DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

USTREAMと著作権、なう

2010-05-24 | ブログについて考える
hiroyuki_ni氏のつぶやきで
小室みつ子がUst中継中に自宅ガレージに閉じ込められる(togetter)
に到達し、USTREAMに興味がデた(遅い;)ので書籍を購入。
これは初心者向けハウツー本でもあるのですね。
USTREAM 世界を変えるネット生中継 (ソフトバンク新書) (新書)

そういえば、行きたくて行けなかった神山監督の対談とかも
ストリームされてて、「すっごいいい時代ー」って感動してたんでした。
が、しかし、システムをまったく意識(理解)してませんでしたわ;

で、読んでいて、著作権について疑問が生じたので、
ググりまとめ。

=============================
●著作権基本ルール
音楽ユーザーの皆さま(JASRAC)
http://www.jasrac.or.jp/info/index.html
インタラクティブ配信 音楽ユーザーの皆さま(JASRAC)
http://www.jasrac.or.jp/network/

●現状問題点
Ustreamなどのストリーミングサービスを使ってDJをすることの違法性をどう解消すべきか(企業法務マンサバイバル)
※抜粋
「レコード・CDになっている音源を使ってDJプレイをし、これをインターネットにストリーミング配信で流す」場合
・著作者(曲の作曲・作詞者)が持つ楽曲の「公衆送信権」←JASRAC管轄
・実演家(曲の演奏者)が持つレコードに収録されている実演の
 「送信可能化権」
・レコード製作者(レコード会社)が持つレコードの「送信可能化権」
が働くため、この3者からそれぞれ許諾をもらわなければならない

著作隣接権はJASRACが管理できていないため、個々に承諾を得なければならない→非現実的
著作隣接権者の包括許諾を容易に取得できる仕組みが必要


Ustreamが抱える著作権問題とその裏にあるポテンシャル(NO TRY,NO LIFE.)
※抜粋
これらロングテールの尻尾にあたる音源達がフェアユース化され、フリーライセンスの下インターネットで配信されていけば、それこそ音楽の費用的な価値観は大きく変わる可能性がある。

●UST使用でのユーザーサイドの試み
沖野修也、UstreamでDJプレイを生放送
合法DJ Ustreamと楽曲著作権についての包括契約(togetter)

●UST使用での著作権サイドの試み
スピッツのCDなど、USTREAMでBGMに使用可能、MySpaceが許諾契約
「USTREAM」での作品利用に関するJRCの取組みについて

=============================

メモ:
・いろんなものがライブに向かう
・世界の見える化・見せる化(その加工・編集、見せ方技術)

・クリエイター含む製作者もある意味ヴィジュアル系サービス業要素増加
・すべてのサービス業の頂点が「銀座クラブのママ」にあるとしたら、世の中はますます“銀座化”していくのかもしれない。

・脳のモニタリング機能の3次元化→処理にタイムラグがなくなってきている?(ことの弊害は?)

・カウンターは?


注目生放送:
勝間さん、おいらジンバブエにきちゃいました (ニコ生):5月26日 23:00

関連日記:
音楽のコスト in ライブとコンテンツ
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twitter/mixi/blog比較

2010-03-23 | ブログについて考える
比較してみますた。

twitter:流れ/時間
・他人の頭の中の断面集/「私」の関心の断面集
・140文字以内の言葉世界の集合体
・著名人のツィート時間記録
・全部読むのは不可能
・長くは残らない・留まらない
・TLの中にいる「私」/TLの外にいる「私」
・フォローがデフォ/フォロー離脱が簡単/その時々で対象を変えられる
・基本は1つぶやきRT1つぶやき=1対1
・#で疑似&臨時コミュニティ化
●フォーマット:140文字/背景のみカスタマイズ可能
●足跡:つかない
●他の2つにはない機能/サービス:TL/#/twitter向けアプリ(twitter内自主開発)

mixi:出会い/場
・コミュニティを通じて接点(年齢・出身地・学校等)に出会いやすい/趣味・関心・体験を共有しやすい
・コメント欄で一度に複数と交流できる
・個人の日記・記録
●フォーマット:基本同一フォーマット/背景バリエーションあり
●足跡:必ずつく
●他の2つにはない機能/サービス:ゲームで交流促進・体験共有/mixi内イベント

blog:記録/倉庫
・個人の日記・記録
・長文可能/シリーズ化可能
・交流はブログ主意識差あり/非交流可能
●フォーマット:バリエーション豊富/基本フォーマット内でカスタマイズ自在/アプリケーションでカスタマイズ
●足跡:足跡機能はブログ差&ブログ主意識差あり
●他の2つにはない機能/サービス:TBで記事ごと飛ばせる/豊富なアプリケーション(提供型)/アフィリエイト機能


遅まきながらtwitterの面白さがわかってきた。
同時に限界というか、
情報価値の体系化の難しさ(主に受け手側のスキルの問題として)も感じる。

新しいことに出会う機会が増えれば増えるほど、
知らないことの多さに疲弊もする。
あきらめる・見切る。
それはやはり、私の中にすこしづつ澱みを作る。
うん、つまりは今は消化不良のまっさいちゅうということですね。
私的食べ過ぎ;;

でも、たしかにtwitterでは面白いことが起きている・起こそうとしている。
その“新しさ”は魅惑だし、
「新しい(と自分で実感できる)こと」との出会いがどんどん減っている現在、
1つでも多くのそうした場にいることは、大事だと直感的に感じる。

日本が今元気がないのは、若者が団塊やその後世代の
お古ばかり着せられてるからだと思うから・・・。

・・・なんてこともまた、考えていきたいと思います。
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なる@辞書★なれ

2009-04-16 | ブログについて考える
なれる

昔、職場で3つの「なれ」ということで
慣れ→馴れ→狎れというパターンが多いので
気をつけるよう、教えられた。
私も今、新人教育の場ではかならずこの話をする。

慣れ→馴れは楽しいし、ある部分までは何事においても必要だと思う。
ただそこから狎れまでは思いの外近い。

ブログのコメントも同じかもしれない、と
ふと思った。
(ちょっとコメントについて考える機会があったからですが)

自分が書けば、必ず相手に受け入れてもらえる、という環境が
必ずしも「よい」だけのものだとは私は思わない(「悪い」でもないけれど)。
逆に、この人だったら、これくらいのことを書いても
大丈夫、というのも・・・
・・・「大丈夫」というのは、あくまで自分の希望的観測(相手への期待)
にすぎないという認識が必要かなと。

ブログではよほどひどい内容でない限り、
&たとえ相手とズレがあって、ブログ主には若干不愉快なコメントであっても
相手に悪意がないと感じられる場合、
コメントくれる相手をむげにはできないだろう(という暗黙の前提がある)。
特に以前から交流がある場合には・・・
ある種、そういうケアレスミス(という表現が正しいかどうかはわからないけれど)
や勘違い、思い込みは、お互い様だという部分もあるだろう。

コメント欄は場合によっては、知りあい同士の
交流場でもあるので、ブログ主がなにも思わなくても、
「この人どうしてこんなコメントしてるんだろう?」
とか「どうしてコメントしないんだろう?」とか
他の参加者が感じるケースもあるだろう
意識的に特定ブロガーに対し、マイナスの意思表示をするために
“コメントはずし”をできる人がいることも残念ながら経験済み。
(巡回先全員にコメントする人だったので、
私にだけコメントがないことは当然すぐにわかったけれど、
なんか他の交流者を心配させる気がして、「ま、いいか」としていたのですが
「どうせ私には関心がないのだろう」的逆ギレされてめっちゃ驚いた・・・。
・・・本当に、いろんな考え方や受け取り方があるなぁ、と。
無視することで、一体どんな反応を期待してたんだろう・・・???)

暗黙の了解やルール、ネチケットと平行しつつ
コメントやレスの意味合いや価値付けはブロガーによって全く異なるとも思う。
コメントに対し、ほぼすべて好意的解釈でウエルカムできる方もいれば
勝手知ったる(上記のお互い様許容内な)相手とのみ交流する方もいれば、
一切コメントを必要としない方もいる。
ブログ創世記には、コメント欄を閉鎖しているブロガーへの批判があったが、
今では、それもまた正しいあり方の1つとして確立している。
(余談ですが、メールや電話という別の手段があることは
時としてブラックボックスを作るなぁ、と。
これは前に大失敗;があったので、自分が使う場合は要注意であります。
ブロガー交流の基本はやはり記事とコメントだと思う頑ななヤツであった;)

親しくなる、というのは、どこかでなにかをゆるめる行為だと思う。
ただ、そのゆるめ加減は難しい。
「親しき仲にも礼儀あり」は、礼儀以前に「親しさ」の度合いが
重要なのだと思う。
ネットでもリアルでも、一方的に「親しい」と錯覚してしまうケースは
多い気がする。・・・もちろん私を含めて。

“自分なら大丈夫だ”と錯覚するのは、ある種の自信過剰と
相手の思いやり(好意的解釈を含め)ゆえだろう。
もちろん、そんなことで迷う&悩むなら、
コメントを書かなければいいだけの話だとも言えるわけだけれど。

それでも、相手と関わりを持ちたい場合は、
働き掛けなければ=書かなければ始まらない部分はある。

そこに葛藤がある。

このブログは、基本的にどんな書き込みも
ブログ主のその時の「素」(ってコレが案外クセモノなわけだが)
で対応しているつもりで、
私がイヤなものはスルーするし、自分にとってはマイナスコメントでも興味を持てばレスをさせていただく。
参加してくださる方々には
「こんなレスが欲しかったわけじゃないのに・・・」
というケースも多々あるかもしれません・・・。
同時に、私が参加させていただくコメントで
不愉快な思いをさせている危険性もある。

こういうコメント、レスを書いたほうがいいんだろうな、と
一般常識的&経験上、わかってる場合もあるのですが、
それがなにも思わずに実行できる時と、何故かできない時があるようです。
こういうコメントってこの人にはウザいだろうな、とかも同じ・・・
それでも書けない、それでも書く、そこに関しては自分に甘いと
言われても仕方がない。

・・・完全な人間はいない&完全なコミュニケーション、
完全なコメント、完全なレスはない、とも思いつつ
それもまた「狎れ」かもしれない。

様々な「狎れ」について、自戒するとともに
負荷をかけた(ている)かもしれない皆様に、ここで深く謝罪いたします。
そして、そういう私だとわかったうえで、
なおも111を訪ねて下さる皆様に、改めて深く感謝いたします。

