goo blog サービス終了のお知らせ 

夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

ギックリ腰日記(10)

2016年07月31日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(10)

     7月31日(月)

ギックリ腰になったとき、トイレで立ち上がるのに苦労した。

足腰に力が入らず、立ち上がることが難しいのだ。

身障者トイレについているようなL字型の手すりを取り付けようと材料を買ってきたが、腰の痛みでなかなか作業に入れなかった。

リハビリで良くなってきたので、作業に取り掛かることにした。

まずは壁の中の間柱探しだ。

壁裏センサーで探す。

取り付け用の板を打ち込む所に釘があることがセンサーで分かった。

だから、ここを避けて木ねじを打ち込む。

女房に手伝ってもらっての作業だが、足腰が不自由なので、思うようにならない。

また、ギックリ腰にならないように気を付けながらの作業だ。

ギックリ腰予防の作業で、またギックリ腰になったら大変。

休み休みの作業で二日もかかった。

完成!

これで、いつギックリ腰になっても安心。

しかしなあ、もうギックリ腰はこりごりだよ。

女房いわく。

「超高齢になって腰が立たなくなったら使えそうだね」

ギックリ腰にならなくとも、いつか役立つときがくるだろう。    

             転ばぬ先の杖


植松聖 & ヒットラー

2016年07月29日 | その他

          植松聖 & ヒットラー

 

☆書架にしまい込み、もう、忘れていた本を取り出した。

ヒットラーの「我が闘争」

学生のころ、父親の本棚から持ち出して読んだ本だ。

ページは薄茶色に変色している。

表紙は剥がれてしまった。

改めて奥付を見る。

昭和十五年九月発行、昭和十六年六月八版発行とあるから、当時は相当数の人々が読んだのだろう。

「我が闘争」が翻訳され、発行されたのは太平洋戦争勃発1年前のことか。

この本には、ヒットラーのユダヤ人に対する憎悪が書かれていた。

 (拡大)

 (拡大)

☆ヒットラーはユダヤ人虐殺の前に、障碍者の殺害を組織的に行っていた。

知的障碍者、身体障碍者、精神障碍者は生きる価値がないとし、殺害したのだ。

幼子までを母親の手から取り上げ、ガス室、薬物注射、飢餓で殺害し、これを安楽死と呼んだ。

 

☆去る7月26日未明、植松聖という輩が、障碍者施設を襲い45人もの人々を殺傷した。

彼は犯行前に衆院議員長宛の手紙で、障碍者を安楽死させる計画を知らせていたという。

抵抗できない障碍者を次々と刃物で刺し殺し、これを安楽死というのか。

障碍者は生きる価値がないというのか。

 

☆私がこの事件が報道されたとき、一瞬、ヒットラーのことが脳裏を走った。

 


マウス

2016年07月26日 | 日記

        7月26日(火)

パソコンの調子が悪くなった。

パソコンとセットになっているマウスは、ワイヤレスだ。

この、ワイヤレスマウスを動かしても、マウスポインターが動かない。

電池を取り出して電圧を調べたら、1.2ボルト。

そこで、新しい電池と交換。

けれども作動しない。

そこで、メーカーに電話で問い合わせをすることにした。

最初の日は30分待っても、電話がつながらないので諦めた。

二日目の昨日は、5分程でつながった。

事情を説明すると、丁寧に説明してくれた。

電話でのサポートを受けながら、パソコンを操作。

そして、ワイヤレスマウスが使えるようになった。

これまでに、パソコンの調子悪くなると、何度も電話でメーカーに相談してきた。

いつもながら、専門用語が分からない俺にも、丁寧に分かりやすく説明してくれるので、感謝している。

しどろもどろに質問するので、質問者の能力が低いと判断し、易しい言葉で説明してくれるのだろう。

ありがたいことだ。

 

