夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

海野宿散策

2013年09月30日 | 国内旅行

海 野 宿 散 策

①街並み

 

 ②【うだつ】の上がった家

 

③本うだつ

 

④袖うだつ

 

⑤馬の塩舐め石

 

⑥美しい格子戸

 

⑦格子窓

 

 

⑧この影の男の正体は?

(ポインターを当てると正体が現れます)  

   

 

 


バランスボール

2013年09月28日 | 日記

 

 

介護予防トレーニング教室でバランスボールに乗る練習をした。

日常生活で転ばないようにする訓練である。

俺はボールに腰かけて足をあげると、すにぐ転んでしまう。

バランスをとるのは難しい。 

教室の仲間にはボールの上に四つ這いになって、バランスをとっている人がいる。 素晴らしい腕前だ。

 俺は今、5秒間だけ、足を浮かせることを目標にしている。

 キンさん、ギンさんの話によれば、長生きの秘訣は、転ばないように気をつけることだそうだ。

100歳まであと25年か。 がんばらなくっちゃ


こんな女に誰がした  *ボクの見た戦中戦後(11)

2013年09月27日 | ボクの見た戦中戦後

 進駐軍が悪いことをしても新聞に載らないと父が母に話していた。 小学生のボクには、どんな悪いことなのか想像がつかなかったが、後にその実態を知るようになった。 婦女への暴行である。 

 敗戦直後に日本政府は進駐軍相手に慰安施設を作り、新聞広告で慰安婦の募集をしていた。 この進駐軍相手の娼婦をパンパンと呼んでいた。

 どこの基地のことか忘れたが、アメリカの基地が出来たときに、パンパンが農家の一部屋を借りて住み、進駐軍相手に商売を始めたとのことであった。 間借りといっても、当時の農家はふすまや障子で仕切られているだけであり、雨戸を開けていれば家の中は丸見えである。

 日中、パンパンが進駐軍相手に行う行為を、小学生たちが隣の部屋や外から覗き見し、その様子を作文に書いていたという。 ボクは高校を卒業した頃、このことに関する記事を雑誌で読んで衝撃を受けた。

 パンパンは軽蔑のまなざしで見られ、バスに乗っても他の乗客から、降りろ、と怒鳴られることさえあるということも知った。

 昭和26・7年の頃のことである。 近所の娘の姿が見えなくなった。 家の者は娘がどこにいるのか他人へ知らせなかった。 村には娘が売られたのではないかと噂がたった。 

 あの頃、駅前のラジオ屋では流行歌のレコードをかけ、外付けのスピーカーで流していた。 ボクは歌詞を全部知ることはなかったが、繰り返し歌われるフレーズだけは覚えていた。

 “こんな女に誰がした”

   星の流れに

 


今日もステラおばさんへ

2013年09月25日 | 俺の女房は- - -

ゆであずき・抹茶アイス・バニラアイス・ぎゅうひ・ホイップクリーム・きな粉・ワッフル

 

女房が手芸用品を買うというので、デパートへつきあった。

こまごまとしたものがたくさん並んでいる。

猫の目や鼻などの材料、ボタンや紐などを買うそうだ。

俺には同じものにしか見えないが、形や色などが微妙に違うそうだ。

選ぶのに長時間かかったから、俺は小腹がすいた。

ステラおばさんの店に寄ろうとしたら、女房は太るからコーヒーだけにすると言ってついてきた。

俺は「あずき&抹茶ワッフル&ドリンクセット」を頼んだ。

コーヒーだけと言っていた女房は、ダイエットはどうでもよいことにしたのか、同じものを注文した。

俺は気の毒に思い、ワッフル二つのうち、一つ手伝ってあげると話し、彼女も了解したはずであったが、気が付いてみたら、俺より早く、二つとも平らげてしまっていたのだ。

初心を忘れたのか。 


傷痍軍人  *ボクの見た戦中戦後(10)

2013年09月24日 | ボクの見た戦中戦後

  街角で、白衣姿に戦闘帽を被った傷痍軍人が2・3人で立っている様子をよく見かけた。 戦争で手足を失った姿を見せながら、道行く人たちから金銭を貰っていた。 「我々はあの恐ろしい戦争で-------」と戦争の悲惨さをメガホンで叫び、ときにはアコーデオンを弾きながら軍歌などを歌っていた。

 また、汽車の中で車両を渡り歩き、乗客から寄付を募っていた。

 昭和33年ごろの年末、ボクは上野発青森行き夜行急行列車に乗った。 列車は郷里へ帰る人々で超満員であり、秋田駅近くまで通路に立たなければならなかった。 向かい合わせの4人座席の人々は、互いに都会での仕事や郷里の話などをして、なかなか寝付けない様子だった。 

 ボクが立っているすぐそばの座席に、白衣に戦闘帽と一見して傷痍軍人と分かる人がいた。 彼はうとうとしながら、独り言を言い出した。 「オレのことを偽物呼ばわりする者がいる。 オレは傷痍軍人だ。 偽物ではない」と。  彼は偽物と言われ、単なる乞食と思われ、傷ついていたのであろうか。

 ボクの村にも片足を失った元軍人がいた。 彼は座ったまま下駄を作ったり、ポンせんべいを焼いて生計を立てていた。 


吹矢遊び

2013年09月21日 | 日記

 吹矢で遊ぼうと思いネットで調べたら、筒1本が6,000円以上もする。

筒と的や矢のセットで13,000円もするのだ。

公式試合ならともかく、おもちゃにして遊ぶには高すぎる。

俺はステンレス巻のパイプを吹矢の筒にすることにした。

長さは90センチ、直径16ミリの筒で、わずか300円である。

 

 矢は新聞折り込みの固めの広告を細長い円すい状に丸め、セロテープで補強した。

大きさはまちまちだが、矢が出来た。

 

的は発砲スチロールにプラスチックボードを当てた。(100円ショップ)

丸いしるしを描かずにそのまま的にした。 

 

わずか500円で吹矢セットが出来た。

4メートル程離れたところからでも、紙の矢は的に突き刺さった。

この春最初に作った吹矢は紙製、マジックペンを吹き飛ばして遊んだものだ。 

----------(幼稚園児に返った爺)---------

 

 

 

 

 

 


減塩チャーハン

2013年09月20日 | 俺の料理

 

俺はチャーハンを作ろうと思った。 動画を見て作り方を勉強した。

まず、玉ねぎを小さなサイコロの形にきざんだ。 涙がでる。 

玉ネギ、赤ピーマン、焼き豚などを一緒に炒めて器に移した。 動画では油を使っていなかったので、俺もまねた。 テフロン加工のフライパンは油なしでもよいらしいのだ。

動画のレシピのように、ご飯に生玉子をかけてかき混ぜた。 これをまた、油なしで炒めた。 フライパンにこびりついたので、剥がしながらかき混ぜた。 

それから、先に炒めた具を混ぜ合わせ、きざんだネギを加え、さらに炒めた。 塩コショウを少なめにふりかけた。 香りづけに醤油をサッと振りかけた。

俺は高血圧予防のために、減塩食にしてから、もう20年も経っている。 野菜サラダはドレッシングなし、味噌汁も薄味だ。 薄味にはなれているし、健康のためにチャーハンも減塩がよいのだと俺は思った。 だから、塩コショウもパラパラ程度にした。

出来上がったチャーハンを女房と一緒に食べることにした。 俺にだって、チャーハンぐらいは作れるぞと自慢して見せたかったのだ。

食べてみた。 なんだか焦げくさい。 味にしまりがない。

もさもさとした味だ。 材料は同じでも女房が作るものとはまるで違うのだ。 女房は何も言わずに食べている。

残さず食べたが、なんだか食べた気がしない。 満足感がない。

俺は口直しに、白いご飯で食べなおした。

女房の作った大きめの梅干を一つ、おかずにした。

減塩のつもりが増塩になってしまったのだ。(残念)

 お料理はむずかしいなあ

 


ビール0,4本分余計に飲めるのだ

2013年09月18日 | 日記

自転車エルゴメーター

 俺は足腰が弱いから、ギックリ腰に度々なってしまう。 昨年は2度もギックリ腰になったから、杖を離すことができなかった。 また、歩く速さも同年代の人たちより遅く、息切れしてしまいがちだ。

とてもジョギングはできない。

 今年は4月からシニアセンターで、介護予防を目的とした筋力トレーニングを受けている。 おかげで杖を手放すことができてうれしい。

 今日は自転車エルゴメーターで訓練をした。 室内に据えた車のない自転車に乗り、負荷をかけながら漕ぐのだ。 ペタルを漕いでいると次第に負荷が掛かり重くなっていく。 心拍数の変化も記録され、目標心拍数に達すると、警告音で知らせる仕組みになっているから安心だ。

 俺はこれまでに10分~15分間だけで精いっぱいだったが、今日は20分に挑戦してみた。 額に汗がじわっと出る。 心拍数をコントロールしながら、どうにかクリアできた。

 終了すると消費カロリーが表示される。

65,6Kcal 

ビールのイラストに 0,4本分とでた。

 今夜はいつもより 0,4本分 余計に飲めるぞ

科学的根拠に基づいて女房を説得しよう

 


爺は一人で豚肉とモヤシの炒め物を作った

2013年09月17日 | 俺の料理

 女房はときどき友達と演劇を観に出かけている。 4時ごろ出かけて帰りは夜の10時過ぎである。 その日の夕食は俺一人で済まさなければならない。 

 このような時、昔だったら女房は俺の夕食を作り、テーブルに並べて蠅帳で被ってから出かけていたのだ。 しかし、最近は全く違うのだ。 夕食の準備をすることはなくなった。 理由はもしもの時に備えて、俺に独り立ちの訓練をさせるためだと、体裁のいいことを言っている。 俺には返す言葉がない。 それにもかかわらず、俺は女房を駅までクルマで送迎をしているのだ。 

 女房を送ったあと、俺はスーパーで弁当や、おかずを買って家へ帰っていた。 しかし、今回、俺は一人で料理を作ろうと決意した。 モヤシ炒めを作ってみようと。 

 スーパーへ行って、まずモヤシをかごに入れた。 肉を入れればおいしくなるだろうと思い、陳列棚をのぞいた。

 俺は結婚以来、一人で肉を買ったことがない。 豚肉を見ると、パックの中に薄くスライスして1枚づつきれいに並べてある。 棚の端の方には「お買い得」とシールの貼った肉がある。 これは肉の形は一様でなく、全部がくっついているような感じだ。 どうせ細かく切って食べるのだから、この肉の方がよいと思った。 「お買い得」は安いから、なお結構なことだ。 これを買うことにした。

 さて、「お買い得」をまな板に載せてみた。 くっついている肉片を1枚ずつはがすと、脂身が多いことに気が付いた。 包丁で白い脂身を切り落として捨てた。 肉をタクアンのような形に一つにまとめて切ろうとした。 ダイコンのようにスパッと切れないだろうと思っていたが、それにしてもなかなか切れないのだ。

 包丁を前後にひいてもゴニョゴニョして切れない。 よく見ると、下の方の肉はまな板にぴったりくっついていて、上の肉は包丁の刃先にくっついて、前後にひくたびにゴニョゴニョ動いているだけなのだ。 俺はノコギリで薪を切るように、力を入れてごしごしと包丁をひいた。 肉は切れたが、切れた肉は包丁にぴったりくっついているから、次の刃を入れることができない。 一切れごとに肉片をはがさなければならないのだ。

 フライパンに豚肉を入れて炒めた。 肉が白くなったので、モヤシを入れた。 彩りにニンジンとピーマンを加えた。 塩コショウで味付けをして出来上がりだ。 

 食べてみた。 味は女房が作ったように美味しくならないが、空腹はみたせるのだ。

 女房の電車がくるまで、酒はお預けだ。 


夜な夜な亡霊が二つ  *僕が見た戦中戦後(9)

2013年09月14日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(9)

夜な夜な亡霊が二つ*

 同級生の兄が復員してきた。 どこで戦ってきたのかは聞かなかったが、敗走しているときに、怪我か病気で動けなくなった戦友を置き去りにしてきたらしい。

 その兄の所へ、夜な夜な亡霊が二つ現れるという。

 寝ている枕もとで、亡霊は兄の名を呼んで起こし、

ヨクモ~オレヲ~オイテイッタナ~

と、凄みをきかせるということだ。

 同級生の兄はおそらく南方の島々に出兵されていたのではないだろうか。

 軍の幹部は本土防衛のためにと、島々の兵隊たちを釘づけにしていた。 食料も弾薬さえも送らない状態だった。 援軍を送ることも、救助にも向かわなかった。 捨石にされたのだ。

 残された兵隊たちは、なにを食べて生き延びようとしたのだろうか。 飢えに苦しみ、病気に苦しみ、敵の砲撃でジャングルを逃げまどい、多くの兵が死亡したであろう。

 置き去りに去れた者も、生き残った者も悲惨だ。

 


俺はフロントでフラメンコを踊った

2013年09月12日 | その他

スペインを旅行したときのことである。

バルセロナの銀座通りの劇場でフラメンコを観ようとした。  そのチケットを予約したいが、俺はスペイン語も英語も話せない。

それで、俺はホテルのフロントでフラメンコの真似をして踊ってみせた。  すると、フロントでは俺の言いたいことを理解してチケットを2枚渡してくれた。

おかげで俺と女房は一流ダンサーによるフラメンコを楽しむことができたのだ。

記念に買ったフラメンコ人形をガラス玉に入れてみた。

 


戦災者たちのバラック  *ボクの見た戦中戦後(8)

2013年09月11日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(8)

 ☆戦災者たちのバラック

 戦後5・6年ほど経った頃、父に連れられて、東京、横浜近辺の旅をした。 上野公園には戦災者たちのバラックが並んでいた。 割烹着を着た婦人が室内を箒で掃いている姿が印象に残った。 その後のニュース映画で、役所の人たちがバラックを強制的に取り壊しているのに対して、住民たちが抵抗している場面を見た。 アメリカに爆撃されて家を失い、日本の役人からも住まいを追い出された人達は、どこへ行ったのだろうか。

 ☆浮浪児

 上野駅の地下道には、戦災で家を失ったであろう人々が寝ていた。 女性もいた。 戦災孤児たちは「浮浪児」と軽蔑的名称で呼ばれていた。 街中でその浮浪児たちに出会った。 もしかしたら、ボクもこうなっていたかも知れないと恐ろしい思いをした。

 ☆横須賀・横浜

 横須賀の港にはアメリカの軍艦が並んでいた。 横浜の港では日本人の労働者が働いていた。 横浜の街を歩いているのは、ほとんどがアメリカ兵だった。 厚化粧をした日本女性が、アメリカ兵と抱き合っている姿をみた。 中学生のボクには、元敵兵と抱き合っていることが理解出来なかった。 街ではアメリカ兵相手に少年が新聞を売り、少女は花を売っていた。

 ☆日本人入ルベカラズ

 横浜の街で、鉄条網に囲まれた敷地の道路側に、戦車が何台も並んでいた。 看板には 「日本人入ルベカラズ」と書かれていた。 入り口には銃を持った兵隊が立っていた。 


水芭蕉のガラス玉

2013年09月10日 | 日記

パソコン仲間からガラス玉の作り方を教わった。

水芭蕉、カタクリ、二輪草などの花をガラス玉に入れてみた。

  

 

 ガラス玉に入れて飾りたい物や、ガラス玉に閉じ込めたい者など、空想を巡らしながら作業していると楽しくなる。

 


茄子漬はビニル袋で作るのか

2013年09月09日 | 俺の料理

俺の好物は茄子の漬物だ。 しかし、女房は茄子の漬物作りに何度か失敗しているうちに、まったく作らなくなってしまった。 プラスチックの容器で、何度漬けても良い紫色にならないからだ。 

原因は漬物の素にあるとしておいた方が、女房の自尊心を傷付けずにすむのだ。

(ほんとは女房の腕が悪いとしても)

俺は商店で、これまでに使ったことのない「茄子漬の素」を見つけた。

それはビニル袋に、その粉と水と茄子を入れ、冷蔵庫に一晩おくだけで出来上がるという極めて簡単なものだ。 

俺はお小遣いで茄子漬の素を買って女房に作ってもらった。 一晩でおいしい茄子漬が出来上がった。 

昔、お袋は大きな樽に茄子を入れ、塩とミョウバンで漬けていた。 樽の中蓋に平たい重石を載せて作っていた。 

今はビニル袋に入れるだけで、漬物が出来上がるのだが、これでは漬物を作っている実感が湧かないのだ。

もし、女房が俺の書いた女房の数々の悪口のブログを覗き見て,機嫌を悪くしたら好物を作ってくれなくなるかも知れない。 その時は俺一人で茄子漬を作ろう。

ビニル袋に茄子を入れるだけだから、俺にだって簡単にできるはずだ。

 


落雷でルーター故障+雷余談

2013年09月07日 | 日記

遠くでカミナリが鳴っていたが、ネットで作業をしていた。 

どこかで落雷があったのか停電になったが、すぐに復旧した。

ところが、ネットは遮断状態になってしまった。 NTTに問い合わせたらルーターが故障なので新品と取り換えてくれるとのことだ。

新しいルーターが送られてきた。 説明書を読んでもさっぱり分からない。 友人の助けを借りて立ち上げることができたが、なんと復旧までに7日間もかかってしまった。 

 ところで、明治20年生まれの俺の祖母は、カミナリというものは天上に住んでいる鬼と思っていた。

祖母の話によれば、近所の家にカミナリが落ちたので、その家へ行ってみた。

奥さんが家の中の柱に寄りかかっていたとき、カミナリが天から太鼓を叩きながら落ちてきたそうだ。

そして、奥さんを殺してから、柱に爪をワリワリと引っ掻いて登り、かや屋根を突き破って、稲妻の階段を駆け上がり、天へ帰って行ったという。 

その証拠に、柱にカミナリが爪で引っ掻いた傷痕が残っていた。 

今の若い者はカミナリは電気だというが信じられない。

ババはカミナリの爪痕をはっきり見てきた。

間違いなく、カミナリは天に住んでいる鬼だ。 

 

みなさん。この実証的理論に反論できますか。 反論はコメントで受け付けますので、我と思わん方は投稿あれ。 特に科学者の反論をお持ちします。

反論!!  難しいだろうな (^o^)

なお、もう一つ、祖母のエピソードを伝えよう。

俺は中学生のとき、学校から天体望遠鏡を借りてきた。 そして東の空から昇ってくる満月を観察していた。

そこへ祖母が来たので望遠鏡を覗かせた。 祖母は「サッ!!」と驚きの声を上げた。 

そして叫んだ。

「 ウサギがいない ! ! ! ! ! !