ちなみになれ寿司のなれは「熟れ」。
なんとなくいろんなものがうまくこなれて、独特の味わいになるという
イメージが今わいた。
慣れ→熟れになれるよう頑張りたいと思います。


追記:

っと、ひさびさにごちゃごちゃ書いてしまいましたが、
「コメントしたい」という思いは「愛」だとも思う。
語らなければはじまらない思いも関係もある。

書きたければ書きたいことを書く!
あとは相手に任せるしかない。
やるだけやって、あとは
両思いになるか、片思いのままか、失恋するか、罵られるか
その結果を潔く受け入れるのみかな、と。


追記2:

当然ながら、コメントやレスの前に、ブログの方向性の差も大きい。
(これも何度も書いているけれど)
たとえば、家族だけとか、卒業生だけとか、主婦だけとか、20代だけとか、
特定エリアとか、特定のファン、特定の趣味・・・
さまざまなコミュニティ型でのコメント交流はまたまったく
性格が異なると思います。
(・・・とはいえ、密度が濃ければ濃いで、トラブルは
あるのだけれど・・・
人間はワガママな生き物であり、他者と関わりたい生き物であり、
経験の有無を通してのみ変化・進化・退化する生き物ゆえに)
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ブログについて考える★業界用語について考える

2008-12-21 | ブログについて考える
このブログにおける「業界用語」について、批判的なご意見をいただく機会がありました。
特には意識していなかったのですが、好き勝手書いてるブログなので、「業界用語」を使う場面もあった&あると思います。最近はアップしきれてませんが「仕事本紹介」なんて最たるものだろうし。お仕事の話題がNALというブロガーおよびDREAM/ING 111の一部を構成しているのは間違いはないので。で、カウビや松ケンの話題と同じく、その記事や内容に興味がない方はスルーされておKだし、ご自分の好きな記事に自由にご参加いただけたらハッピー♪かな、と。それがこのブログの基本姿勢ではあるのですが。

レスさせていただいてるうちに、「業界用語」へのスタンスについて自分なりに気づいたことがあり、少し立ち止まって考えてみました。
一般的な業界用語と、個人のブログにおける業界用語とは使用場面の違いからニュアンスは異なると思いますが、そのあたりも少し加味しつつ。
まだまだ考察途中ですが、こういうのは思いついた時でないと、なかなか時間がとれないので、自分用の思考メモとしてアップいたします。

業界用語(wiki)

なぜか一部に「業界用語」=よくない、という印象を持たれる方がおられるようなのですが、「業界用語」そのものは決して特異なものではないと私は思います。というか、ビジネスではある意味当然であり、ビジネス以外でも業界用語に類するものってけっこうどこにでもあるのでは?
オタク業界のように極めて裾野が広く、また個人に及ぶ分野も含めて考えると、個々人がパーソナルな「自分業界」を形成していても決しておかしくないのでは、と思います。
※ネットのように流布度・流通速度が早い時代には、専門用語、個人の言い回し・クセ、地域・地方の方言、古語、等と「一般用語」(?)の区別化が難しいなぁ、とも思いつつ。たとえば2ちゃん用語などは、2ちゃんブランドそのものが一般化しているように感じたり・・・。ってこのあたりのこともまた改めて考えてみたいです(って書いたもので、きちんと押さえられた試しがないという罠)

私自身は「業界用語」には寛容なほうだと思っていますが(別に自分が所属するマーケティング業界に限らず&マーケティング業界で使われる用語でも個人的にわかりにくいものは多々あります)、今回はちょっと、自分の寛容さの裏付けを掘り下げてみようと考えました。

まず、「業界用語」がマイナス印象をもたらしやすい原因として、現時点で私が思いつくものを整理してみました。

1.業界外の人間にはわかりにくい、わからない表現が多い。
2.上記理由から業界関係者以外に優しくなく、排他的側面を持つ場合がある。「関係者以外お断り」バリアである場合もある。
3.同様に、その用語を知らない人間が、その用語を使った会話の中にいる時に疎外感や排斥感(一言でいえば仲間外れ感)を感じる場合がある。
4.その業界用語を使うことがなんらかのステイタスを伴うと勘違いし、そのステイタスをひけらかす目的で使うケースがある。(・・・そういうのって、ひけらかすほうがバカにされることのほうが多い気もしますが。)


で、それぞれについて、「ブログで起った場合」を前提として私見をまとめます。
これは「業界用語」というものを私的に見たらこう感じる、という私見であって、それ以外の考え方や意見を拒絶するものではありません。業界用語に限らず、あらゆる事象にはいろいろな考え方・見方・見え方があっていいと思います。“ブログの業界用語について語る時にブログで私が語ること”としてお読み下さい。(リアルの会話ではまた違った表現をすると思います。)

以下、前提条件として、企業や政府の広報活動のような「一般人に広く確実に特定の情報を知らせる・告知すること」が目的の文章表現は含みせん。

問題点1:業界外の人間にはわかりにくい、わからない表現が多い。

視点1 
「用語がわからない」ことがマイナスになるのは、「わかる必要がある」場合だと思います。なんらかの理由があって、どうしてもそのブロガーの「業界用語」を使った記事を理解したい場合は、ブロガーに説明を乞うか、自力で調べることで、問題は解決すると思います。ネットにおいては、「ググる」という簡単で便利な方法があります。

もちろん、そこまでする必要がなければ、その記事をスルーすればいいだけかな、と。書かれている記事は、時間的には読む前に起っている事象なので、過去を変える(書き手に変更を求める)よりは現在を変える(読み手が変更する)ほうがたやすいということもあります。

余談ですが、ブログを離れて、たとえば仕事だったら、その仕事につく人間は業界用語を覚える必要性こそあっても「業界用語を知らないから&難しいからわからない、仕事ができない」とは言えないはずであり、多くの場合は、業界用語は学習したり経験したりして覚えるものだと思います。

で、「わかる・わからない」だけでいえば、化粧品、エステ、紅茶、料理、車、格闘技、カメラ、歴史、政治、経済、文学、特定都市・海外生活etc.etc.・・・趣味・嗜好含めて好きな人・経験者にしかわからない用語って、業界用語に限らず日常生活でも際限なくあると思います。
どんな方でも記事が書け・コメントできるブログだと、自分が知らない未知の単語があって当然&それが面白い、と思うのですが、これは個人差があるかもしれません。

私の場合:自分が読みたいと思った記事や日記でで知らない単語がでればググります。

視点2 
理解度という側面に限っていえば、それが「業界用語」だから、というよりは、情報取得スキルの個人差の方が大きいと思います(これにはデジタル・デバイドの問題も影響しますが、ここでは少なくてもブログには参加できることを条件としておきます)。
そしてそれは、業界用語の問題だけではない。
・韓国の俳優のことをしらないので韓流ドラマの記事をスルーした。
・お料理ブログで、自分は見たことのない食材と調味料が使われていたため、味のイメージがうまく思い浮かばなかった。
・ペットを亡くしたことがないので、ペットロス症候群の本当の辛さはよくわからない
・見たことのないアニメの話題で、全然ついていけない・・・。
業界用語に関わらずそういうことってあるのでは?

また、理解の仕方もそれぞれなので「万人が理解できる」文章は難しいし、「万人が理解できてるかどうか」を検証することもまた難しい。

同時に「万人に理解できる文章に意味があるのかどうか(情報価値があるのかどうか)」についてはまた別の問題だと思います。内容と表現方法は密接な関係にはありますが、目的と方法は別次元でもあるので。

私の場合:用語がわからず記事が私にとっては意味フの場合はスルーします。多少用語がわからなくても、内容が魅力的だと感じるケースは多々あるし、ROMだけしてる分には私には問題ない場合が多いです。コメントする場合は、きちんと理解していないと相手に失礼だと思う場合もあり、その時はググるか質問します。

視点3 
誰かの考えをそのままで理解するのは、個人フィルターの関係で実は不可能であり、多くの場合は「わかった、理解した」というのは読み手の「納得度」である場合が多い。「わからない」とは、理解放棄含め、書き手の都合よりむしろ読み手の都合を優先した状況だと思います。
そして場合によっては、記事に対し自分なりの(自分が望む・好む)結論を欲していて、そのアンマッチングや齟齬から「(記事全体に対し)理解できない」と感じる場合もある。

私自身は、「何か(相手)を理解する」とは、読み手裁量ではなく、書き手の真意を書き手視点のままでどこまで汲み取れるかという、読み手の書き手への歩み寄りを指すのだと考えています。
だからこそコミュニケーションにおいては、そこに至る接点づくりが重要なのだと思っています。それでもなお、100%自分=相手になることはありえず、表現や理解や認識の差違は生じるでしょうが、上質なコミュニケーションの場では、その差違こそが相互の進化をもたらすように思います。

私の場合:多くの場合、誰かの考え方についてコメントする場合は、「私なりに」とか「私のわかる範囲ではありますが」等のエクスキューズをし、自分の理解度の範囲を示します。その後自分の事例を語る場合が多いので、マッチングの判断はコメントさせていただいたブログ主にゆだねます。的はずれなコメントをしてるケースも当然あると思います。その場合は申し訳ありません。

視点4 
「読みやすさ」と「わかりやすさ」は異なる。そして「わかること」と「意味がある」こともまた異なる。・・・ここを整理しておかないと、用語が難しいからわからないのか、自分の理解度が低いからわからないのか、調べる気がないからわからない(=わからないままでいい)のか、ごっちゃになってしまう、と思います。
「書き手が平易に書く」ということが必ずしも「読み手が理解できる」ではないし、「読み手が理解したいこと」でもない。

また、いくら平易に語られても、内容によってはわからないものは多いと思います。平易に書かれても自分にとって面白くないものもある。
中には、平易に語られているからこそ、わからないこともあるのでは?

