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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

サバナケットからビエンチャン

2008-10-13 02:47:38 | 旅行
サバナケットの町(カイソーンポムウィハーン郡)は何処かカンボジアの地方の町と似た印象を受けました。ベトナムの町にはない風景と空気があります。トヨタのHILUXやイスズのD-Maxが多いのはタイと同じ。物価はベトナムより高めです。1ドル8,550Kip。1万Kipが1.93万VND。金融危機でドルが急落したためかも知れません。

朝食付きのホテルに泊まりながら朝食をとる時間もなく6時にチェックアウトしてバスターミナルへ。ビエンチャンまで8.5万Kip。3時間ほど走り、途中でタケク(Thakehk)のバスターミナルに寄りました。ここからはベトナム方面へのバスが多く発着するようで表示もベトナム語が併記されています。ハノイまで16万Kip。

売店のオジサンにベトナム語が話せるかと聞いてみるとOK。それもそのはずベトナム人でした。フエから来て8年になるのだとか。ここでの稼ぎは満足できるものだそうです。売店にあるバーコードが打たれた加工工業品はベトナム製もありますが多くはタイ製。ラオス製は手工業の食品だけという印象でした。

トイレから戻ったラオス人の少々派手目の身形の女性が「携帯がない」と一騒動。トイレに戻ったり、バックを開けたり。そうこうしている内に添乗員のお兄さんがシートの下から見つけ出して一件落着。

午前中は何度か休憩を取ったにも関わらず昼飯休憩の期待は空しく裏切られ、そうと知ってれば売店で買ったのに、と思ったところで後の祭り。次の休憩で何か買えるだろうとの思いも叶わず、トイレ休憩も林と草むらの中でした。携帯騒ぎの女性もバッグを抱えて林の中へ。

道路は舗装されていて所々徐行しなければならない部分があるものの信号がないだけにスムーズでした。ビエンチャンには夕方5時に到着。

サバナケット県

2008-10-13 01:46:54 | 旅行
国境を越えるとラオスのサバナケット県。目的地のサバナケットは数百キロ先のメコン河を挟んでタイと国境を接する町です。ラオスの県は首都ビエンチャンを含めて全部で19ありますが、その中でも最大の人口を擁し70万人を超えます。鳥取県の人口より多く、島根県と同じ位でしょうか。面積は21,744km2ですから長野県以上。人口密度もビエンチャンを除く県では最大の33人/km2。国境を接するベトナムやタイ、中国からどれだけの人々が働きに来ているのかは分かりません。

国境付近ではバスの中でベトナム人の両替商売のオバサンが旅行客相手に声を掛け始めました。キープを持たないのも不安ですが、レートを知らないでこの手のオバサンにぼられるのはもっと不愉快。1万キープ2.5万VNドンとの言い値に、とりあえず断ると「じゃ幾らで買う」?との問い返し。同乗者のイギリス人にも「高過ぎるからダメー」と断られてました。

フエから途中乗車した今風の若い女性はラオス語を話してましたがお行儀が悪く、座席にふんぞり返って大股開き。ベトナム人そっくりで落胆しました。前の席の若い男性も携帯で音楽をスピーカーから流していて耳障り。窓の風景も単調で飽きてしまい、ICレコーダーにメモ代わりに自分の声を吹き込んでいるとお行儀の悪いラオス人の女の子に英語で話しかけられました。

祖父母がベトナム人だそうでベトナム語・ラオス語のバイリンガル。片言の日本語も知ってました。国籍はラオスだけど外見も文化もほぼベトナム人なのだと納得。さっきまでは「なーんだこいつら」などと思っていたのに相手が若くて可愛いお嬢さんとなるといとも簡単に評価が変わってしまい、ガイドブックを取り出してラオス語の発音をICレコーダに吹き込んでもらったり、ラオス語をベトナム語表記に直してもらったりもしました。

それから先はあっと言う間にサバナケット到着。バスターミナルからトゥクトゥクでメコン河沿いのホテル街へ。河の色はデルタを流れる色と変わりません。歩いているうちに日が暮れてしまいました。




