在位十七年なり。改元する者(こと)三度、建隆・乾徳・開宝と曰う。寿は五十。上、仁孝豁達(かったつ)にして大度有り。陳橋の変、衆心に迫らる。京師に入るに洎(およ)んで市、肆(し)を易(か)えず。
嘗て一日朝(ちょう)を罷め、便殿(べんでん)に坐して楽しまざる者(こと)之を久うす。左右其の故(ゆえ)を請う。上曰く「爾(なんじ)、天子と為るは容易なりと謂(おも)うか。適々(たまたま)快に乗じて一事を指揮して誤る。故に楽しまざるのみ」と。
嘗て近臣を紫雲楼下に宴す。因(よ)って民事に論及す。宰相に謂って曰く「愚下の民、菽麦(しゅくばく)を分(わか)たずと雖も、藩侯為に撫養(ぶよう)せず、務めて苛虐(かぎゃく)を行う。朕断じて之を容(ゆる)さず」と。


洎 及に同じ。 市、肆を易えず 市中では店じまいせずそのまま商売を続けていた。 便殿 休憩室。 快に乗じ いい気になって。 菽麦を分たず 豆と麦の区別さえ分らないこと。 

太祖皇帝が崩御された。帝は在位十七年。改元すること三回で建隆・乾徳・開宝といった。年齢は五十歳であった。帝は慈愛に満ち親孝行で心がひろびろしており、大きな度量があった。帝となるきっかけとなった陳橋の変の際、衆人に迫られて天子に推戴されたが、都に入っても市中はそのまま営業して変わりないほど平穏だった。
或る日のこと、帝は朝政を終わって居間に戻られたが、永いこと鬱々として楽しまぬ様子だったので左右の者が心配してその訳を尋ねると、帝は「お前たちは天子になることは容易なことだと思っていようが、今日わしは軽はずみに、ある事を誤って指図してしまった。それで不愉快なのだ」といわれた。またある日のこと、近臣を紫雲楼の下に集めて宴の席を設けた。いろいろの話の末に民の事情に言及すると、帝は宰相に向かって「愚昧な民、豆と麦の区別もつかないような者に藩鎮の諸侯がそれを可愛がらず逆にむごい仕打ちをするようならばわしは断じて容赦せぬぞ」と言われた。