よく読ませる文章の基本として「6歳児にもわかるように書く」という表現が言われますが、それは「6歳児にも伝えるべき内容に関して」という前提条件ありきだと私は思います。
ここを押さえないと、「6歳児にわからない文章はダメ」という極論含め、「平易な文章至上主義」のような展開になりがちだけど、万人にとって「簡単でわかりやすい」ものっていうのは実は一番難易度が高い。人によって「簡単でわかりやすい」基準は異なる、つまり、国籍、性別、年齢、居住地、趣味・嗜好etc=「経験」の有無が「ものごとに対する十分な理解」には不可欠なはずだと考えるからです。
自分にとってわかりやすい・平易な表現が他人にわかりやすいとは限らない。そして個人的には、平易さより、内容を表現するのに適切だと感じられるかどうかのほうを重視します。

私の場合:自分が面白いと思えば表現がめちゃくちゃでもOKです。いくら読みやすくても関心がなければ無意味なので。同時に面白いと感じることと、理解することもまた違う気がします。ちょっとうまく表現できませんが、このあたりはまた時間があれば考えてみたいです。

視点5 
ちょっと視点をずらして。
「難しい」「わかりにくい」のがデフォとされる哲学書含め、門外漢にとって、難易度が高いものは多い。でもたとえばデカルトに興味を持って『方法序説』にチャレンジして、わからないままにもなんとか読破し、達成感を得る。すると楽しくなって他の哲学書にも手を出すようになる。すると見たことのある単語が増える。「知らない」が「知ってる」に、「わからない」が「わかる」に変わっていく快感。や、それが押井守のアニメであっても、タルコフスキーの映画であっても、や、英語の教科書であっても同じかな、と。

知らないから知りたい、わからないけどわかりたい、それが「知的好奇心」や「探求心」と呼ばれる、学習意欲の源であり、向上心でもあると考えます。今はそういう意味で、ネットのおかげで多くの情報に簡単にアクセスできる、すごくいい時代なんだと思います。
って、このあたりは茂木先生の、知ることの快感で言い尽くされているので、ほとんど受け売り(てへ;

私の場合:たとえば好きなブロガーさんの記事で、知らない単語がでたらググります&それを知ることができて、自分の世界が広がってラッキーだと感じます♪

視点6 
蛇足ながら、私は「わからない」ことが必ずしもマイナスだとは思いません。むしろ世界中のブログについて(言語を含めて)全部「わかる」人間は存在しない。
神秘やブラックボックス、隠れてるから魅力的なもの、わからないから凄いもの。わからないけれどわからないままにおいておくこともまた、ブログの楽しみ方ではないかな、と。私は他の方のブログを拝見する時、そういう楽しみ方をさせていただいています。

私見まとめ 
●どうしてもわかりたければググる。そこまででなければスルーでおK。
●文章が「わからない」のは、必ずしも書き手のせいだとは限らない。
●内容を100%理解したいのではなく、読み手が納得したいだけ(自分の望む結論がほしいだけ)の場合がある。
●わかりやすい文章と読みたい文章はまた異なる。わかりやすいから面白いとは限らない。
●わからないことを自分で学ぶのこそが快感。
●100%わからなくても、ブログは楽しめる。

もし、私のブログの表現で「わかりにくい、だけど、どうしても知りたい」と思うものがあった場合は業界用語かどうかに関わらず質問してください。私にできる範囲でしかないけれど説明いたしますです。よろしくお願いいたします。


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問題点2:上記理由から業界関係者以外に優しくなく、排他的側面を持つ場合がある。「関係者以外お断り」バリアである場合もある。

ブログにおいては「関係者以外お断り」の場合は、パスワード制にする等の処置があり、それ以外で業界用語を使っているとしても、特に明記がなければ「誰でも参加自由」だと考えます。その場合は基本的には対処は「問題点1」に準じます。

特定業界ブログで業界語が語られるのはある意味当然なので(たとえば建築家のビジネス系ブログで建築方法が専門用語で語られている、等)、そこに参加する場合は、「仲間外れ」にならないためには、(あとから)参加する読み手サイドが用語を自習すればよいだけだと思います。

「仲間&身内意識」「仲間外れ」等の排他性は、業界ブログよりむしろ個人のコミュニティ系ブログで生じやすい気がします。特に仲間になる必要性を感じなければスルーすればいいだけですが、どうしてもそこに参加したいのなら、先方が決めた参加資格に準じるしかないように思います。でないとKY指定されがちかな、と。

特定ペットの飼い主ブログや学校の同窓会ブログ等、資格設定によってはどうしても参加できないものもありますが、それはさすがにあきらめるしかありません。※条件に合わなくても参加だけなら自由な場合もあります。

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問題点3:その業界語を知らない人間が、その用語を使った会話の中にいる時に疎外感や排斥感(一言でいえば仲間外れ感)を感じる場合がある。

いままでの流れに準じますが、基本は知らない側が用語をググるのが早道だと思います。その用語でなければ語れない内容というのは、必ずあるので(特に翻訳系用語の場合)。

個人のコミュニティでは、多少事情は変わってきますが、相手に質問できるのなら聞いてしまうのも話題に入るきっかけとしていいかも。
腐女子ブログにおけるカップリング用語のように、業界用語というのは「この用語がわかる方、こういう用語を使うブロガーに関心がある方のためのブログです」という目印でもあり、共通用語で結束を高める・場を盛り上げる等の効果があるので、その場に入るには参加希望者が用語習得するしかないかな、と思います。
あきらかに自分にとってアウェーの場合は、スルーすればよいと思います。

もし、相手があなたに対しわざとあなたが知らない(ことを先方は知っている)用語を用いてきたとしたら、そこには別の意図(あなたに知って欲しい、もしくは、あなたを拒絶したい、等)があると思われるので、そこを見極めて対処する必要があり、それがいちばんしんどいケースかな、と。
私自身は、特定のブロガーに対し、仲間外れや目配せのような低レベル(私見です)なコミュニケーションを行えるブロガーやコミュニティとはつきあわないほうが、精神衛生上よいと思います。そこに固執して環境改善を求めるよりは、次の出会いを探すほうが早いかなと。・・・そうはいかない人間関係の場合もあるでしょうから、ケース・バイ・ケースではありますが。
・・・これって業界用語レベルの問題ではない気もしつつ。アニメのキャラ名でだって起りえるかも。

ただ、相手の用語が100%わかるケースのほうがレアケースですし、書き手は読み手が思う(期待する)ほどには、意識して用語を使っていないように思いつつ。
いずれにしても精神的負荷はなるべく減らした方が、脳が楽しいです。

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問題点4:その業界用語を使うことがなんらかのステイタスを伴うと勘違いし、そのステイタスをひけらかす目的で使うケースがある。

ネットによって調べれば大体の用語の意味はわかる時代。いまどき上記のような意識でいるブロガーは、さっさとスルーすればよいと思います。


なんだか書いていて確信的になってきていますが、わかりにくいのは、業界用語だけではないのではないのかな、と。


■マスコミ業界用語について 

「業界用語」の中で、マスコミ業界はちょっと特別な扱いになるように思います。

それは流行語や新語など、新しい言葉を(多くの場合はネタとして)取り扱うからかな、と。
で、多くの場合、それらは「世間」や「生活」に定着せず消えてしまう、消費期限の短いものが多い。それに対し、「軽佻浮薄」「言葉遣いを乱す要因」としてマイナス印象・マイナス評価をされる方は多いのでは?

マスコミ業界用語は「マスコミ業界のビジネス上の専門用語」と「マスコミが好んで使う流行語」に大きくわかれると考えます。
前述に関しては、マスコミ業界外の人間が覚える必要は基本的にはないので、わからなくてもスルーすればよいのかな、と。逆にマスコミ業界に勤める方は勉強してくださいという感じかな。

流行語に関する言語学的・学術的なアプローチは、もっと専門の方がおられると思うので、そちらにお任せしたいと思います。
で、私自身はその用語の浮つき加減・馬鹿馬鹿しさを笑うスタンスも含めて流行語や新語OKだし、けっこう面白がるブロガーです。自分が気に入ればどんどん使います。2ちゃん用語に顕著ですが、あの言葉、あの表現でなければでない空気ってかならずあるように思います。

場合によっては作品を排除したり、作家を断筆に追い込むような「言葉狩り」のほうがよほど問題が大きいと思っています。

上記を含め、すべて私個人の私見であり、それ以外の考え方を否定するものではありません。

まだまだメモレベルで、ロクに推敲もしていないので、人に読んでいただける内容ではないよう<オイ

が、このタイミングをはずすと、自分的に落ち着いちゃってアップしない気がするので、初稿扱いであっぷです(こゆのがブログの面白いトコであり、危険なトコでもあるなぁ、と自覚しつつ)。

ここまで書いての感想として、ブログにおいては、業界用語云々というより、個人が個々の定義と用法で使う用語と、その解釈の関係のほうが興味深い気がします。つまりはやはりコミュニケーションのあり方の考察なのかな、と。

ここまでお読み下さった皆様に、深く感謝いたします。
読みにくい文章におつきあいいただき、ありがとうございました。

※異論・反論含めてご意見は歓迎します。ただし持論を反論されると無意味に攻撃的になられる方のご参加はお断りいたします。また記事に関係のない離れた持論展開もご遠慮ください。持論をお持ちの場合、過去記事をTBいただければこちらからお邪魔いたします。よろしくお願いいたします。
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ブログについて考える★今日のブログ

2008-07-14 | ブログについて考える
1.書く

ブログで、
書きたいことをできる限り
きちんと自分の言葉(経験値×ボキャブラリー)で、
他者にわかるように(常識×配慮)
書く。

行為と結果しては1つだけれど
自分の言葉で書くことと
他者にわかるように書くこととが
思うに、私の場合は乖離することが多い。

それは自分が言いたいことを書くことを優先したり
誰かに伝えることを優先したり
(それが私のイメージ通りにできているかどうかは別として)
その時々で軸がぶれるからだろうと思う。
そして、それ自体を特に私自身が問題視していないから繰り返すのかも。

それ以前に、「表現力」としての言葉を
いまだ自分のものにはできていないのかもしれない。
いや、自分の現時点の表現力に甘んじてる、そういうレベルなのかも?

書きたいことがわからなくなる時もあれば
書きたくても能力的に手に負えない時もある。
書くことに意味を見いだせなかったり
特には書きたいことがなにもない時ももちろんある。
書いてもアップしなかったり、そのままノートに書くこともある。

で。
極めてエゴな個人的空間でありながら
他者に向かって開かれたブログは面白いと改めて思う。


2.読む

あちらこちらお邪魔していると
いろいろな「私」の表現に出会える。
言葉が形作るものは言葉の世界のものでしかないのかもしれないけれど
表現としての言葉は、それがコピペであっても
臍帯のように行為者であるリアル本体につながっていて
ネットに留まる言葉の向こうに、それをテキスト化し入力し、
ネットにリリースした意思が、主体が
私の目にも垣間見える。

(私にとって)
繊細な記事、大胆な記事、
共感できる記事、驚愕する記事、
情報養分の高い記事、発見のある記事、
思わず笑ってしまう記事、リラックスできる記事、
緊張する記事、何度も読み返す記事、
眺めていたい記事、さらりと通りすぎる記事、疑問が起る記事、
我が身を振り返る記事、再考する記事

それは読んでいる時点ですべて私の思考言葉になって入ってくる。
相手の過去情報の蓄積含め、私の経験値・推測値の域を出ることはないのだろう。
ただ、そうした思考は、読んでいる最中は
厳密にいえば相手と私の境界線に浮遊している感じがする。
自分が考える他者の思考には一種の手探り感&借り物感がつきまとう。

で。
他者に薄く広くつながりながら
自分に濃縮されていくブログは面白いと改めて思う。


3.書く

それを記憶したい時、記録したい時、
完全に自分のものにしたい時・腑に落としたい時、
ブックマークする、クリップする、
コメントや記事を書く。

コメントには、記事主体に共感や感想を伝えたい時
ちょっとしたあいさつ、そういったものもあって
発信して終わる自分の記事よりも、
その行為のほうが、すごくリアルに近い実感を持つ。
記事を読み、そして入力するリアルアクションが入るからかなと。
レスポンスを待つタイムラグもまた、リアルに「間」を保つ。

なぜ書くのか
自分を記録するためか
自分を記憶してもらうためか
多分、その両方を同時に・瞬時に
主体的に両立させながら
他者の記憶にフックをかけ
他者の記録に足跡を残しながら

常に常に、アップされた瞬間に過去になっていく
「私」と「私たち」が
臍帯のようにリアル時間につながっている
今日・今・この瞬間。

ブログは面白いと改めて思う。
コメント (6)
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VOICE

2008-05-08 | ブログについて考える
なにかのマイナスはより大きなマイナスを掛け合わせればプラスになる。

なにかが足りない人はもっと足りない(と、その人には思える)人に関わることで自分を満たす。

自分より下と関わる、自分より上と関わる

どちらにしても起点は自分なのだけれど

集団やつながり(ネット含む)の中で

共鳴して増幅して、案外それを忘れている(忘れていられる)

それもまた「個」人の満ち欠けの関係。



ブログがどうしてこんなにたくさんあるのか

片割れを探す、それと同時に、自分を探す人が多いから。

そして自分を残したい人、自分を見つけてほしい人も。

・・・きっと。



そんなことをふと思う、5月。

※他者(主に個人)批判系は苦手だ。ただ、きっとネットで辛辣な人は、リアルで案外孤独な(自覚的・無自覚的に&孤独が好き、を含め)人が多い。たくさんの批判系(政治・その他)を見ていると、そんな気がする。「はてな」なんかは批判行為で相手にディープにつながってる。
ブログは個人のメディア。記事そのものを書き込む行為は1人。そこで誰か(バーチャル&リアルな、見知らぬ&見知った)を批判する言葉を連ねる・少なくても対象を思い浮かべるその瞬間は脳内では独りではない。・・・だからかな、と。
「自分は(自分のほうが)正しい、えらい」「自分を認めて欲しい」を含めて、人はつながっていく、好意と憎悪とプライドで。

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ネットについて考える★学校裏サイト・ネットいじめ

2008-03-17 | ブログについて考える
ここ3日間、FC2にログインできなくって今メールで問いあわせしてるのですが
まだ回答いただけていません。
というわけで、本来はサードブログにアップする内容ですが
とりあえずこちらにアップ。


学校裏サイト ネットいじめをなくすには(読売新聞) - goo ニュース

先日勉強会を行ったばかりです。
今のところ、地域の関係学校では深刻な裏ブログ問題は存在していないようですが
ブログを持ってる子どもの比率はかなり多いうえ、サービス形態も多岐にわたり
(携帯サイトもすごいですし、ポータルサイトの日記サービスは数限りない)
中高生では複数サイト運営もあり、実態把握はまだまだ困難だと思います。

ネットが簡単に誹謗中傷の場になるのは
ひろゆき氏的にいえば、「それを楽しむ人」がいるからですが
子どもたちはそうした大人の誹謗中傷を表面的に(中途半端に)学習していると思います。
そしてそこには情報デバイドがある。
2ちゃん慣れしてる子どもが使う「氏ね」と
そうでない子が使う同じ言葉、同様に受け止め手としての経験値の
違いは、そのままダメージや解釈の差となる。
で、2ちゃんでは匿名性が守る距離が、学校という狭いコミュニティの中では
よりダイレクトな目的志向なものになってしまいやすい。

いったん発動すると、連鎖的に飛び火しエスカレートしやすい誹謗中傷行為。
大人でさえ制御できないネットにおけるモラルハザードが、
子どもたちにコントロールできるはずがない。

フィルタリングサービスも防衛策としては必要ですが
そういうことを起させない、意識づけや啓蒙は
ネット犯罪や、リアルいじめと同様に、日々の中で子どもたちに
教育していくしかないと思います。
そういう意味では前々からいわれ続けている情報リテラシーを
早く教育に組み込むべきなんだけど、時間も人手も足りないし、
先生方もまた意識差がある。

やっかいなのは、親含めた大人同士でもかなりのデジタルデバイドがあること。
もしかしたら子ども以上に。
子どもがSNSを含むサイトやネットオークションに(規約違反含めて)参加していても「よくわからない」親は多い。
親によっては、まだまだ「PCは勉強の一部だから」と監視なしで推奨する人もいるようで、自分の子どもが度重なるネットトラブルの加害者・被害者になっていても気がつかない。
もともと、親の意識や立場の差はどんなトラブルにも歴然とあって、
「いじめ」にしても意識差・認識差はありますが、
ネットは「わからない」ままにしてしまう方も多いのが一番問題かも。

このことは、勉強会をしていても痛感します。
(警察でさえ数年前はネット犯罪意識が低かったのだから致し方ないとはいえ)
ネットのこわさは実際経験した人とそうでない人で格段に認識が違う。

ただ、こわさばかりインプットされるとまた違ってきてしまう。
PCとネットが子どもたちがこれから生きていく社会で必須であることは
間違いはないわけなので、悪・毒扱いしてフタをすればいいというわけにはいかない。
リスクマネジメントの考え方が必要だと思います。
徹底した制限や親の介入をどこまで・いつまでやるのか、もまた考慮すべき点となる。
最終的にはネットモラル、ネチケットからはじまって
コミュニケーションのありかたになっていくと思うのだけど
私自身含め、大人でもできていないこと(だからこそ炎上もあるわけで)を
子どもに求めるのって、難しい。

どちらにしてもまずは親が、もっともっとネットの魅力(メリット、ベネフィット)
とこわさ(デメリット、プロブレム)を実感すべきだと思います。
それがけっこう難しいんだけど・・・。
とりあえず
●ネットトラブルの種類
●炎上はなぜ起るのか
●ネットのコメントの攻撃性(文字コミュニケーションの難しさと限界)
について位は、今まで書いてきたことも含めて、親用&中高生用に
簡単な資料をまとめられるかな、と考え中。
最終的には子どもたち自身が自分の言葉でネットの魅力と危険を
語るような機会があればいいな、と思ってます。

いじめにしてもネットにしても、
子どもとデイリーにリアル・コミュニケーションをとることの重要性が
今はものすごく求められてる、そんな気がします。
コメント (2)
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mixiとニコ動・・・とはてな

2008-03-06 | ブログについて考える
mixi規約改定の意図説明「日記を無断使用することはない」

mixiが新利用規約の条文修正を検討、ユーザーに著作権あること明記
3月3日に同社が新利用規約を発表した後、日記が勝手に書籍化されるのではないかといった懸念の声がユーザーらから上がり、これに対してミクシィでは4日、多数の問い合わせが寄せられていることに対して謝罪。誤解を避けるためだとして第18条の意図を説明するとともに、mixi日記などの著作物の権利はユーザー自身が保有することに変わりはなく、ミクシィが無断で使用することもないと補足していた。
ミクシィでは、条文修正とあわせて、多く寄せられた問い合わせや用語についてQ&Aの作成・公開も検討しているという。


Q&A化はよいかも。誤魔化されないようにしなくちゃですが。
ユーザーの対応(てか反撃)も早かったけど、
mixiのレスポンスもまずまず早い・・・のかな?当然ちゃ当然ですが。
てか、こういう事態になることを避けるべきだったかなとも思いますが。
投資家の動きがある意味一番わかりやすかったですが。

ミクシィ株の下げ続く、利用規約改訂でユーザー揺れる-相次ぐ格下げ

こうして一部のユーザーの気付きが全体に波及し、その声によって投資家が動き、それらによって企業が動き、その一連の流れがこうして逐一見えるのって(裏でどんな悪戦苦闘や闘いが繰り広げられてるのかはわかりませんが)、やっぱりネットならではだなぁ、と、野次馬してしまいました。はい。

メディア系(?)ユーザーを含むネットメディアの反応も早い。
「使用」を主張して「格納」を理由とするミクシイ(ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記)
最初に火をつけた町山智浩氏。やっぱりそうだよね、と納得です。

mixi規約改定問題 「ユーザーが著作者の時代」にまた繰り返す大騒動 (1/2)
こういう情報を交通整理したまとめ系のニュースと
専門家の意見記事が組み合わさると、読む値打ちあるなぁ、と思います。


それにしてもまさにこのタイミングでニコ動怒濤の大躍進。
風が、ふいた?
パワーバランスって絶対あるなぁ、と思いまする。

【SP1】ニコニコ動画(RC2)がSP1へ。新しい事、変わった事まとめ

ひろゆき氏、新ニコ動は「あさっての方向に進化」
うーむ。
なんか「ちゃくちゃく」と「ぶわっ」がかけあわされた音が聞えます。
なんかよくわからないけど&まだまだ先のものもあるけど、やたら楽しそうなんだよね。
動画を巡る著作権に関しても、ユーザーに自分で動画を作る面白さをインフラとして用意してから、取締りを厳しくする、というような印象。ある意味アリネタで育った層を次の段階に連れていって「一緒に盛り上がろう」みたいな部分が、こうして気がつくときちんと計画されてるのが秀逸だなぁと。
これでニコ動で育って、面白さ学習してるユーザーから、面白い動画コンテンツが生みだされるようになったら、これってまさにインキュベーターだよなぁ、と思ったり。
そのあたりを「うちはコレをやってみせます!」って大上段に構えずに、ぬらりくらりとやってくれるからカッコいいのかも。と同時に、別に失敗してもいいじゃんな空気もあって、これって私の思うゆとり文化のメリット面という気するのであった。

「ニコニコ動画」が「SP1」にバージョンアップ 「ムービーメーカー」無償配布

ニコ動「時報広告」発売 1本50万円から
ニワンゴは3月6日、「ニコニコ動画」上でCMなどを全ユーザーに同時配信する「ニコ割」を使った広告「時報広告」を発売した。広告料金は1本50万円から(制作費含む)。

でもって、ここにきてはてなが、しっかり一角に陣取ってるというひそかな驚き。w

記事本文にニコニコ動画が貼り付けられるようになり、動画ページにも掲載されるようになりました

うーん、なんだかこういうなにげにチャレンジをやってしまっちゃえる対応が
はてなっぽい、って思っちゃう(gooではありえない、てか、
めっちゃ時間かかる気がします)。


ブログ周辺が新学期(wに向けて面白くなってきたかも♪

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ひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化

2008-03-05 | ブログについて考える
またまた記事乱発傾向ですが、書ける時×書きたい時に書かないと
書かないヤツなので、ご容赦くださいませ。

ブログ関係は最近はオフ環境で自分用(一部仕事用)にログ化してたんですケド
(自分の好奇心的に安定期なので)
ちょっと mixiのことで動きもあるようなので、ブログでもログ化。

最近、面白いなと思った記事です。
はブログ主です。また記事は大幅に削除しています。
「人間に興味があるんじゃなくて,どちらかというと知識に興味がある」というのにはすごく共感を覚えます。もともと「人間」が情報的には「点」の集合体でしか把握はできない、という前提においてですが。知識の接点が増えると自動的にその人間(発信情報が100%に近い形でリアル情報に還元できたとして)そのものに近くなっていくと思います。

「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」のひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化

抜粋
●人間<知識=誰が見ても納得できる理由
ひろゆき氏:
まあ人それぞれだとは思うんですけどね。僕は,赤の他人の日常生活のことを聞くくらいだったら,映画とか見てるほうが面白いと思うタイプなんですよ。
モンハンは基本的に友達としかやらないですね。まず「友達と遊ぶ」というのがあって,それが麻雀だったりモンハンだったりするという流れです。
(中略)
ひろゆき氏:
人間に興味があるんじゃなくて,どちらかというと知識に興味があるんですよね。「この話をしたい」とか「こういう情報を知りたい」とか,目的は人間じゃなくてあくまで情報なんです。情報のやりとりをする場として「2ちゃんねる」を作っているので。「いま発言しているこの人が,本業としては何をしているか」なんていう,「この人に関する情報」には興味がない。だから,それを削ぎ落とした形になってるんですよ。

4Gamer:
そういった意味で,「2ちゃんねる」は,純粋な情報交換ができる場として価値があると。

ひろゆき氏:
そしてその場合,肩書きは邪魔になります,例えば僕が言っちゃうと,もう正しいんだと思い込んじゃう人って,やっぱりいるんですよね。「私は大学教授です」って書いちゃえば,「大学教授が書いているんだから正しいだろ」って信じてしまう人がいるけれども,それと情報の信頼性は本来違うはずです。
匿名でいながら説得力のある人って,結局情報ソースを持っていたりとか,合理的に結論を導いていたりとか,誰が見ても納得できる理由を持っているわけです。情報としてはそっちのほうが信頼性が高くなるんじゃないのかなと思っているんですけど。

●自力救済型のコミュニティ
ひろゆき氏:
「シムシティ」と「2ちゃんねる」に対する興味の共通点は,極端な部分での安定じゃないですかね。ほかのコミュニティサイトは匿名性を排除して,ある程度制御できる,コントロールできる形で安定を求めるんですけど,「2ちゃんねる」の場合,コントロールしないことで安定してるんですよね。
コントロールしないけど,最終的には文字書くだけなんだし,お互い攻撃的なら好き勝手書けば,というか。誹謗中傷も,やられて嫌だったらやり返せばいいし,それでイーブンでしょ,というところでバランスを取っている。そこはもう,使う人達が勝手に決めればいいじゃんねという。

4Gamer:
ああ。自力救済の世界なわけだ。

ひろゆき氏:
それがたぶん彼らの求めているものであって,ほんわかした雰囲気が好きな人達は,ほんわかした雰囲気の掲示板を作ればいいし,誹謗中傷や罵倒しあうのが楽しいと思う人達は,それで楽しめばいいし。
作っている僕の目的がお金を取ることなら,コントロールする必要があるんですけど,中の人が満足しているなら別にかまわないというポジションを取っているので,そういう意味では全部安定しているという感じに,僕には見えるんですよ。

●匿名情報の優位性
ひろゆき氏:
例えばバイクをすごくいっぱい乗っている人が「このタイヤいいよ」っていうと,本当は何がいいんだか分からないけど,いいっていうことが確定しちゃうじゃないですか。でも匿名の場合って,何がいいのか,こっちのタイヤとこっちのタイヤを比較して,スリップが少ないとか,これならタイヤの溝が少ないとか,いろんな情報を出して,見ている人がそれに納得するという形になるんで。

4Gamer:
書かざるを得ないから,そこで初めて書くという。

ひろゆき氏:
残った情報として価値が高いのはどっちかっていうと,たぶん属人情報が少ないほうじゃないかと,僕は思うんですけど。説得したければそうせざるを得ない。単にフィーリングが合うからっていう人なら,それはそれでいいと思うんですけど。

●コミュニティの寿命とマネジメント
ひろゆき氏:
こういうコミュニティって,だいたい2,3年でつぶれるんですよね。つぶれる理由ってやっぱり,常連が幅を利かせるからで。そうすると新しいところに行くっていうのが,いままでの解決策だったんですけど,そこをなんかシステム的にいじって解決できる方法があるかな,というのを,いろいろと試しているんですけど。
(中略)
ひろゆき氏:
双方にとって快適な居場所を共存させるなら,それぞれ別の場所に作ったほうが早いかなあと。新しい人にとって快適な場所を別に作っても,古い人達にとって古い場所は快適なままなので,新しい人にとってみれば,古い場所を変えるよりも,新しい場所を作ったほうが早い。

●著作権とコンテンツ共有化土壌
ひろゆき氏:
掲示板やっているのもそうですけど,僕は観察するのが好きなんですよ。ところが携帯電話って,サービスを提供します,サービスを使う人ですっていうのが,完全に分かれていて,使う人が面白いものを創る文化っていうのが,そんなにないんですよね。
最近ようやくケータイ小説みたいのが出てきて,割とありなんじゃないかとは思っているんですけど,それもやっぱりブログと一緒で,書いてくださいってツールを提供して,そこでやるっていうだけ。予想外の使い方をしたりするとか,新しいものを作ってくるユーザーっていうのが出てこないんですよね。

4Gamer:
ああ。そこは仕組みとして見ると,そのとおりですね。

ひろゆき氏:
それはあんまり面白くないなと思っていたところに,ドワンゴで「動画みたいのを今度やるんだよね」という話が上がって,それは面白いんじゃないかなと。結局動画をアップロードするツールでしかないんですけど,その動画ってもの自体,コンテンツをユーザーがどう作っていくかで,面白い部分を含んでいる。
ケータイ小説とかだと一人で作れたし,YouTubeもだいたい一人で作品を作ってる。それに対してニコニコ動画の場合,人が作ったものを勝手に変えるのもアリだよね,という文化圏なんですよ。ケータイ小説もYouTubeも,それはあんまりないんですけど。
例えば他人が作った動画で勝手に悪ノリしてみましたとか,絵を付けてみましたとか,音声つけてみましたとか。著作権法上あり得ないことなんですけど,ニコニコ動画内に,当然のことだよね,文句言うのがおかしいよね,という文化圏を作ってしまうと,割と予想外のものがどんどん出来上がるっていうのが,見ていて面白いです。

●著作権と経済システム
ひろゆき氏:
著作権法っていうものがあって,人の物を勝手に変えてはいけませんって書いてあるんですけど,そこは納得できない。おまけに,もともと作った人の側からも「著作権法を守るより,面白い物が出来るほうが楽しいから別に気にしなくていいよ」って言い出す人がいる。するともう,既成のルールは無視して,「面白い物ならアリ,ただ,つまらない物を作るんなら,それはよくないよね」っていうところで,みんなが納得できる場。そういうことです。

4Gamer:
もともと法というのは,社会が都合よく回るためのものであるからして,みんなが面白いほうがいいとか,みんなが儲かるほうがいいとか,そもそもみんながごはん食べられなきゃだめだろとか,そういったものから社会秩序が決まってくるはずですよね。

ひろゆき氏:
まあ,成熟しちゃうと法律国家になって,法のための法になって,その法のための法に納得できない人が割と増えてきているというのが,いまの結果だと思うんですけど。
実際,昨日(2月19日)ニコニコ映画祭の審査会があって,そこにサンプラザ中野さんが来ていたので,話をしてみました。サンプラザ中野さんの曲を使って,アップロードしている人がいる。サンプラザ中野さん的には「面白い,アリだ」と思っている物が,上げられたら削除されたんですよって言われて。確かにサンプラザ中野さんとしては面白いと思うけど,やっていいとも言えない。なぜならそれは,JASRACに登録されているし。
そうなると,本人は面白いからアリだと思っていても,社会の法システムの中で許されないっていう行為が,やっぱり生まれちゃうんですよね。

4Gamer:
システムは本来システムのために存在するわけではなく,便宜があって目的があってシステムがあるので……。

ひろゆき氏:
のはずなんですけど,システムのためのシステムで生きている人もいるんですよね。
社会システムって必ず経済とリンクしているのに対して,いまの僕らが面白いと思っている文化って,経済とまだそんなにリンクしていないんですよね。文化って,最初は面白いで始まって,それがいつの間にかビッグビジネスになっちゃったりするわけじゃないですか。だからたぶん経済はあとからついてくる。いまは文化を創る時期で,そのうち経済が回ってくれば,システム側の人も「回ってるんだからしょうがないよね」と,追従せざるを得ない状況になると思うんですけど。

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mixiの言い分

2008-03-05 | ブログについて考える
私はやっぱりこういうのに反応しちゃう(お祭り系;)ブロガーなんだな、と再認識。でも、マジで時間ごとの情報波及測定やブログサービスごとの記事数比較とかやってみたいですー。反応者のさくっとしたプロフィールも知りたい。今、ブログやSNSがユーザーの中でどういう位置づけになってるのか、指標化できるチャンスかも。・・・なんてことを妄想しつつ。

「mixi日記、無断書籍化はしない」――規約改定の意図をミクシィが説明
ミクシィの広報担当者はこれに対し、「ユーザーの日記などの権利は従来通りユーザー自身が持ち、書籍化も、ユーザーの事前了承なしには進めない」と釈明。その上で、新条項を追加した意図について、
(1)投稿された日記データなどをサーバに格納する際、データ形式や容量が改変される(ユーザーの著作者人格権《同一性保持権》を侵害する)可能性がある
(2)アクセス数が多い日記などは、データを複製して複数のサーバに格納する(ユーザーの複製権を侵害する)可能性がある
(3)日記などが他ユーザーに閲覧される場合、データが他ユーザーに送信される(ユーザーの公衆送信権を侵害する)可能性がある
――など、厳密に著作権法を適用した場合に、ユーザーに無断で行うと法に抵触しかねないデータの複製や改変について、規約で改めて規定した、と意図を説明した。


うーん、ユーザーの反応を見た上での後付け弁解にすぎない、という印象。
そしてそう言われても仕方がないかな、と。
「ユーザーが日記などを投稿する場合、ユーザーはミクシィに対して、その情報を国内外で無償・非独占的に使用する(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行う)権利を許諾するものとする」「ユーザーはミクシィに対し、著作者人格権を行使しない」
という文言が変わらないなら、現時点でユーザーへの説得力はないのでは。
規約というからには、言葉で釈明するのではなく文言化すべきで、上記の3つの場合を重視してるというのなら、そこにきちんと言及した記載にすべきかな、と。
こういう、どうとでも取れる内容を改訂文として提示する根性が、情報を生業とする企業として信じられません。(って、企業サイドのみに有利な文面を、こそっと小さくさりげなく、はデフォではありますが;;)。
※追記:はてなでも2004年もめてるんですね。ライブドアでも過去事例あり。そのあたりきちんとふまえて対策化しなかったのは何故だろう???

やー、なんだかひさびさの大型な祭り、という感じですが、減少するPVを食止めるための話題作りかなぁ、とすら思うほど。
私自身は最初は憤って&純粋に疑問を感じて
個人的に質問書を送ろうと思ってたのですが
少し様子見に切替えて、経過情報を収集していきたいと思いまーす。

最終的にどういう形に落ち着くかが楽しみです。<オイオイ

関連:
mixi利用規約

ミクシイはあなたの日記をあなたに無断で商品化します
インパクトありました。ブロガーへの意識喚起力高いなぁ、と
別の意味で勉強させていただきました。
こういうのを見ると、「うおー、これは伝えなくちゃ」と思いますもんね。
自らの行動がなにより人を動かし説得する、いい事例であり、
ネット力学(コミュニケーション・エネルギー伝達法則)の基本だなぁ、と。

mixi、4月1日より利用規約を改定--日記などについて著作者人格権の行使を禁止
他サービスでの「著作者人格権行使の禁止」関係事例を比較しています。
こういう情報はものすごくありがたいっす。

mixiの利用規約改定に関する重要なお知らせについてひとこと言っておくか
2004年にはてなで同様のトラブルがあったことをふまえた解釈。
わかりやすいです。
mixiも、まともな事業体なら類似事例や前例を調べておけよ、と思いますが。

※今回、視点が逆ですが、参考として。
「著作権は混迷」「ダメと言ってもネットは止まらない」──東大中山教授

作者、権利者、ユーザー、流用者の関係をいろんな方向から
把握しておく必要があるかなぁ、と。
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mixi規約改定

2008-03-04 | ブログについて考える
とりいそぎ、リンク拠点拡大目的アップ。

ミクシイはあなたの日記をあなたに無断で商品化します

丁度、信頼&尊敬するブロガーの記事で警告記事を拝読し
えーーー!!!と驚いていたのですが。
(mixiユーザーなのに知らなさすぎ;;;<ジブン)

うーん、mixiの初期事業コンセプト(って狙ってたのかどうかは別として)
は崩壊したのね、と。
もしくは第2段階に入ったのでしょうか?

別のブログの流用とかはどうなるんだ???

wiki←mixiの最新動向がわかります。こういう時のスピードや情報集約力にwikiの底力を感じます。

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ブログについて考える★ブログを始めてわかったこと・変わったこと 

2008-01-20 | ブログについて考える
2005年7月18日にブログをはじめて、一昨日が2.5年目。
3年目も半分を過ぎました。
で、気分ひきこもりなのを利用(?)して、このブログの整理を
してみました。

●DREAM/ING111の略歴

何度か書いていますし、ブログ名に名残は残っています(?)が、最初このブログは、夢記録のつもりでスタートしました。
それ以前は、仕事の都合でmixiに入っていたのですが、決められたある人の日記に毎日行って、コメントを書かなければならなかったり、そういうのも最初は楽しかったのですが、この時は利害関係が優先され義理化して、段々苦痛になって(相手にも失礼な気がして)、やめさせてもらいました。そういう体験もいい勉強になったと思っています。(今やってるmixiは完全プライベートです)

で、丁度ブログが爆発的に増えている時期で、仕事ではサイトの企画や、ネット調査などが増えてきたこともあり、「人気のあるブログ動向を分析・要素出しする」という仕事もいただいて(現在は終了)、それなら自分でもはじめよう、というわけで真っ白な状態でスタートしました。

当時、ものすごいリアルな夢を立て続けにみて、「なにか意味があるのかな?」と気になったこともあり、また夢の記録ならネタに困らないな、という安易な発想wで
「夢・百十一夜」というブログ名でスタートしました。(『DREAM/ING111』への改変についてはこちらをどぞ 
ブログ名変更/旧『夢・百十一夜』
Kate Bush ★THE DREAMING:美しい狂気が紡ぐ極上の悪夢
なお、夢記録は不定期ながらやっております。
夢・百十一夜カテにてやっと13夜目、妖怪召喚への(え;)道のりは遠い。;

gooのサロンサービス含め様々なブログサービスを初体験し利用する中で
コメント交換の楽しさにめざめ(ぴあ様、デコン嬢、超サンクス!)
QUEEN話から、マンガ、本、書く内容はどんどん拡大。
ランダムな日記となって、現在に至ります。

どうもムラッ気がありすぎて、記事によっては人格バラバラになっちゃうので
独り言や思考実験は『DREAM/ING666』
ニュース関係は『「間」をブログる』
とちょっと無謀ながら、現在3ブログ体制。
また変わると思いますが、一応3周年まではこれでいきたいかな、と。


●ブログの効能

スタート当時息子が高校受験で、家庭状況が煮詰まってた(汗;)こともあって
大きな気分転換ができたことは、想定外の効能でした。
息子との煮詰まったやりとり自体も文字にしてみると
ちょっと距離が置けたり、ブログでは、文字化する・記録することの
大きなメリットを認識させてもらえた、と実感しています。
(汗;・・・今もちょぉぉっと似てるんだが;;進歩ないぞぉ!)

PCに向かう時間は、純粋に自分だけの時間。
母親の顔も仕事の顔もはずして、書きたい、と思ったことを書く・書ける。
そして日記とは違って、そこにアクセスしてくれる人がいる
&反応してくれる人がいる。
読み手がいるということが、「書くこと」の意味を深め、
続ける原動力となっていきました。
それは今も同じです。

仕事の関係でブクマしてるブログ(ビジネス、ニュースまとめ、2ちゃん関係もここに入ります)、
完全に趣味でお邪魔してるブログ、
感性が好きでお邪魔してるブログ、
共感が多くてお邪魔してるブログ
違和感が興味深くてお邪魔してるブログ
なんか気になるのでお邪魔してるブログ・・・定期巡回先もさまざま。
一時期200くらいのブログを毎日巡回していましたが
今は1日50、多いときで100位。

ブロガーによっては、やはりほぼ毎日更新される方も多い。
毎日、そのブロガーの1日の断片に触れ続けると、
一種のご近所感覚というか、コミュニティ感が生まれる。
(特に日記型)mixiのように義理化するとお互いしんどいですが、
そのあたりも、今は自分的にはかなり自由になって、
マイペースに交流させていただけて、ハッピーです。

定期交流が最たるものですが、上記を含め、ブログをはじめて、確実に変わったことがあるなぁ、と。ブログは単なる日記ではなく、いわゆる行動目標として、リアル生活に影響する要素もある気がしています。
(・・・日記の定義も必要だけど、ここではネットにつながってるか
つながってないか位の差にしておこうかな、と)

というわけで、ブログをはじめて&続けていて、
リアルにかなり影響あったかも、と思う要素をまとめてみました。

★デジカメを必ず携帯する。
・モノ・コト・場所の写真を撮る
・食べたものの写真を撮る
・変なものの写真を撮る
「あ、写真っとっとこ」というケースがものすごく増えました。
使うのは数枚ですが、けっこう撮りまくってます。
もともと仕事でもそういうワークはあったので、違和感ないんですが
一番の変化は、自宅での撮影が増えたことかも。
写真撮るのが楽しいのですが、出来上がりの精度が低いので
もう少し勉強したいと思っています。

★ブログに残す
上記にも関連しますが、ちょっとしたモノでもなんでも
写真化してブログに残しておくとことで、
思いきりよく処分できる・・・ケースが以前より増えたかな、と。

★予定を書く
ドラマ他のTV番組もそうですが、ブログに関連情報コミで書いておくと
「なにか書いたな」という意識が、トリガーになって、案外忘れないことが判明。
今まではプライベートで覚えておきたい予定は
カレンダーや携帯に書き込んでいましたが、、
自宅にいる時は、ウインドウを開きっぱなしのブログをカレンダー代わりに
することが多くなりました。

★ニュースをよく読む
ネタ探し視線がデフォになっていて、「あ、これってオモシロイ」
と思うとすぐにクリッピング。
まぁ、記事にまでいかないものも多いですが、
いくつものニュースサイトを目的をもってネットサーフィン
するようになったので、かえって、ニュースの見え方が
明快になったかも。
また、巡回先で取り上げられている時事も興味深く拝読する機会が増えました。
ブログだと、個々人の感想や読み方も一緒にわかるので、視野が広がってすごく助かります。&マスコミのような一方的な視点ではなく、気になるニュースをいろいろなブログでチェックできるので、信ぴょう性も納得性も高まります。

★参考にする
上記にも関連しますが、音楽、本、映画やイベント、グルメ関係などなど
気になっていたものや、知らなかったものなど、
評価付きで情報ゲットできるので、とても参考にしやすいです。
雑誌より信ぴょう性が高いのが助かります。
常連様の複数のプラス評価があれば、鵜呑みにできちゃう安心感も。
で、それをもとに行動することは確実に増えましたね。


他にもありそうですが、今思いつくのはこんなところ。


こうしてみると、仕事を含む生活時間の中で、
ブログの占める比率は高いと実感。
自分では気付いていないこともあるかも。

ネットのおかげで、物理的制約は随分なくなったと思います。
精神的な制約に関しては、まだまだ、というか、
リアルと同じ問題、ネットならではの問題、
いろいろありますが、
ネットならではの精神活動が、見極められたら
セカンドライフ的にも、オモシロイかも。

なんてことをちょっと思ったり。

セカンドライフ、日本ではまだ難しそうっすね。
「すべてがFになる」で近い概念が描かれていたけれど、
必ずカウンターはあるので、
ネット活動が活発化すればするほど、
リアルの重要性もまた別の形で増えるはずだと思います。

ディズニーランドにはなれない「セカンドライフ」

防災の集いに「セカンドライフ」活用 内閣府(朝日新聞) - goo ニュース
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ブログについて考える ★あなたにとってブログとは? 最終フェーズ

2007-08-31 | ブログについて考える
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ブログについて考える 5:あなたにとってブログとは?
ブログについて考える ★あなたにとってブログとは? 2NDフェーズ

ブログについて考える ★あなたにとってブログとは? 2NDフェーズ まとめ
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時間が開きすぎてしまい、参加してくださった皆様も
またブログへの思いや行動が変化している可能性も大きいのですが、
なんというか、ブログ主的には、各フェーズを再度確認しながら、
かえって時系列変化要素を強く感じるという、
興味深い体験となっております。

定期的にまとめてれば、ブログのライフサイクルも見えるのでしょうね。
それを追及したら、個人の資質以外の
ロングライフブログの要素も割りだせるのかも・・・。

「ブログはどうなっていくのか?
 どうしていきたいか?どうすべきなのか?」

そういう未来予測要素・ブログの可能性をピックアップしたくて
スタートした記事だったのですが
ブログそのものも周辺もどんどん変わっていく中で
案外、「人」が一番変わらない要素として、
マス(この表現でいいのかどうかは要検討ですが)な
ブログ空間を構成し続けるように感じています。

今回企画の最終フェーズ。
いただいた情報がリアルに本音で
向きあってくださった上質情報だったおかげで
すでに、明確なコアに落ちている気がするため、
落とし所をどうするか、悩みましたが、
3つの違った落とし込みに分けることにいたしました。

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その1:これからブログはどうなっていくと思いますか?


『ブログ全体』としてと、『あなたにとって』の2つの視点から
予測をお願いいたします。

その際、フェーズ1、フェーズ2
で抽出された要素も参考としてください。
新たな要素付加も歓迎いたします。


その2:再度あなたにとってブログとは?(5つまで)

今回は、ブログをブログ以外の『モノ』『コト』『場所』『時間』等に例えてください。ブログ(=日記)の本来機能そのものに近い表現でもけっこうです。

例:交換日記
毎日、お互いのことを記録しあうから

以前もすでに『学校』や『居間』等の例えがでていますが
変化がない場合は、そのままでもけっこうです。


その3:「あなた」を代表するブログ記事を教えてください。(5つまで)

あなた自身の記事の中から、あなたのブログを代表するような、
もしくはあなた自身が気に入っている、お薦め記事を教えてください。
その際、お薦めポイント、選択理由(読みどころでも可)を教えてください。
そしてその記事に、タグのように 以下の5つの構成要素をつけてみてください。
もちろん5つ全部ついてもけっこうです。

●出会い
●交流
●自分と向きあう
●表現
●記録


例:記事名/該当URL
(タグ:記録、表現、自分と向きあう)

ご紹介くださった記事に関しては、
別途、当ブログでも記事化させていただく場合があります。
ご了承ください。


その4:その他、ブログについて思うことなんでも。


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今回フェーズは、基本的には情報放出目的で
とくに集約は意識しないでおこうと思っています。
なので、文章の長さには制限を加えませんが、
長くなる場合は、できれば記事でTBしていただけると
ブログ紹介にもなるので、助かります。
お手数をおかけしますがよろしくお願いいたします。

全部参加していただけるとハッピーですが、
夏休みでもありますゆえ、参加してもいいかな、
というものだけでももちろん歓迎いたします。

期限:9月5日まで

今回もご参加のほど、
どうぞよろしくお願いいたします!


今回はじめて参加してくださるブロガーの方も
よろしくお願いいたします!!


※質問は随時受け付けております。
コメント (5)
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ブログについて考える★最終フェーズ/あるブロガー様からの回答

2007-08-20 | ブログについて考える
ブログについて考える ★あなたにとってブログとは? 最終フェーズ

メールにてご参加くださったブロガーがおられます。
秀逸な内容、深く幅広い視点と表現ですので
ご本人の許可を得て、記事としてアップさせていただきます。

なお、レスもこの場でさせていただきます。
いただいたメールによって引き出されたレスそのものも、
今回、私としては意味があるので。

※メール主様へ:なにか不都合、支障等ありましたらいつでもご連絡ください。

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●その1 これからブログはどうなっていくと思いますか? 

・全体

世界全体のブログ開設者の割合で日本人(日本語)ブログが
多い事が各IT分野でアナウンスされている。「日記」という
形で開設しているケースがほとんどと思われるが放置された
ブログも相当数存在すると思える。世界的にコンスタントに
稼動しているブログの割合は低く、これはSNSも同様である。
ブログは自己主張が減退(飽きる)すると勝手に放置出来る
事からこのような状態になっていると考える。
近時ではフリー動画系の別サイトからリンキングをして自分
のブログに貼るケースがあるがこれはネットにおける自由な
共同と共に他人依存で自ブログの興味を引くという他力本願
的な側面もある。
ブログは今後、ブログソース体において技術革新が無い限り
現状維持が続き多少の衰退を辿り存続していく可能性がある。

・自分

他者のサーバに寄生する事は楽ではあるが自サーバでの展開
を考えている。又、外部への配信も極力抑える事を考えてい
る。自分にとりブログは「日記」ではない。単なる脳外記憶
装置である。

●その2:再度あなたにとってブログとは?(5つまで) 

・脳外記憶装置

最近では個人的にブログによる情報収集の割合は0%になった。
よって自分にとり自分以外のブログとの交流は極めて少なく
なり、よりコアなものとなっている。逆に交流のあるブログ
とは、より密接に個人的及び業務的に接続されている。

●その3:「あなた」を代表するブログ記事を教えてください。 
     (5つまで)

特段無し(寧ろ全アーティクル)

●その4:その他、ブログについて思うことなんでも。 

衰退を始めた分野と言える。但し絶滅は無いと思える。
又、ユーザーはSNS等との競合共存をどうしていくのか興味
がある。選択肢は色々あるが技術進歩、コンテンツの発展等
によりユーザー側はより面白い興味あるアーティクルにアク
セスをしていくであろう。
ブログやSNSの様なヴァーチャルの世界とリアル世界の壁を
取り払うという思想の人間は多い。これは犯罪温床の場とも
なっている。逆にこれらから改善された良い例も多々あるの
だが(政治的糾弾・犯罪者摘発等)これにマスコミは自分達
のプライドから黙殺をしている。又、リアルな仲間が増えた
というメリットもあろう。但しその分、ストレスも増すはず
であるし、トラブルリスクの値も増すであろう。
単純にブログにおいては大きな分野が出来ていると思える。
即ち、
・単なる自日記{余程の意思が無いと飽きて衰退する傾向}
・仲良し的な集合体{飽きて衰退する傾向、又はSNSに移行}
・自己宣伝(俳優・ミュージシャン等)
{一部の者を除き停滞壊滅}
・企業販促{映画・音楽等は継続、一般企業は衰退}
・アダルト系{餌釣り:存続する可能性は極めて高い}
・他
である。

ブログにおける存続性はユーザーの気持ち如何に因る。
しかしPCを所持しない者、携帯TELでブログに参加しない者
も世の中には多数居る。その人間達はしっかりと生きている。
様はブログとは他者の考えや思考、記憶にどれだけ入り込め
る能力があるか、又、他者の下心をどれだけ回避し良質なる
考えを集約出来るかにより、より良いネット情報となるかが
鍵となろう。更に誹謗の渦を掻い潜り泳げる自信を身につけ
ないといけない場合もある(著名人)。

ブログに未来を求めてはいけない。未来を求めるのは自分の
考えと自分の体で具現化しなければならないから。


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いただいたメールは上記までです。以下、レス方式にて。

世界的にコンスタントに稼動しているブログの割合は低く、
これはSNSも同様である。


本当に、実際の稼働ブログ数を知りたいところです。三日坊主ブログや、過去ログ置き場がどれだけあるのかと思うと、ちょっとこわいですね。
たまに、 ググっていて上位記事だったのでお邪魔したら、最新更新が5年前のサイトなどもあり、ちょっと象の墓場をイメージすると同時に、良質な記事の場合、そこにも象牙はあるのだな、とも思います。(不謹慎な例えかも?