サバナケット行きバス

2008-10-13 00:41:23 | 旅行
ラオスに行って来ました。サイゴンを午後5時発の便で経ちフエで一泊。生憎の激しい雨は、ホテルの隣の食堂へ夕食に出掛けるのも躊躇するほどでした。シンカフェで翌朝のバスを予約するのも面倒に思え、朝6時に起きて南方面バスターミナルへ。火・木・土曜日の週3便ここからサバナケット行きのバスが出ています。朝7時発サバナケット着午後4時とのことでしたが、この日出発したのは8時30分。料金20万ドン。バスはラオスナンバーで運転手もラオス人。

ベトナムの長距離バスではあり得ないような低速運転でクアンチ方面に向かいましたが、国道一号線には交通警官の姿があちこちにあり納得。近くの席に座っていた若いベトナム女性に聞くとサバナケットにネイル・ペイントの仕事に行くのだとか。8年ほど前、タイからサバナケットを経てフエにバスで来た日本人旅行客の話ではオンボロバスで道はガタガタ。おまけにギュウギュウ詰めで散々だったとのことでしたが、今やすべてが大変わり。

バスは空席も多く、殆どがラオス語が話せるベトナム人かラオス人で外国人観光客は少数でした。

ラオバオの国境ゲートに着きパスポートと5000ドンを手にしたベトナム人の後ろに並んでから国境を接する国以外の外国人は窓口が別であることに気付きました。通常こういう時に「第三国人」という名称が使われるものなのではないか、などと思いつつ「出入国カード」を貰い記入しました。航空機便名、車両番号の欄でハタと迷い、バスは既に国境を越えてしまって姿は見えず、「ナンバーなんか覚えてねーよ」などと呟いてると、日本語が分るのか同乗してたイギリス人がバスチケットを示して「この番号で良いのよ」てなことを教えてくれました。

昨年から日本国パスポート所持者は15日以内であれば観光ビザ免除となり、面倒も費用もなくなりましたが、イギリス人はビザ申請用紙を窓口に提出していました。二人で80ドルと要求され、彼らは「大使館に問い合わせたら一人20ドルだと教えられた」と抗議し、するとラオスの入国管理官が激昂してしまい公印の押されたビザ手数料一覧表を振りかざして「UKの一ヶ月ビザは一人40ドル。ここに書いてあるだろう」。

「オレ達をベトナムの役人と同じ目で見るんじゃないよ」ってな怒りだったかどうかは知りませんが、UKのカップルも悪意があったわけでもなく双方とも心ならずも不愉快な思いをしてしまったようです。

アールイの水牛

2008-09-29 01:39:59 | 旅行
ケサンからはホーチミン道路を南下してThua Thien Hue省のA Luoiに出ることができます。100kmほどの距離ですが、この日は一度フエに戻り、フエで一泊した後アールイに向かうことになりました。

国道一号線も今ではフエ市街の手前でダナン方向に迂回するバイパスができ、道路事情は8年前とは大違い。フエから山を越えてアールイに至る道路もすっかり舗装されてしまっていて別世界の観がありました。1日2便ある南部バスターミナルからのバスでも1時間半で着くそうです。

傾斜のきつい砂利道に胃袋が上下に揺すぶられながらバイクで走ったことを思い出します。すれ違うバイクも滅多になく、山の中で大きな鎌を持った少数民族の人にジロッと見詰られた時はビビリました。バイクを止めて見晴らしの良い場所で煙草を吸っていると小学生くらいの子供が近寄って来て「おじさん、お金頂戴」。店屋も何もないところでお金の使い道もないだろうにと思ったわけですが、「お菓子を買う」とのこと。お菓子こそ「資本主義商品経済が非資本制生産領域」侵略の尖兵であると妙に納得した瞬間でした。

今回は道で出会う民族衣装が随分と減ってしまったように感じました。籠を背負い手巻き煙草を口にしたお婆さんの姿なども見かけません。

「アールイは少数民族の比率が高いから投資しても失敗するんだよ。クアンチはキン族が多いからその心配はないけど」などとの話を聞きながらフエに住むベトナム人と食事を共にしたわけですが、「酒ばかり飲んで働かない少数民族」と言いつつ自分もビール飲みながら延々と食べ続けているではないか、と思うことしきりでした。

「アールイの特産だから」と喰わされた養殖の大トカゲは、黒々と焼かれぶつ切りにされた肉の味はともかく、生きてる姿を厨房に見に行った時は胃袋が縮む思いでした。店には地元の公安の人々も来ていて、国境を接するラオスの公安との親睦会をしていて、「国境の町」を実感させられました。

>20年間周囲と隔絶された200人の集落を発見
>アードット国境経済区設立
>仕事あっせん詐欺、金採掘現場で強制労働
>アールイ水力発電所着工

等のアールイに関わる記事は全国紙でも報道されてましたが、実際行ってみると変化は予想以上でした。町にはADSLも来ているし、パラボナ・アンテナを付けた家も少なくありません。外国の衛星放送を受信するためのものではないそうですが。

広場に高校生が大勢でたむろしていました。「体育の授業」とのことでしたが教師の姿は見当たらず、駄弁ってるだけ。殆どが少数民族の子供たちでしたが民族衣装ではなく、サイゴンの高校生よりも少々派手めの服装。たぶんキン族とは色彩感覚が少々異なるのではないかとも思いました。

その傍らで水牛が草を食んでいました。長閑で、ここで2・3年暮らしてみようかと思わないでもありません。恐る恐る水牛に近づくとバリバリと草を食いちぎる音が聞こえます。それに鼻息も荒くシーシー。配合飼料を買わずとも家畜を育てられる環境が後どれだけ続くものなのでしょうか。

ヤトロファの垣根

2008-09-27 02:16:05 | 旅行
クアンチ省ダクロン県の道路沿いにヤトロファ(南洋油桐)で作られた垣根がありました。Br Van Khieu族の家のようでレンガ作りではなくの木でできた少々粗末な感じの高床式です。

バイオ・ディーゼルはどうやらこのヤトロファが本命のようで、ベトナム農業省も2025年までに52万ヘクタールの栽培計画を承認したとのニュースがありました。メコンデルタでは魚油を原料としたディーゼルオイルの需要が多く、それの不足を補うべくより生産原価が低いヤトロファの栽培を始めたとか。

写真では見たことがありますが、実物を手にとって見たのはこれが初めてです。実は一年中生るようで、熱帯植物というのはどうにも不思議に感じてしまうわけですが、青い実と共に黄色に熟した実もあり、それを手で開くと茶色い種が出てきました。この実を圧搾すれば油脂が採れ、かつては灯火用の油に使ったようです。

その家の犬に吠えられたこともあって、同行したベトナム人が家の人に声を掛けました。小さな庭の菜園を指して「お母さん、この野菜は何を作ってるの」?後を追って庭に踏み入りジロジロとあちこちを眺め回り、「どうして垣根にこの木を植えたのですか」?と尋ねてみると、「牛が入って来ないため」だそうです。

ヤトロファの葉には少々毒性があり、動物が食べたり近寄ったりしない効果があるようで、ご丁寧にもヤトロファの木と木の間には棘のあるサボテンも植えてありました。
垣根という日本語がなかなか思い出せず、ひょっとすると日本ではもう死語になりつつあるのではないか、などとも思ったわけですが、熊やイノシシ被害が相次ぐ日本でこの木を植えたら効果があるのでしょうか。




ケサン基地

2008-09-25 02:45:25 | 旅行
梅棹忠雄著『東南アジア紀行』にクアンチからラオスの国境を越える記述がありました。国道9号線を走りいつの間にか出国手続きもせずにラオスに入ってしまっていたそうです。今から50年前の風景ですが、山間の道路沿いに住む少数民族Br Van Khieuの人々の生活は今も変わらないのかも知れません。

1958年のことですから1968年ケサン基地の攻防より10年前のこと。まだケサン基地そのものがなかった時代です。レンタカーの若い運転手に、米軍のケサン基地はどの辺にあったのか?と聞いてみたところ「知らない」とのこと。クアンチの観光はDMZ(非武装地帯)ツアーくらいだと思っていたので意外な返事でした。

ケサン基地という名を覚えていたのは68年の攻防の激しさ故だったのだと今になって気が付きました。たぶん当時のTVや新聞のニュースで連日目や耳にしていたからなのでしょう。ケサンの町がHuong Hoa県の県庁所在地(huyện lỵ)であることなどは直ぐに忘れてしまいそうですが。

フエの書店でクアンチ省の地図を探してみましたが、置いてあるのはHCM市の地図ばかり。手持ちの少々古い地図帳に頼るしかありません。奇異に感じるのは省庁所在地がクアンチ市ではなくドンハー市であることとクアンチ市の面積が6km2ほどでしかないことです。埼玉県蕨市よりは大きいわけですが人口密集地であるわけでもなく、どこか虐げられている感じが・・・・。クアンチ省には8つの県があり、その一つがHuyện Cồn Cỏ と記されてました。しかし地図では見当たりません。人口は400人面積2.2km2。よくよく調べてみると離島でした。地方行政は、省-県-村となっていますが、おそらく全国で一番小さな県のようです。