俺が初めてパソコンにふれたのは、70歳のころだ。

XPを使っていた時だ。

マウスにはコードが付いている。 

本体をネズミの体、コードをしっぽにたとえて付けた名前か。

マウスを動かしてもポインターが作動しなくなったのだ。

専門用語でフリーズと言うそうだ。

俺はこの時、初めてメーカーへ電話で、どうしたら良いかと問い合わせた。

この時、俺はマウスという言葉を知っていたのだが、相手が電話に出たとたんに、言葉がつかえてしまった。

マウスという言葉が出てこないのだ。

しどろもどろに話す俺に、サポートの担当者は、俺の能力に合わせて、易しく説明してくれた。

俺の言おうとしていることを察してくれるのだ。

俺にも分かるように説明してくれる事に感謝した。

 

        その時の俺と担当者との会話

   「もしもし、あのう、ネズミを動かしても、矢印が動かないのですが?」

        サポート担当者は優しく応えた。

   「マウスを動かしても、ポインターが動かないのですね」

   「左下に旗の印があるでしょう。見つけましたか?」

       (スタートボタンのことだ)

   「土星のような印がありますね。見つけましたか?」

       (インターネットエクスプローラーのアイコンのことだ)

 

専門用語の分からない俺に、分かりやすくアドバイス。

感謝。感謝。

 

 


ギックリ腰日記(9)

2016年07月24日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(9)

     7月24日(日)

トイレに手すりを取り付けようと思った。

ギックリ腰で一番困るのは、車椅子でトイレに入ってから、出てくるまでだ。

足腰に力が入らないから、立ち上がることができないからだ。

ベットから起き上がるときは、女房に手伝ってもらうが、こればかりは頼みたくない。

だから、トイレの中に置いてある車椅子の肘掛けに、必死になってしがみついて立ちあがった。

かなりの冒険である。

杖で歩けるようになってからも、トイレが大変。

杖に満身の力を込めて、気合を入れなければて立ち上がることができない。

身障者トイレにあるようなL字形の手すりを取り付けようと、この時、真剣に考えた。

 

俺はホームセンターでトイレ用のL型手すりを買ってきた。

壁は空洞なので取り付け用の板も用意した。

しかし、今はギックリ腰で作業ができない。

腰をかがめて作業しなければならないからだ。

 

   さて、いつ作業に取り掛かろうか?

   下手に作業すれば、また、ギックリ腰だ。

 

 


ギックリ腰日記(8)

2016年07月23日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(8)

     7月21日(木)

太極拳教室へ出かけた

準備運動の片足立ちや、足に負担がかかる運動はやめた。

24式太極拳では、左足になるべく負担がかからないようにして演技した。

注意しているのに、ついつい力が入ってしまい、膝が痛くなった。

そこで、椅子に腰かけて休憩。

99式太極拳は腰かけたまま、腕だけ動かして運動した。

だから、手踊りをしているようなものだ。

   夏になった。 そろそろ、街のお祭りが始まる。

   腰かけたまま、腕を動かしていると、まるで盆踊りの練習をしているようだ。 


ギックリ腰日記(7)

2016年07月21日 | ギックリ腰

 

ギックリ腰日記(7)

     7月20日(水)

腰の痛みはよくなったが、足が痛い。左膝が痛む。

若いころ、階段から転げ落ちて怪我をしたところだ。

歩くと膝が痛むのだ。

 

女房は9時前に家を出て、帰りは夕方5時とのことだ。

電車で押し絵教室に通っているのだ。

何か月も前から、歌舞伎役者の羽子板を作っているのだ。

弁当に、おむすびを持っていくという。

ついでに、俺のおむすびを二つ作って置いていった。

多分、俺がスパゲッテイを作ってあげたお礼だろう。

 

女房のおむすびは一つだけだ。

ダイエットのため、一つでよいそうだ。

重くなったら、俺が女房の介護に困るからなあ。


(おむすびと きゅうりとわかめの酢の物)

 

 


ギックリ腰日記(6)

2016年07月18日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(6)

     7月16日(土)

☆ギックリ腰14日目

女房は俺を家に置いたまま、出かけてしまった。

卓球クラブに行ったのだ。

俺も同じクラブに入っているのだが、ギックリ腰なので置いていかれたのだ。

まあ、仕方ないや。

俺は家の中なら、杖なしで歩けるようになってきた。

しかし、再発防止のため、腰は腰痛ベルトで、しっかり固定していなければならない

腰を曲げると痛いので、顔洗いがむずかしい。

まず、左右の足を前後に開いてかまえる。

運動会のかけっこで、スタートするときの構えだ。

それから身体を少し前にかたむけて顔を洗う。

 

☆俺がギックリ腰で立つことも座ることも出来なくなったとき、女房は俺を介護してくれた。

     (ありがたや!ありがたや!)

しかし、こらからもギックリ腰になったとき、どれだけ介護してくれるかどうかは分からない。

身動きできなくなったとき、笛で合図しても、太鼓をたたいても、聞こえないふりをされるかも知れないのだ。

ここらで、点数をかせいでおいた方がよさそうだ

 

☆俺は女房が卓球から帰って来る前に、お昼の準備をすることにした。

まず、腰を痛めないように腰痛ベルトをがっしりと締めなおす。

エプロンをする。

俺に一番簡単な料理はスパゲッティだ。

俺は鍋でお湯を沸かしながら、冷蔵庫の中を探す。

あまり良い材料はない。

人参とピーマン、それにウインナーソーセージを取り出した。

これをフライパンで炒めて、市販のナポリタンソースと混ぜた。

女房が帰ってくるころあいを見て、鍋にスパゲッティを入れる。

茹でた麺をフライパンのソースと混ぜ合わせる。

盛り付けをした。

庭からバジルを採ってきて適当にトッピング。

あまり、美的センスのない盛り付けだが、まあ、食べられるだろう。

ちょっと疲れた。

腰も痛い。

  

☆これだけ、料理をしておけば女房は満足して、またギックリ腰になったら、手厚く介護してくれるだろうよ。

- - - - と、まずは思う。

 

☆けれども心配事がある。

俺は人参が大好きなので、たくさん入れたけど、女房は人参が大嫌いなのだ。

女房はどう思うことやら。

 


青函連絡船全滅

2016年07月15日 | 戦争とは何か?

71年前の、7月の出来事が思い出される。

昭和20年7月14日と15日、米軍機による函館空襲。

青函連絡船12隻は全滅。

しかし、新聞では、1行も報道されなかった。

当時の秘密保護法のためか。

この時の映像と思われるものを、アメリカの動画で見つけた。

 

 

参考:ボクの見た戦中戦後(1) 【花火で米軍機を撃ち落とせ!! 函館空襲】

 http://blog.goo.ne.jp/suketsune/e/0e4079ae792a78811cb87aeb49865dc8

 


ギックリ腰日記(5)

2016年07月14日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(5)

     7月13日(水)

☆ギックリ腰11日目。

今日は宇都宮で歌舞伎がある。

チケットはすでに2枚買ってある。

今さらキャンセルするのはもったいない。

痛さをこらえて宇都宮に行くことにした。

駅構内はエレベーター、エスカレーターの移動だから、階段を一段も踏むことはないから楽に移動できた。

宇都宮駅からバスに乗る。

ステップの上り降りに苦労する。

バス停から会場までは200m程だ。

歩道は平らではない。

歩道の右端と左端では高さが違うのだ。

歪んでいる歩道は歩きにくい。

つまずかないように地面を見ながら一歩一歩前に進む。

杖に寄りかかりながら歩くので腕が痛い。

左の膝が痛む。

歩くのがつらくなってきた。

やっと、総合文化センター前に着いた。

いつもなら階段を上がるのだが、今日は少し遠回りしてスロープを進み、玄関へたどり着いた。

俺と同じように杖をついている爺さん婆さんたちが目に付く。

この会場にはエレベーターがない。

スロープもない。

急な階段を杖で身体を支え、手すりに手をかけながら降りる。

メインホールの客席に行くには、身体の不自由な人にはきつい。

 

☆客席に腰を下ろした。

市川染五郎が登場し、挨拶。

歌舞伎の内容を分かりやすく説明。

最後に、ケイタイの電源を切るようにと、客席へ呼び掛けた。

すると、けたたましくケイタイが鳴った。

非常識な人がいるものだと思いきや、染五郎はポケットからケイタイを取り出して、「あっ!電源を切るのを忘れていた!」と。

会場は爆笑。

華やかな歌舞伎を楽しむ。

痛さをこらえても、来てよかったと思う。

 

☆帰りのバスで宇都宮駅に到着。

駅のお店で餃子を食べる。

宇都宮ではこれが楽しみだ。

 

☆帰りの電車は宇都宮駅始発。

ホームで若者たちに交じって並び、やっと席を確保。

もう少しで、若者に席を取られるところだった。

女房と離れた席になった。

優先席はすぐに若者たちに占領されてしまった。

 

☆杖をついていた右腕が痛む。

 整体で足腰のマッサージをしてきたが、今度は腕のマッサージか。(>_<)


ギックリ腰日記(4)

2016年07月13日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(4)

     7月12日(火) 

ギックリ腰10日目

昨日、借りていた車椅子を返した。

杖に頼っているが歩けるようになった。

今日は調子が良い。

友人が心臓の手術をしたので、お見舞いに出かけた。

ギックリ腰後、初めての外出だ。

まだ、足に力がないから、クルマの運転でブレーキを踏む自信がない。

運転は女房に頼んだ。

 

☆病室で友人に会う。

心臓の手術に7時間も耐えたという。

その後、肺気腫を併発して治療中というが、至って元気だ。

病院内をスタスタ歩いている。

一方、俺は杖をつきながら、ヨタヨタ歩いた。

彼は腰かけているベッドから、わけなく立ち上がる。

しかし、俺は椅子から杖で身体を支え、やっとのことで立ち上がった。

どちらが病人なのか分からない?

 


宇都宮空襲 *ボクの見た戦中戦後(30)

2016年07月12日 | ボクの見た戦中戦後

☆昭和20年7月12日深夜、宇都宮空襲。

暗闇の中の焼夷弾攻撃で街は火の海になった。

人々は逃げまどった。

死者620名、負傷者1,128名。

全焼住宅11,008戸、半焼住宅610戸。

罹災者51,556名、罹災世帯10,503世帯。

 

これほどの大被害なのに、軍の幹部は次のように発表した。

いわゆる大本営発表だ。

【東部軍管区司令部發表(昭和二十年七月十三日十一時)
一、 昨七月十二日二十三時頃より約三時間に亘りB29約百四十機は単機又は少數機の編隊を以て管区内に分散來襲し一部の中小都市に對し主として焼夷弾攻撃を加へたり 
二、 右攻撃に依り宇都宮市附近並に京浜地區の一部に火災發生せるも十三日未明までに概ね鎭火せり】

 

「一部に火災發生せるも十三日未明までに概ね鎭火せり」では被害の状況は全く分からず、鎮火という言葉で被害は少ないように受け取られる。

 

☆ボクは昭和32年の春、宇都宮市に移住した。

宇都宮駅に降りて驚いたことがあった。

当時の駅は、空襲の被害に遭い、急きょ建てたのであろうか、粗末な駅舎であった。

駅のトイレも非常に粗末な造りで、強烈な悪臭を放っていた。

駅前には焼けた跡地があり、天井が焼け落ちた大谷石の蔵がいくつか残っていた。

大谷石は火災に強いが、天井部分は木材が使われていたので、焼け落ちたのだろう。

焼け跡に残る大谷石の蔵は異様に感じられた。

戦前はきれいな水が流れ、舟祭りが行なわれていたという駅前の田川は、生活排水でどぶ川になり、川辺の道を歩くと悪臭が鼻をついた。

 

☆ボクは田川の近くに住んでいて、焼夷弾から逃れた人に、空襲の恐ろしさを聞いた。

火に囲まれ、逃げ場を失った人々は、田川に飛び込んだ。

田川は火災から逃れようとした人々で、いっぱいになった。

近所のお爺さんは着物に火が付いたので田川に飛び込んだが、背中に大やけどした。

市街地の中心部であるJRの宇都宮駅から東武宇都宮駅の間は、一晩の空襲で焼け野が原になったということだった。

 

☆県庁の後ろには八幡山公園がある。

小高い山の公園を散策していたとき、防空壕の跡を見つけた。

4・5人の友達で中に入ってみると、かなり長いトンネルのようだった。

そして、中には人が住んでいるのに驚いた。

あとで聞いた事であるが、敗戦の色が濃くなった昭和20年6月から、八幡山に地下壕を掘って、軍の司令部を置く計画だったという。

旧陸軍では、本土決戦に備えて、東京から離れた宇都宮の山の中に、地下司令部を建設していたのだ。

どれだけ長いトンネルと地下室が造られたのであろうか。

資料によれば、全長721mの地下壕という。

この地下壕の中から、兵隊たちに敵兵の上陸を阻止するよう命令するつもりだったのか。

対抗できる武器があったのだろうか。

民間人には、ボクの母親が訓練を受けていたように、竹やりでの突撃を命令するつもりだったのか。

ボクの母親は函館の海岸から上陸してくる敵兵に、竹やりで突撃する訓練を受けていたのだった。

突撃を命令する軍の幹部は、最も安全な地下壕の中にいるのだ。

想像すれば、恐ろしくなる。

 

☆今は、宇都宮の街を歩いても、どこにも戦争の傷跡は見られない。

そして、宇都宮市が空襲に遭ったことさえ、忘れられてしまったようだ。

 

   宇都宮空襲展のお知らせ 

会期:7月16日~24日(2016年) 

会場:宇都宮市オリオンACぷらざ

参考;とちぎ炎の記憶 宇都宮市の空襲

http://tsensai.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2-%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%81%8E%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2/

 


ギックリ腰日記(3)

2016年07月10日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(3)

     7月5日(火)

☆ギックリ腰、3日目。

女房のクルマで、整体へ行った。

整体師は腰の筋肉の硬くなっているところを、もみほぐした。

腰の筋肉は足とつながっているので、足の筋肉も、もみほぐした方がよいという。

だいぶ、痛みがとれた。

 

☆家の中を車椅子で歩く。

寝室、台所、居間、トイレなどには、車椅子で入れるのだが、ただ一つ入れない部屋がある。

俺専用の部屋だ。

パソコンの作業をする部屋だ。

本棚を広く備えるため、入り口のドアが狭く作られている。

車椅子は通れないのだ。

しばらく、パソコンはお休みだ。(>_<)

 

☆疲れやすくなった。

ベッドに寝ころびながら、ラジオを聞いている。

起き上がるときは、女房に手伝ってもらわなければ出来ない。

女房の首の後ろに腕をまわし、身体を起こしてもらう。

そして、ベッドに腰かける。

起き上がるだけの筋力が、腰の捻挫で無くなってしまったのだ。

腰かけるまでの動作や、横になってから、ベッドの中央へ移動するのが、大変な苦労だ。

女房は介護の講習を受けたことがあるので、俺の身体の移動させるコツを覚えているので、大いに助かる。

今、我が家は老々介護だ。

 

☆ベッドに横たわりながら、これが逆の立場だったらどうしようかと考える。

女房が歩けなくなったら、俺が介護しなければならないのだ。

俺は、介護のコツを知らない。

第一、 女房の身体を持ち上げるなんて、到底できるものではない。

寝ている身体を起こして、ベッドに座らせることさえ、無理だ。

女房の体重を支えると、俺はまた、ギックリ腰になってしまう。

そうなれば、二人とも倒れたままだ。

どうしたらよいだろうかと、悩む。

女房が、もっと軽ければ、何とかなるのだがなあ?

 

あることが、ひらめいた。

女房よ! 

もっと、ダイエットしておくれ!

 無理だよ! 無理! 無理! 

 


ギックリ腰日記(2)

2016年07月09日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(2)

     7月4日(月)

☆ギックリ腰は今までに何度も経験したが、今度のは、今までで一番ひどいようだ。

女房に手伝ってもらって、ベッドから身体を起こす。

座るだけで腰に激痛が走る。

左右、二本の杖に、しがみつきながら立ち上がる。

自分の身体を支えるのにこんなに苦労するのか。

左右の杖に身体を支えながら、ゆっくりと、一歩一歩、歩くのが精いっぱいだ。

 

☆女房に頼んで、社会福祉協会から、車椅子を借りてきてもらった。

車椅子の前方をベッドの横につける。

ベッドから二本の杖に力を入れて立ち上がり、身体の向きを変えて車椅子へ座る。

そして、足先をフットサポートに乗せようとするが、足が上がらない。

腰がやられると、足先さえ上げることが出来なくなるのだ。

女房に手伝ってもらって、足をフットサポートに乗せてもらった。

車椅子のハンドリムを回しながら前進、後退、回転の練習をした。

これは簡単に出来た。

寝室から台所を通り、廊下に出て、トイレに向かった。

車椅子を操作してドアを自分で開けた。

前進すると、トイレの便器に突き当たる。

車椅子全体がトイレに収まった。

しかし、自動で開くはずの便座の蓋が開かない。

車椅子の肘掛けを両腕で支えながら立ち上がる。

すると、センサーに反応して蓋が開いた。

低姿勢だと、センサーが反応しないのだ。

 

☆便座から立ち上がろうとしても、立つことが出来ない。

身体障がい者用のトイレにあるような、手すりを付けておけばよかったと反省。

立ち上がることが出来ないので、しばし、考える。

思い切って、前にある車椅子に倒れ込むようにして肘掛けをつかんだ。

そして、立ち上がった。

もし、ブレーキをかけておかなかったら、転んでいたはずだ。

 

☆女房のクルマで外科医へ行った。

診察していただいたら、特に治療することはないという。

ただ、シップで冷やして、一日に2回、痛め止めの薬を飲むだけである。

立ち上がると、左膝が痛い。

身体を支えるのに負担がかかったのか?

レントゲンを撮ると、変形性膝関節症になっているが、軽いので治療の必要はないとのこと。

 

☆歩けない身体になって、ふと、戦時中のことが浮かんだ。

中学校の時、戦地から復員してきた先生から、大砲を分解して行軍した話を聞いた。

余りの重さに苦痛だったこと。

俺は若いころから腰が弱かったから、大砲などを、担がされたら、腰が砕けたろうと思う。

ギックリ腰で歩けなくなり、仲間の兵隊たちに、おいていかれたろうなあ。

それに、先日、テレビでインパール作戦に従軍して、生き残った元兵隊から、白骨街道の話を聞いた。

命令を受けて前進するも、食料不足と病気のため、兵は次々と倒れていく。

歩けなくなった兵隊は置きざれにされ、捕虜になる前に自決せよと上官に命令され、自決用の手榴弾を渡される。

重い大砲などの武器や、食料を担がされ、ギックリ腰になった兵隊もいた事だろう。

やがて、作戦に失敗し、後退する兵隊たちの足元には、白骨が散らばっていたという。

生き残りの兵隊たちは、この道を白骨街道と呼んだそうだ。

 

☆もし、戦時中に、俺に赤紙が来ていたとしたら、戦う前に、ギックリ腰で捨てられていたろうなあ。

あれから70年、日本が戦争に巻き込まれなくてよかったなあ。

世界中が平和になりますようにと、ギックリ腰の俺の願いだ。

 

テレビでは選挙のことが放映されている。

戦争を知らない政治家が戦争を論じている。

 

☆戦争を起こさない国になることを願う。

 


ギックリ腰日記(1)

2016年07月07日 | ギックリ腰

ギックリ腰日記(1)

     7月3日(日)