近時ではフリー動画系の別サイトからリンキングをして自分
のブログに貼るケースがあるがこれはネットにおける自由な
共同と共に他人依存で自ブログの興味を引くという他力本願
的な側面もある。


リンクに関しては、中継地点的役割も含めて、他者のコンテンツをてっとりばやく取り入れることで、自分では一切記事を書かなくても、また数行感想を加えるだけでも、記事が成立し、それなりの達成感は得られることから、ブログの「書く」という初期ハードルを思いきり下げていると思います。その分、ネタブログやニュースブログなどでも似た内容が乱立してしまうわけですが。

でもって、アルファブロガー含めたハブ的存在とその周辺が感覚的にヒエラルキーにならないのが面白いと感じています。「この記事を評価してるのは“わたし”」といった部分でセレクト価値、編集価値といった二次的な価値基準が生まれ、アイデンティファイするからかな、と。
最近は「拍手」や「はてなスター」といった簡易評価システムが、その傾向に拍車をかけてる気もします。

大動脈からいきなり毛細血管がでてる感じで、エネルギー効率としては問題もあるように感じますがある情報がある個人にまで到達する範囲としては「よし」な部分もあって、ロングテール効果もそこから生まれるのかな、とも思います。

ブログのモチベーションについてもっと探りたくなってきました。


自分にとりブログは「日記」ではない。単なる脳外記憶
装置である。


リアルとの主従の関係性が、日記か純粋な脳外記憶装置かを定めるのでしょうか。そういう視点では、リアルへの推進剤的役割を持つ私のブログは日記なのだな、と感じます。

・単なる自日記{余程の意思が無いと飽きて衰退する傾向}
・仲良し的な集合体{飽きて衰退する傾向、又はSNSに移行}
・自己宣伝(俳優・ミュージシャン等)
{一部の者を除き停滞壊滅}
・企業販促{映画・音楽等は継続、一般企業は衰退}
・アダルト系{餌釣り:存続する可能性は極めて高い}
・他


非常に明快な区分をありがとうございます!!!
なんとなくコミケグレードなコミュニティがたくさんできあがって、それなりに活動していくイメージもありますが、それにはSNSのほうが適しているので、あくまで「個」のメディアとしての自日記要素がどういう構成内容で生き残っていくのかが興味深い部分です。
個人的には、社会派ブログ(特にセミプロ的動きを見せる)の動きも気になります。マスコミ系に取り込まれてしまうのでしょうか・・・。

ビジネス視点では企業販促をしかける立場にあるのですが、現状はやはりデータ収集の場としての扱いが有効かな、と思い出しています。企業サイトのあり方も含めて、まだまだ検討していく必要のある部分です。
5年前までは若手デザイナーやプログラマーが海外に行って最新技術をもって帰ってきて、いかに予算を押さえて移植するかが第一課題でしたが、結局デザイナーの自己満足や作品づくりに終始することをクライアントは学習済みゆえ。&そうした最新技術が必ずしもビジネスに直結しないことも・・・広告効果と同じです。といいつつ止めることもできませんが・・・。
(ここでしか言えませんが、いろんな無駄が予定調和的に計上されている企業が多いので、まだまだ日本経済は安泰だと感じています。)

様はブログとは他者の考えや思考、記憶にどれだけ入り込め
る能力があるか、又、他者の下心をどれだけ回避し良質なる
考えを集約出来るかにより、より良いネット情報となるかが
鍵となろう。更に誹謗の渦を掻い潜り泳げる自信を身につけ
ないといけない場合もある(著名人)。


これは個人的な印象ですが、gooブログのサービスが豊富になって、かえってビジュアル含めた記事内容の個性がなくなった印象も受けています。
カスタムメイドな部分がもっと簡単になったら、もう少し入れ物として遊べる気もしますが、結局、ブログは個人の記録であり、その行為自体が自分にとって魅力的でなければ、モチベーションになりづらい領域だな、と。
そして他者との交流しかモチベーションにならない場合、交流リスクとのバランス次第では、ブログを続けるのはしんどいことかもしれません。

ブロガーにはいろいろなプロフィール、ブログ傾向、ブログ段階、の参加者がいる。そうした他者との差違や変化要因(進化の種含む)を自分の中にどれだけ取りこめるかがポイントだという視点は、すごく大切に感じていますし、もう非常に納得いたしましたし、なんだか大きなヒントをいただいたようで嬉しかったです!
「他者の下心の回避」なるほどなぁ、と。

ブログに未来を求めてはいけない。未来を求めるのは自分の
考えと自分の体で具現化しなければならないから。


最後の2行は、意味が深いですね。
仕事面でも、個人としても心したい、と思います。

ご参加に深く感謝いたします。
敬意をこめて。  

なるもにあ


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ブログについて考える★ブログについて考える、ということ

2007-08-14 | ブログについて考える
●ブログについて考える、ということ

ブログ考察記事の最終フェーズをようやくアップしながら、
「ブログ3年目の意味」
なんてことを、改めて感じる今日この頃です。

3年間の継続実績の方が、
「ブログとは?」という観念的なものより
はるかに重い、ということを、自分も含めて考えたりしています。
すでに個々の中でWHATからHOWに移行し、定着化してるんじゃないかな、と。

私がブログに参加した2005年という時期は
期せずしてブログの方向模索が多かった時期(タイミング)のように
感じています。

丁度、創世記のカオス状態から少したって、諸先輩の努力と苦労のおかげで
ブログそのもののサービスとしてのインフラも、最低限のガイドラインも、
ローカル含めた全体の約束やルールめいたものも、できていて
私のようなシロウトでも、「やってみようかな?」と思うと
気軽にはじめられるくらい、
ブログそのものの物理的&心理的ハードルが下った時代。

日々大量のブログデビューが続き、新人も多く、
勢いやきっかけをもって参加したものの、
書き始めてしばらくすると
ブログって何なんだろう?どうすればいんだろう?
という同じ悩みや関心を抱えてる、
そういうポイントに立つブロガーが多かったように感じます。
(会社仲間等のコミュニティ型ブログは、最初から交流目的という
明確な目的があるので、上記からははずれます)

そして諸先輩ブロガーも活発にブログ論を展開しておられた。
ブログを回るとブログについて考える機会がざくざくあったように
思います。


●ブログにおける問題解決

言い換えれば、今、ブログ半年目~1年目の方は
もしかしたら、当時の私(たち)と同じ感覚を持っておられるかもしれない。
ただ、一方ですでに多くのソリューションがなされているため
少しググれば、また、交流仲間に経験者がいれば
ブログそのものへの悩みは、2年前よりもはるかに早く解決できる。

たとえば「アラシ」や「炎上」対策のようなノウハウ部分は
けっこう徹底されてきてる気がします。

ブログ論そのものは、いまも日々、なされ続けている。
(はてなでは、まだ活発な気がします)
最近は、観念論よりは、個人のブログ作法・マイルール関係か、
コミュニケーション論に近い気がしますが。
それらにしても、過去記事引用等で、解決される場合が
多いように思います。

「コメントへのレスは全員に返すべきだ」「いや、個人の自由だ」
「返したくないレスは返す必要はない」「自分のやり方をわかってもらえばいい」「そういうやり方でも来てくれる人だけでいい」「コメントをつけるのが自由なのと同じく、レスは基本的にブログ主の自由だ」 等々、
(コメント論議は一応「ブログ主の自由」で決着してるかと思います)
というレベルにはじまって
・ブログはある種のルールをもって運営すべきだ
・公開スペースでやる以上、社会と同じである種の義務と責任は生じる

・ブログは(自分で責任が取れる前提で)何を書いてもいい
・(勝手に淘汰されるから)完全に何を書いても自由だ

・一部のブロガーが決めたルールに縛られるのはごめんだ
・人は1人づつ違うのだから、個々が自我流で学んでいくしかない

上記のような、ブログの
こうした議論そのものが規定していくブログのルールもあり
そういう過程もまた面白い。


●ブログにおける危機管理 OJTと波及性

思うに、ブログコメントでの議論が興味深いのは、
読んでる第三者が、他者の言い分を咀嚼することで、
自分の頭で考え直し自分の意見を作っていくことができる、
ある意味、 OJT的に知識習得できる点かな、と思います。

ブログでの議論の多くは、
WEB空間の二次的存在であるブロガーとしての
アイデンティティに直結する。
表現が否定される=ブログの存在の危機、という側面があり
WEBにおける「危険そのもの」についてや、
危機管理の視点やノウハウも習得しやすい。

ブログの面白いところは、そうした議論において
議論してる当人同士だけでなく
ROM含めたご近所&周辺参加者においても、関連記事が生まれ、
そこでは同じ種をもとにしながらものすごくたくさんの
思考バリエーションが生まれること。

もちろん議論に直結する記事(多くはどちらかへの賛成や批判、
自分ならこう考えるといった中立的意見)も多いのですが、
コメント論からはじまって、コミュニケーション全般、モラル、
哲学、生き方まで、そのブロガーの思考・嗜好・志向が
1つのテーマを解釈していく。そこにまた別の分岐が生まれ
思考が一種のしりとりのように波及していく。

もともと情報論としては、人間の存在そのものも情報として
位置づけられるわけですが、
より「情報」一般のイメージに近い形で、情報の交流が
はばひろい範囲と量で起りうるところに、ブログの開いた
可能性(リスク含む)があるのだと改めて思います。


●ブログにおける限界

ただ、個人メディアの1つの限界として、そうして波及していったものの
構造化や統合化がされにくい。
そのため、関わった人間以外では、そうした情報交流が
導き出したソリューションや知恵、知識が案外、共有化されにくい。

共通知・共有知というもっとも WEB2.0的な概念が
結局一部の議論型コミュニティに留まってしまう。
そして、また同様のトラブルが起った時に、
過去事例が十分に生かしきれないケースも多い。
けっこう、もったいないと思います。

反面、
あくまでビジネスの絡まない個人メディアであり、
効率化が求められてるわけではなく、
また個人の体験はすべて平均化できない
一回きりのものとして考えれば、
すべての行為に意味があり、
繰り返すトラブルそのものにも意味はあるともいえる。

それはある意味、人生と同じだな、と。

ある側面からみて経験者などが「んなこと悩んでるのか」と思っても
悩んでる当人には生きるか死ぬか、な場合もある。
で、アドバイスが有効な場合もあれば
かえって疎んじられる場合もある。
その結果は、悩んでる当人が選ぶしかないと思うし、
それが個人の尊厳含むアイデンティティでもあるとも思います。

まっすぐ歩くのか、迂回するのか、引き返すのか、
仲間の手をとるのか、地図を見るのか、助けをよぶのか・・・

1人の人間の人生はその人にしか生きられないから。


●ブログの可能性

それでもなお、ブログには個が個とつながることでの
可能性を感じます。

のぞめば、そこには無数の先人の知恵がある。
感覚的にでも自分に近い人にも出会える。
投げ掛けた疑問に、すぐにレスポンスがもらえることもあるし、
数ヶ月たった時、全然違う方向から答えがでる場合もある。
そのサイクルが、接点の多いブログでは圧倒的に早い。

人間の達成感が自己の知的成長にあるとしたら
ブログはリアルよりも知識面での達成感を得られやすい場所だと
思います。
同時に、自己が定まってることを望む場合は、
挫折感や無力感に陥る危険性はありますが、
己の今の限界を知って、そこから上に進んでいけるのはチャンスだと思います。

HPと違って、テンプレートができている(ある意味機能的に限られた)
ブログだから、参加ハードルが低い。
初心者から複数年経験者までが入り乱れてることそのものが
なによりすごい空間なのかな、と思うようになってきました。

ブログの一番シンプルな目的。
それはやはり「自分が1人(ぼっち)ではない」ということを
確認するツール、ということなのではないかと思うのです。
そしてそれを実感できるということは、実はすごいことなのではないかと。

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