ケサン基地跡地を訪れるのは次回に譲り、ラオバオ国境ゲートまで行ってみました。随分と立派な門構えで、これなら知らぬ間に国境を越えてしまった、などということは起こりようもありません。

ラオバオ国境経済区

2008-09-24 03:24:25 | 旅行
サイゴンからフエまでのVN航空便は1時間10分の飛行時間。フーバイ空港から市内までは15km程でハノイの空港よりも遥かに短いのにタクシー代は14万ドン。マイクロバスでも一人4万5千円です。国道一号線まで歩いてそこで通るバスを拾おうかとも考えましたが荷物が少々重いので諦めました。
市街地に入る手前の南部バスターミナルで降り、そこからドンハー行きのバスに乗り換えました。30分ほど待ち時間があり、掲示板を眺めるとHCM市やハノイ行き、コンツムやラオスのサバナケット行きのバスも出ていました。

国道一号腺は見違えるように整備されていて、ドンハーまでの80kmも1時間15分で着きました。ドンハーからは西に向かう国道9号線を進むとラオスのサバナケットからタイに抜け、ミャンマーに至るそうです。太平洋とインド洋を結ぶ「東西経済回廊」。

バンコクからハノイまで船便で10日間掛かるところが、この道路を使えば3日で済むのだとか。また、出口を持たないラオスにとっては太平洋に出る貴重な道路であるようです。今年はやたらとベトナム・ラオス関係の記事が多く目に付きます。
きょうも、「VN, Laos determined to lift ties to new heights」とありました。
http://vietnamnews.vnagency.com.vn/showarticle.php?num=03POL230908

ドンハーから国境の町ラオバオまでは80km。舗装された道は山間を通るとはいえ比較的なだらかで思った以上に快適でした。

ベトナムは中国、ラオス、カンボジアとの長い国境で接していますが、この国境周辺に幾つもの「国境経済区」を建設中です。確か30ヶ所ほどだったか。ラオスや中国との国境地帯の殆どは少数民族の居留地ですが、そこに1万ヘクタールもの経済区を造成し工場団地や商業区を建設するということになります。

閉ざされた国境から開かれた国境への転換とその経済効果ということなのでしょうか。

クアンチ省

2008-09-22 02:13:26 | 旅行
クアンチ省に行って来ました。
ベトナム中部の省は北からクアンビン(広平)クアンチ(広治)フエ、ダナンを挟んでクアンナム(広南)クアンガイ(広義)と「広」の文字が続いています。山脈と海岸に挟まれた狭い地形に何故「広い」という地名が付けられているのか不思議に思わないでもありません。
かつてチャンパ王国の支配した土地をベトナムの領土とした時に付けられたベトナム名なのだろうと思います。クアンガイの南のビンディン省などもっとも露骨で漢字に直せば「平定」です。もっともこの名は、チャンパを平定した時ではなく、フランス等外国勢力の支援を得たグエン・アィンがタイソン朝を打ち破った時に付けられたものです。

地名が物語るベトナムの南進の歴史、というよりは「侵略の歴史」などと思うようになったのはベトナムで生活するようになってからのことで、特に中部で少数民族と生活圏を接する地域のキン族ベトナム人の人々の態度には侵略民族の傲慢さを感じることが少なくありません。そもそも自らをキン(京族)=都人と名乗るところからして優越意識の凝縮なんだろうと思うわけですが、しかし今の多くのベトナムの人々はKinhという言葉の意味を知っているわけでもないようですが。
その意味では中国に対して虚勢を張って名乗った「日本人」といい勝負なのでしょう。

クアンチ省の省都は何故かクアンチ町ではなくドンハーの町です。15年ほど前に一度来たことがありました。ハノイから南下する夜行列車に乗りドンホイで一泊した後、ドンホイの町があまりにも殺風景で居心地が悪かったので再び列車に乗り、かつて南北を隔てていた17度線のベンハイ川を見ようとドンハーの駅で降りることにしました。ドンホイの駅でドンはーまでの切符を買おうとすると、フエまでの切符しか買えないとのことで、しかしドンハーで下車できるからとの説明が納得しがたいものだったことを思い出します。

当時のドンハーの駅周辺は今から振り返れば驚くほど寂れていて、駅から国道1号線のバスターミナルに至るのも畑や藪の中を通る細い道だったように記憶してます。たぶん貧しさはクアンビン省ドンホイの町と同様だったのでしょうけど人柄の明るさは対照的でした。ドンホイでは誰とも話すことなく緊張していたようで、ドンハーではその緊張も解けました。南北分断の20年間が統一後20年近くを経ても違う文化を作り出してしまっているとの強い印象が残りました。

そのためクアンチ、フエを北中部とする現在の地理的区分にどこか違和感を抱くことがあります。しかし南北を隔てる地理的特徴は紛れもなくダナンとフエを分かつハイバン峠であり北緯16度線の少し北です。従って1954年のジュネーブ協定による南北分断は省を二つばかり南が増やしたもので、当時の革命政権にとっては南北分断の屈辱に加えて更に屈辱を強いるものだったわけです。


バンコク雑感

2008-08-04 06:00:24 | 旅行
先週バンコクに二泊し、養鶏場の見学をして来ました。サイゴンからバンコクへはハノイへの飛行時間よりも短く、タイ航空の便を利用したためもあってか機内の雰囲気も何処か国内便に乗るのとは違っているようでした。ベトナムの日常生活から脱出した束の間の解放感。たぶん一人旅ならそうだったかも知れませんが、残念ながらベトナム人四人に僕自身がオマケみたいなもので計五人旅。

バンコクから日本への航空券はベトナムからのそれよりも安いので何度か立ち寄ったことがありました。最近は直行便を利用してるため久しぶりのバンコクでした。この都市では相変わらず日本人の多さが目立ちます。宿泊したホテルのレストランにも読売新聞が置いてありました。

10数年前のことでしたが、ベトナムの政府高官の「公害と格差が大きいタイ経済
社会からはベトナムが学ぶべきものがはない」というような発言を新聞で読んだ記憶があります。それに「汚職」を付け加えても今やベトナム社会の方が遥かにそのネガティブな面では進んでしまっているようです。

初めてサイゴンからバンコクへの便に乗った時、航空機の窓から地上を眺めていました。カンボジアとの国境もタイの国境もそれと分かる地理的特徴は何もなく連続する広大な平野でした。地図のように国境線がペンキで引かれていると思っていたわけではなかったつもりでも国境というものの不自然さを知る思いでした。

ベトナムの出入国管理官の横柄な態度に接したりすると「俺は国境など認めない」などと時には粋がってみたくもなるわけですが、タイへの入国に際してはそんな不愉快な思いにさせられることもありませんでした。




雨期でも籾の天日干し

2008-07-30 02:58:35 | 旅行
Oc Eoには小高い山があり、この高さなら5~6000年前の縄文海進の時代にも海面より高かったに違いありません。10kmほど離れたNui Sapにも同じような山があってOc Eo遺跡と呼ばれるものはこの付近一帯の広大なものだったようです。Nui Sapの町に博物館があると聞いてましたが、どうやら見ると遊園地の中にあるらしく、この何処か安っぽい娯楽施設の外観を眺めただけで古代へのロマンは急に萎えてしまいました。

サイゴンの街では時に崩れかけた美容整形に厚化粧といった感じの中年女性を見かけますが、この「Du Lich Thoai Son」もそんな感じ。田舎の生活や歴史遺産に下手な装飾はちょっと勘弁。

ロンスエンからは路線バスも走り差ほど不便な場所ではありませんが、メコンデルタの土壌分布図を見るとメコン河の肥沃な沖積土地域からは外れた硫酸塩土壌地域に位置してるようです。その分米の単収は劣るのだろうと思いますが、知らべたわけではありません。Oc Eo周辺の家では庭先で魚か動物の腸のようなものを粉砕し水と混ぜて形を整え、日に干して乾燥させている姿が少なくありませんでした。ロンスエン出身の知り合いに聞けば分かるだろうと思い、画像を撮って来ましたが、彼にも分からないとのこと。

夕方近くになると強い風が吹き、一瞬にして空が黒い雨雲に覆われました。農家の庭先や道路に干してある籾にはビニールシートが被され、袋詰めされた籾を担ぐ姿もあるわけですが、「やばい雨だ」と焦る僕とは違ってのんびりとした作業風景でした。