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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略  周亜夫、血を吐きて死す。

2010-06-12 14:18:58 | 十八史略
初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。

初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。
鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。

緩急 危急の場合  太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。
鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと

以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。
ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。
一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ

十八史略 呉楚七国の乱

2010-06-10 08:26:59 | 十八史略
及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。

帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。

景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。

十八史略 孝景皇帝

2010-06-08 08:33:24 | 十八史略
孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。
景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。
以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。

内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ

十八史略 孝景皇帝

2010-06-05 09:30:46 | 十八史略
孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。
帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請
言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。
初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。

孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。
帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。
初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず

十八史略 風流篤厚

2010-06-03 18:01:50 | 十八史略
文帝崩ず
七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。

七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。

後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。
太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。

弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること