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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

Oc Eo 遺跡

2008-07-29 04:03:09 | 旅行
古代ローマ帝国の金貨も出土したオケオ遺跡に一度は訪れてみようと思っていました。ガイドブックには、1世紀中頃中国とローマを結ぶ海上交通で栄えた扶南の「港市」と書かれています。

遺跡の発掘されたOc EoやNui Sap の町はアンザン省トァイソン県にあり、ロンスエン市から約35kmほどの距離です。したがってメコン河の後河からも離れた場所なので何でここが「港市」だったのか?と不思議に思っていたわけですが、地図を見るとラックザー湾からは25km程度しかなく、当時は湾が深く今の陸地に食い込んでいたからのようです。

ベトナムに来てから何度か知人にこの遺跡の話を聞いてみたことはあったのですが、日本語の本には「オケオ」と記されてしまってるのが大きな間違いでベトナム語表記は「Oc Eo」のため発音がまったく通じませんでした。元々はクメールの地名なのでしょうけど。それを知ってからは「オッ・エオ」と発音するように気を付けてはいるもののついつい最初に覚えた「オケオ」が口をついてしまいます。

気のせいかも知れませんが、先住民族クメールの遺跡についての話はベトナム人は興味を示さないというかやや微妙な空気になってしまうようです。少なくとも「じゃ今度一緒に行ってみよう」ということにはなりませんでした。

ロンスエンの街の中心部にある大きな交差点を左に曲がるとThoai Son県に向かう943号線。メコンデルタの他の道と同じように水路に沿っています。暫く進むと道沿いの家の造りがクメール様式(らしき)ものも見えるようになりました。高床式ですがカンボジアで見たものよりも床は低めです。あちこちで庭先や道路で籾米を干していました。

断りもなくカメラを向けるのも失礼かと思い、庭先に入って「えーあのー」と口ごもっていると「誰に用なの」?と聞かれてしまい、「ちょっと写真撮りたいだけなんですけど・・・」と答えると「まー其処に座って」と椅子を差し出されました。クメールの集落というものではなく、混住が数百年続いてクメールの人々もベトナム化した生活を送っているような印象でした。

『じゃがいもの世界史』

2008-07-28 02:47:56 | 旅行
ネットで岩波新書『じゃがいもの来た道』の書評を見つけ、ベトナムに来る友人に買って来てくれるよう頼んだところ、中公新書『じゃがいもの世界史』が届きました。一瞬「あれっ」とは思いましたが、頼んでおいて代金も払わないわけですから文句を言える立場でもありません。ところがどうして、読んでみると初めて知ることばかりで面白く、ちょっとした時間に読むのにも都合の好い内容なので今回のバイク旅行の道連れにしました。

目的地のThot Notに着くと既に6時を過ぎ、仕事はあすの午前中に延ばすしかなく、道端でCheを食べてから国道沿いの宿に泊まることにしました。部屋にはテーブルも椅子もないのでベッドの上で本をぺらぺら捲っている内に眠くなり、ちょっと目を閉じたつもりが気が付くと翌朝。不覚にも夕食・シャワー・歯磨きすら省略し鍵も掛けずに眠ってしまったようです。

お陰で朝早くに目覚めることができたのでゆっくりシャワーを浴び、カフェでの朝食を済ませてからフェリーに乗りました。半分旅行気分で来たのでイザ客先に向かうとなると少々気が重く、しかも鞄の中に客先の住所・電話番号を書いたノートを探すと見つかりません。ヤル気の無さを象徴するチョンボに我ながら情けない限り。それでも大体の見当は付いていたので「○○さんの家は何処ですか」?と尋ねると三度目には店のオバサンが子供に道案内を頼んでくれて無事到着。

わが任務の趣旨を十分理解せずに来てしまったため、というか所詮依頼者の気休め仕事との思いがあったので世間話に終始。養殖池の傍らのテラスに身を投げ、水面を渡る風に吹かれて来ました。

国木田独歩に『牛肉と馬鈴薯』という小説があるとのことです。日本近代文学史の中で聞いたことはある作家ですがおそらく『武蔵野』すらも実際に読んだことはなかったような。独歩は自然に強く惹かれ、北海道移住が「果たせなかった夢」だったのだとか。

明治20年代の東京ならば、その周辺は至るところ自然が残されていただろうに、とも思うわけで、こうしてサイゴンを抜け出して来たメコンデルタすらも当時と比べれば「自然」など無いに等しいとも言えそうです。それでも何処かゲージから放たれ地面を歩き回る鶏くらいの自由と解放感くらいのものは感じることが出来ます。

田舎の空気

2008-07-27 22:03:26 | 旅行
仕事に託けてバイクでメコンデルタへ行ってきました。ここ5年ほどはバイクで遠出することもなかったので少々不安ではありましたが、周りから「危ないから絶対駄目」などとも言われ、他人にあれこれ指図される不愉快さがバネともなったようです。

ここ暫く毎週のように足を運んでいるものの、兎に角他人の運転する車に乗って居眠りしているのも面白くなく、車の中から眺める風景には飽き飽きしてました。それに車で客先に行くのが「ステイタス」、みたいな見栄っ張りの風潮にも同調したくはないし。

金曜の朝、早めに家を出て仕事を済ませ、土日はのんびり気ままなメコンデルタ・ツーリングのつもりが、その気軽さからか早速朝寝坊。しかも200kmほども国道を走り続けるのかと思うと気が進まず、先ずはカフェでコーヒーを飲んでから・・・などとぐずぐずしてる間に9時を過ぎてしまいました。

雨期とは言え昼間の日差しは強く、途中で日焼け防止兼防塵用に道端で売られてるマスクを購入。家に幾つもあったのですが、そんなことはすっかり忘れてました。低気圧が停滞しているような不安定な気象のせいか風も強く、お陰でヘルメットに掛かる風圧もそれなりでアミダ被り状態。

ミトーで昼食を取った後は走っていても眠気に襲われ、小雨が降り始めたのを幸いにビンロンの手前のハンモッグ・カフェで小休止。5時前に目的地に着くのは難しい状況になっていました。

ビンロンに渡るミートゥァン橋の入り口には交通警官が待ち構えていました。その手前50m程の所には数台のバイクが止まって様子を伺っています。たぶん何かしら呼び止められると困る人々なのでしょう。僕と同じように無免許運転とか。長距離運転の場合、交通警官の立ってる場所とその目的がわからないのが困ります。

ビンロンの街からカントーへ渡るフェリーまでは大した距離ではありません。その手間でカントー橋のアプローチ道路建設が再開されてました。同じ場所を何度も通っている筈なのにこの工事現場に気付いたのは初めてです。

延々と待たされる自動車と違ってバイクはすんなりとフェリーに乗ることができます。フェリーにはバス一台分の外国人観光客が載り合わせ、少々楽しげな雰囲気でした。橋の写真を撮ろうとバイクを離れデッキの外れに立つと日本語の会話が聞こえて来ました。自分も今回は半分観光客気分なわけですが、それでも「好いよなー、観光客は」と思わせる落差が何処かに。日本語の会話は若い二人連れの綺麗なお嬢さんでした。エンジン音が大きいので何を喋っていたのかは分かりませんでしたが、「あのカントー橋の事故のことご存知ですか」?とでも言いたかったのか、声を掛けてしまいました。

「いいえ、私たち日本人ではありません」。予想外の展開には慣れ切っているつもりのベトナム生活ですが、これまた想定外でした。シンガポールから来たお嬢さん達、日本人よりも好感の持てる日本語と感じてしまったのは、たぶん人柄によるものなのだろうと思います。ベトナム人の日本語に好感を持てたことは極めて稀です。

フェリーがカントーの岸に着くのが恨めしく思えるほど速かったのは言うまでもありません。ベトナム女性に欠落したもののすべてを彼女たちは持っている、などと幻想が膨らみました。数十年前の御茶ノ水でジーンズにブーツの似合う女性を見て「俺一人だったら絶対後を付いて行っちゃうぜ」とまだ禿げるまえのソウマイさんが言っていたのを思い出しました。

夜行バス

2008-01-08 01:45:04 | 旅行
バンメトートではバイクタクシーに往復4時間ほど乗って無理な姿勢を続けたためか、あるいは高原の空気で膝を冷やしてしまったせいか歩くと膝に痛みを感じるようになりました。サイゴンへの帰りのバスが出るまでには時間もあったのでホテルのサウナに寄り、足マッサージが解決策と思ったわけですが、これが大失敗。看板には足マッサージの表示もあったのに入ってみると普通の全身マッサージのみ。まぁ、それでも多少の効果はあるだろうと諦めたわけですが、マッサージ嬢ははじめからやる気のなさに満ち溢れ、下半身の局部マッサージをしきりに訊いて来ます。そういうつもりでここに来たわけではない、と毅然と答えているつもりでも相手には通じないのか諦めが悪く、こちらは不愉快が募るばかり。チップも払わずに早々と部屋を出てしまいました。

ところがサウナで温めてしまったのが悪かったようで、膝の痛みは激しくなり50メートルも歩き続けることができません。まさかこの歳で自分の足で歩けなくなるとは想像外のこと。要介護状態でベトナムでどうやって暮らすのかと思うと気分は最悪。きょうはタクシーで移動するにしても明日からどうするんだ?膝を冷やすと痛みがあるのは以前からで、そのため膝用のサポーターも何年か前に買いましたが使ったことはありませんでした。

帰りの夜行バスの中ではぐっすり眠れました。まだ暗いうちにサイゴンに着くと携帯にメールが届いていて「朝8:30にBinh Quoi 2」に来るようにとのこと。11時30分に着信したようですが、眠っていて気が付きませんでした。「何でいつも直前に連絡するんだよ」。それに「Binh Quoi 2」ってオフィスビルなのか何なのか、住所も何も肝心なことが書いてありません。が、これがある種ベトナム・スタンダードなわけで怒る気にはなりませんが、それでもウンザリしながらバスを降り、気が付くと膝の痛みは殆ど消えてました。

H君はバンメトートから竹の子を詰めた大きなダンボールを持ち帰りました。何故ベトナムでは季節に関係なく竹の子が採れるのか不思議で、何度も訊いてみるのですが、納得できる答えが返って来ません。ドリアンもマンゴーも一年中市場で売られていて、それと同じようなことなのだとか。


キャッサバ

2008-01-06 02:58:57 | 旅行
10年ほど前にザライ省プレイクを訪れた頃は、外国人はガイドの案内なしに少数民族居住区に立ち入ることは禁止されてました。3年ほど前にその規定もなくなったようです。ダクラック省はバンメトートをはじめすべての県の名がベトナム語ではなく少数民族の言語に由来するものばかりで、また国道沿いには教会も少なくありません。少数民族居住区に教会が多いのはグエン朝の時代に布教を弾圧された宣教師が逃れて来たからなのだろうか、などとフランス人の小説「安南」を思い出しました。

H君が購入する土地の前の所有者は国有林の払い下げを購入したものだそうです。以前は森林だったようですが、少数民族の焼畑によって「原野」と化したのだとか。所々にキャッサバやカシューの木が無造作に植えられてました。近くに住む少数民族が植えたもののようです。「どうせならもう少しきちんと植えれば良いのに」と言うと、H君が「こういう風の強い所ではカシューは成らないんだよ」「根茎からタピオカを作るキャッサバは手が掛からないから・・・」

ブラジル原産のキャッサバはベトナムでの栽培も少なくはありません。栽培面積47万ヘクタールで、トウモロコシの百万へクタールの半分以下ですが、収穫量は790万トンでトウモロコシの437万トンを遥かに超えます。特に栽培面積が多いのがこの中部高原地帯と東南部で、それだけで全国の半分以上を占めます。

今年は米栽培が前年比14万ヘクタール減少し、穀物価格の高騰もあってトウモロコシ栽培が2.9%増えました。キャッサバは2001年の29万ヘクタールから5年間で47万ヘクタールに増えていますが、中部高原の4省では3.6へクタールから12万へクタールへと急増です。

数年前までは下落し続けたキャッサバ価格ですが、果たしてこのベトナムのキャッサバもバイオエタノールの原料としての需要が価格を押し上げるようになるのでしょうか。

バンメトート

2008-01-01 23:24:50 | 旅行
土曜の朝サイゴンを発ち中部高原のバンメトートに行って来ました。年末の何かと慌しい時期ですが、家にいても大したこともせずにダラけて過ごしてしまうに違いなく、H君に付き合うにしました。東部バスターミナルから9時半出発のバスだというのでH君の家に8時半に待ち合わせすることにしました。ところがその10分前にH君の家に着き2・3度チャイムを鳴らしても誰も出てきません。周辺のカフェでコーヒーでも飲みながら待とうかと思いましたが、適当なカフェもなく、H君の携帯に電話を入れました。目を擦りながら起きてきたH君は10万ドン札を握り締め、「朝ごはん食べた?」と一言。こちらはその間ゆっくり雑貨屋でコーヒーを飲むことにしました。

バスは座席が2段になった寝台シートでした。チャビンに行った時のベンツ・トランジットのような恐怖感とは無縁でシートベルトまで着いています。10時過ぎに出発したバスは国道13号線を北上し、いつしか眠ってしまい、気が付くと国道14号線を走っていました。2年前にダク・ノンに行った時に通った道で、見覚えのある風景です。3時間ほど走って大きなパーキングで食事。

H君は10時間の行程と言ってましたが、更に3・4時間でバンメトートに着きました。地方の省都らしく町の中心は行政機関の立派な建物と幅の広い道路という風景でつい悪口を叩いてしまいます。「文化がないんだよ。ベトナムの地方都市には」。

ダムサン・ホテルという一泊22万ドンのホテルは快適でした。サイゴンやハノイなら40ドル払わねば泊まれないような部屋です。快適だったのはここまで。翌日はバイク2台に分乗してH君の購入する(した)100ヘクタールの土地を見に行きました。

国道14号線を更に北上してプレイク方向へ走ります。バイクの後ろ座席に乗るのも4・5キロならば苦ではありませんが、70・80キロとなるとかなり辛いものがありました。片側一車線でノロノロ運転のトラックを追い越すのも恐怖です。シートの座り心地が悪く重心が取り難いので足が疲れてくるし、安物のヘルメットの側頭部を圧迫して頭痛がして来ました。何処まで走れば着くのかも解らないのは余計に苦痛です。

国道を左に折れ、ヘルメットを外すと頭痛も治まりました。しかし更に道を外れて山に入るととても二人乗りでは走れない轍が深く抉られた悪路でした。川にも橋が掛かっていません。


西瓜畑

2007-12-27 01:13:55 | 旅行
海水浴場の裏にはスイカ畑がありました。朝起きてコーヒーを飲みに出るとスイカ畑に水を撒く農民の姿がありました。畑の中にビニールシートを敷いた池を作り、そこからブリキの漏斗で水を汲み散水しています。この辺りは海老の養殖が多いようで畑よりも養殖池が目立つのですが、よく見るとスイカを植えた両側に雑草のように見えたのは稲でしたので、このスイカ畑は田んぼのようです。

スイカ畑といえばかつて三里塚の援農で数日手伝ったことがありました。面積辺りの収入は米の2倍になるのだとか。それでも外れれば大損で博打のようなものだと聞いたのを思い出しました。それより数年前には茅ヶ崎へ海水浴に行く途中で畑から1・2個盗んで食べたこともありましたが。さくらんぼ泥棒は最近のニュースでも目にしますがスイカ泥棒は日本ではどうなんでしょう?

この辺では高校生などが畑のスイカを盗んで市場で売り払い、タバコを買うのだとか。手っ取り早い現金収入の手段のようです。

この畑のスイカは後20日ほどで実が成り、その5日後には収穫できるそうです。旧正月用に植えられたスイカなのでしょう。スイカはほぼ1年中作られているようで、きょう事務所の近くで食べたランチのデザートもスイカでした。1万6000ドン(110円)のランチに付くデザートですから高価なものではないようです。

Dien Haiの町からサイゴン行きの直行バスが出てると聞き、日曜日の晩にそれで帰ることにしました。ところが出発は午後11時でサイゴン着は3時半だとか。それでも月曜日の仕事には間に合うだろうし、車の中でも眠れると思ったわけですが、その安易な期待を裏切ってくれるところがベトナムのエキサイティング。

バスはDien Haiの町を回って客を乗せるので彼方此方立ち寄ってはクラクションを鳴らし、しかも深夜の田舎道を猛烈なスピードで走ります。帰りも何故か席は一番前でスピードメータは120kmを指してました。さらに後ろの席のオバサンのお喋りが止まりません。目を瞑って眠ろうとすればするほどその下品なお喋りが気に障ります。振り向いて「いい加減にせいよ、この糞ババア」と吐き捨ててしまいましたが、僕よりも10数kg体重がありそうなこのご婦人には二度三度繰り返してもまったく効果なし。絶えがたきを絶えるしかありません。

それでもうつらうつらしてるとバスが止まり、運転手がセルモータを回してもエンジンが掛かりません。ボンネットを開ける姿を見てバスを降り、タバコを吸いました。オーバーヒートしたようで開いたボンネットからはジエターの沸騰した水が道路を濡らしてました。運転手はペットボトルの水を継ぎ足してましたがその程度でどうにもなるはずもなく、セルモータの回る音も次第に情けなくなり遂に断念。

見るところ購入後まだ1・2年しか走っていないようなベンツのバスです。チャビンの町の手前10数キロの地点だったようで30分位するとチャビンの町からバスが来てそれに乗り換え、故障車を牽引してトロトロ町まで走りました。

チャビンの町からは再び深夜の片側一車線道路の田舎道をビンロンに向かって120km/h走行。高速道路でもないのにこのスピードには無理があります。センターラインの上に犬だか子牛だかの黄土色の動物の姿が見えたと思った途端車体に衝撃。ハンドルを切ることもブレーキを踏むこともできずに走り去りました。ビンロンを過ぎて休憩所に立ち寄った時に見るとナンバープレートは浪打ち、バンパーが壊れてました。




チャビンの海岸

2007-12-26 21:32:08 | 旅行
週末にメコンデルタの海を見に行きました。5区のTran Phu通りからTra Vinh省Dien Hai行きの直行バスが出ています。1994年にVinh Longまでの長距離バスに乗った時は片道1万ドンで車内はギュウ詰め、悪路の振動もすさまじいものがありましたが、今は別世界。ベンツやフォードのエアコンの効いた16人乗りバスが舗装された国道一号線を時速120kmのスピードでカーチェイスさながら無理な追越を繰り返します。

バイクで行くより疲れは少ないだろうと思ったわけですが、カーステレオの歌謡曲や乗客のお喋りの中に閉じ込められ、交通事故のリスクを背負いながらのひと時は一度楽しめばもう十分。座らされた席は最前列の運転手の隣のため、衝突すればこのフロントガラスを突き破って路上に舞うこと間違いなし。たとえ運転手の技術がどれだけ優れてようと予期せぬバイクの飛び出しやら麻薬常習の長距離トラック運転手と遭遇しないとは言えないわけだし。次回は必ずバイクでの一人旅を楽しむべきです。

メコンデルタには見るべきものが何もないと思い、ここ数年は仕事以外でメコンデルタを訪れることもは殆どありませんでした。しかしチャビン省へは今回が初めてです。東シナ海沿岸のソクチャン省、バクリュウ省と同様にチャビン省もクメール族が多く住み、クメール寺院が目立ちます。人口100万人中30%がクメール族で、ベトナム全土のクメールの30%近くを占めるのだとか。

いつかはメコンデルタ300年の開拓史を調べてみたいという気もどこかにあるわけですが、ベトナム語の文献を読む面倒に挑む根性がなく実現しそうもありません。そんなわけで今回はただ海岸を見に行っただけ。以前見たソクチャンの海岸よりは遥かに綺麗な海岸でした。デルタの海岸ですから砂浜は土壌を多く含み、海の色は茶色で限りなく遠浅。

Dien Haiの町からバイクで10分ほどで海岸に着きます。訪れたのはBa Dongという名の海岸で、最近になって小規模のリゾート開発がなされ、サイゴンから外国人のリゾート客も訪れるのだそうです。泊まったのは「チャビン郵電建設開発株式会社」経営のコテージで一泊15万ドン(約1060円)でした。

久々にGPSを持ち出して測ってみました。海岸は北緯9度37.438分。東経106度33.839分。海抜は-3mと表示されました。

マレーシア航空

2007-11-10 01:37:35 | 旅行
為すべき仕事の10分の1も済まずに一日が終わってしまう毎日。先月郵送した100通の製品案内について確認の電話を20社ほどに掛けてみると全部が全部「届いてない」との返事。先月末に10数通も宛名が空白のままの封筒が郵便局から送り返されて来ましたから、果たしてちゃんと送ったかどうかも疑いたくなります。郵便物もまともに出せないとは幾らなんでもそこまで酷くはないだろうとの思いでしたが、きょうは10通だけ再送することにし、宛名を確認すると県や省の記載がなかったり明らかな間違いも少なくありません。まったくの時間と経費の無駄使い。自分で出した方が遥かに早くて確実です。「一度出して届かなかったのだから、注意して宛先は確認すべきだろ」と言っているのに「県や省は書かなくてもたぶん届きます」と居直られ、またまた切れました。

聞く耳を持たない相手に言っても無意味なわけですが、同じ過ちを毎日繰り返すのを放置することもできません。何をしても怒鳴られるだけで、相手も居直り続ける根性をなくしたのか、とうとう「私にはここの仕事は向いてないので辞めます」と言われてしまいました。それはそれで「どうぞご自由に」との思いですが、中途半端な仕事の尻拭いをさせられるのも不愉快なので「ここでは怒鳴られるだけで済むけど、ベトナム人の会社じゃ何があるか君も知ってるだろ。以前工場の仕事をしてた時はそれは酷かったぜ。そういう所で働くよりもう少しここで辛抱してみないか、単に仕事の仕方の問題だけなんだから・・・」などと訳のわからぬ説得をしてしまいました。しかし、その会話を聞いていた5日目の新人が辞めてしまうことに。

お陰で昼飯も食い損ね2時近くになって麺を食べに出、道端のコーヒーを飲みながら新聞を開きました。マレーシア航空の広告がありました。クアラルンプール往復270ドル。

昨夜も遅くまで「東南アジア紀行」を読んでいて旅行をしたくなってしまいました。雲南に行ったばかりですが。ラオスや東北タイへ陸路で、という気になっていたのですが、マレーシア特にマラッカには前々から一度行きたいと思い続けてます。シンガポール往復495ドルはパスしてもその次のデリー、マドラス、ボンベイ495ドルには心が動きました。極めつけはブエノスアイレス往復837ドル。日本に帰る往復は900ドルを超えるのに何で南米までがそれより安いのでしょうか。燃料費は日本への倍以上のはずだし。ベトナムにいるうちにラオスとマレーシアとブエノスアイレスに旅行をしよう、とりあえずそれを今ベトナムにいる理由にしてもう少し頑張らねば、との思いです。


昆明

2007-11-01 03:45:16 | 旅行
雲南省の省都、600万都市昆明はやはり大都会。何しろハノイやシンガポールより多く、ホーチミン市や埼玉県と同じ規模です。ビルが並び片側3車線の道路が走る近代都市に一泊するのは気が進みませんでしたが、たぶん見た写真が悪かったのでしょう。想像してたよりも好感の持てる街でした。長距離バスターミナルから中心部まで歩いて行ける距離というのもベトナムでは考えられないことですし、空港も近くにあり便利。

問題はハノイ-昆明間のVN航空の運賃が高すぎることです。往復を陸路にする時間はなく、帰りは航空機でハノイに戻ることにしました。わずか1時間半の飛行時間ですから100ドル程度の料金と思ってチケットを買いに行ったところ、250ドルほどもして唖然。まさかHCM-ハノイの往復よりも高いとは知らずお金が足らなくてATMに引き出しに戻りました。

昆明にも道路には郵便局の公衆電話兼売店のBOXがあり、そこで市街地図が買えました。一枚4元。日本の昭文社の市街地図はやはり高過ぎ。活字が小さ過ぎて読み難く、コンパスもGPSも持って行かなかったので余り役には立ちませんでしたが。

何処でも食べ物は美味しく、特にバスターミナルから歩いた明通路で立ち寄ったタイ族料理の店は大いに満足でした。タイで食べたタイ料理とはかなり違った趣で山岳地帯のもののようでした。米は初めて見るかなりの大粒で、ベトナムで食べる日本米よりも美味しいく感じました。

CDショップに入ると「西楼情思」米线 というCDを勧められました。西域抒情という感じの曲で、大きなポスターも貼ってあったのでかなり売れてるCDのようです。この曲を聴いていると高校生の頃読んだ井上靖の西域小説を思い出し、もっと北の
方へも行ってみたくなりました。