ひさびさに公式サイトに遊びに行きました。
『ナルニア国物語』を観た今、残る三大ファンタジーは『ゲド戦記』だけです。
この映画は、宮崎駿と息子・五朗氏だけでなく、
様々な関係者の深い思い入れがあって動いていることを、今さらに知りました。
『ナルニア国物語』『指輪物語』との最大の違いは
作者・訳者が共に存命で、本人が望む・望まないに関わらず
絶対的な影響力を持たざるを得ないこと。
ただでさえ、ハードルが高いアニメ化にはじめから大きな壁が
見えている・・・そんな制作現場なんだな、と改めて
その難事業に取組む、五朗監督の心中を思いました。
そういう内部事情がすべて明らかにされながら進むのも
この映画の特徴かもしれません。
特別寄稿 もうひとつの風を待つ。──「ゲド戦記」映画化にむけて
清水真砂子
訳者の清水さんの特別寄稿。
ジブリサイドからの「アドバイザーになって欲しい」という申し出を
断ったいきさつが描かれています。
世界的名著の訳者であることの重圧。
そしてそこから作品を解き放つことの意味。
作品に新たな命を吹き込ませたい、というある種の願いが、
非常に明快で軽やかで、それでいて優しく染み込んでくる文体で語られ、
まさに「風」を感じさせました。(言葉の力を感じます。)
(以下抜粋)
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どちらの場合も私は恐れたのだ。自分がこれ以上の影響を与えることを。訳者として、すでにして私は日本語版の「ゲド戦記」の読者に大きな影響を与えている。意図しなくとも、私の読み、私の解釈を強要している。日本語版「ゲド戦記」は私の朗読、私の演奏になる「ゲド戦記」なのだから。影響は本まででじゅうぶん。そこから先へは一歩もしゃしゃり出てはならない。私はそう思ってきた。
(中略)
私という個人の読みを集団の読みがらくらくと越えているのを見て、私は自分の読みの程度を思い知らされたのだ。それはうちのめされたとか、敗北したとかいった感覚とはまるでちがう。それぞれが必然をもってそこに在ることに気づかされたような、からっとした、さわやかな感覚だった。そういえば、と芝居を観ながら思ったものだ。ル・グウィンでさえ、自分の作品のゆたかさに気づいていないところがある。作者の意識をはるかにこえて、作品はその地平線をひろげてゆく。
(中略)
新しい年が明け、年賀状が届き始めた。その多くに「ゲド戦記」の映画化に対するコメントが書き加えられていた。五十代以上の知人友人のほとんどは映画化に眉をひそめ、若い人たちの多くは、楽しみだ、と記していた。
(中略)
私はそういう人々にも、きっと言う。「見ていてください。きっと初々しく、みずみずしいいい作品ができます。吾朗さんなら、きっとやってのけます」と。
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『ナルニア国物語』を観た今、残る三大ファンタジーは『ゲド戦記』だけです。
この映画は、宮崎駿と息子・五朗氏だけでなく、
様々な関係者の深い思い入れがあって動いていることを、今さらに知りました。
『ナルニア国物語』『指輪物語』との最大の違いは
作者・訳者が共に存命で、本人が望む・望まないに関わらず
絶対的な影響力を持たざるを得ないこと。
ただでさえ、ハードルが高いアニメ化にはじめから大きな壁が
見えている・・・そんな制作現場なんだな、と改めて
その難事業に取組む、五朗監督の心中を思いました。
そういう内部事情がすべて明らかにされながら進むのも
この映画の特徴かもしれません。
特別寄稿 もうひとつの風を待つ。──「ゲド戦記」映画化にむけて
清水真砂子
訳者の清水さんの特別寄稿。
ジブリサイドからの「アドバイザーになって欲しい」という申し出を
断ったいきさつが描かれています。
世界的名著の訳者であることの重圧。
そしてそこから作品を解き放つことの意味。
作品に新たな命を吹き込ませたい、というある種の願いが、
非常に明快で軽やかで、それでいて優しく染み込んでくる文体で語られ、
まさに「風」を感じさせました。(言葉の力を感じます。)
(以下抜粋)
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どちらの場合も私は恐れたのだ。自分がこれ以上の影響を与えることを。訳者として、すでにして私は日本語版の「ゲド戦記」の読者に大きな影響を与えている。意図しなくとも、私の読み、私の解釈を強要している。日本語版「ゲド戦記」は私の朗読、私の演奏になる「ゲド戦記」なのだから。影響は本まででじゅうぶん。そこから先へは一歩もしゃしゃり出てはならない。私はそう思ってきた。
(中略)
私という個人の読みを集団の読みがらくらくと越えているのを見て、私は自分の読みの程度を思い知らされたのだ。それはうちのめされたとか、敗北したとかいった感覚とはまるでちがう。それぞれが必然をもってそこに在ることに気づかされたような、からっとした、さわやかな感覚だった。そういえば、と芝居を観ながら思ったものだ。ル・グウィンでさえ、自分の作品のゆたかさに気づいていないところがある。作者の意識をはるかにこえて、作品はその地平線をひろげてゆく。
(中略)
新しい年が明け、年賀状が届き始めた。その多くに「ゲド戦記」の映画化に対するコメントが書き加えられていた。五十代以上の知人友人のほとんどは映画化に眉をひそめ、若い人たちの多くは、楽しみだ、と記していた。
(中略)
私はそういう人々にも、きっと言う。「見ていてください。きっと初々しく、みずみずしいいい作品ができます。吾朗さんなら、きっとやってのけます」と。
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