☆外は小雨、肌寒い。

俺は自分の部屋で書類を整理していた。

キャスター付きの腰掛に座ったまま、後ろの書類を取ろうとして体をひねった瞬間、腰が「ギクッ!」と音を立てた。

猛烈な痛さが走る。

ギックリ腰だ。また、やってしまった。

ベッドまで、どうにか歩いて横になろうとした。

ベッドに腰を下ろすと、身体を支えることができず、腰が強烈に痛い。

横になって、中央に寝ようとしても身体が動かない。

女房に手伝ってもらって、身体をベットの中央へ転がしてもらった。

枕元にホイッスルを置いてもらった。

非常用に用意してあるものだ。

女房を呼ぶときには、ホイッスルを吹くと約束した。

 

☆トイレに行きたくなった。

一人では起きあがることができない。

ギックリ腰のときは、上半身を支えることが出来ないのだ。

俺は女房を呼ぼうとして、ホイッスルを吹いた。

しかし、女房はテレビに夢中になっているようで、返事がない。

窓の外から、子供たちの遊ぶ声が聞こえる。

俺は何度も何度も、ホイッスルを吹いたが反応がない。

俺のホイッスルは聞こえていないようだ。

俺はベッドのそばに置いてある杖で壁をたたいた。

 

☆女房がきた。

ホイッスルの音らしいものが聞こえたが、子供たちが遊んでいる声と思ったという。

この言葉に思い当たることがあった。

年を取ると、低音が聞こえても、ピアノの右端の高い音が聞こえにくくなるそうだ。

老人性難聴と言っていた。

老人になると、かん高い音は聞き取りにくくなるが、低い音はよく聞こえるそうである。

だから、若夫婦がふすまの陰で、ぼそぼそと低い声で話していると聞こえてしまうという。

特に姑の悪口は、よく聞こえるそうだ。

 

☆ホイッスルの音はかん高い。

だから、女房には聞こえなかったのか。

老人世帯では、緊急時にホイッスルを吹いても、あまり役にたたないようだ。

万一、トイレで倒れたときのために、トイレの壁にもホイッスルを下げておいてあるが、これも役にたたなくなったようだ。

そこで、女房を呼ぶときは、何で音を立てればよいのかと考えた。

低音を出すものがよい。

 そこで、ひらめいたものがあった。

低音の出るものがよい。

太鼓なら低音だ。

これなら、女房にも聞こえるはずだ。

忠臣蔵で、大石内蔵助が打ち鳴らしたという、

陣太鼓 だ。

(2016-07-07)


ダイエット中の女房へ、 とち餅の土産

2016年07月02日 | 俺の女房は- - -

☆昨日は宇都宮市の街中を、ぶらぶら歩き。
      (栃木県総合文化センターの看板)

総合文化センターへ立ち寄り、絵画展を観る。

霧がかかった森の中で大木ががっしりと根を張っている絵に感動。

木の肌や曲がりくねった根の描き方に見とれ、しばらく眺めてきた。

それから、文化センター前の栃の木並木をゆっくり歩く。

涼しげな緑だ。

☆続いて、オリオン通りを歩く。

付近のお店が浮き沈みしている中で、乾物屋は昔と変わらず営業。

☆それから、東武デパートへ。

江戸切子のグラスを眺めていたら、店員さんが説明を始めた。

買うつもりがないのことを話したが、丁寧に説明を続ける。

気の毒だなあ。

俺の身なりを見れば、財布がペチャンコなことは分かるだろうに。

買わないことが分かっていても、客に親切なんだなあ。

☆デパートのレストランへ入った。

「昭和の洋食メニュー」という中に、ナポリタンスパゲッティがある。

俺はこれを頼んだ。

俺が初めてスパゲッティというものを食べたのは、1970年、東京で

のことだ。

学生たちが70年安保闘争をしていたり、三島由紀夫が割腹自殺をした年だから、よく覚えている。

その時はタバスコをかけすぎて、辛さに驚いたが、上司と一緒だったので顔をゆがめることもできずに、がまんして麺を飲み込んだよ。

そしたら、額から汗が噴き出て困ってしまった。

そんな思い出があるので、スパゲッティナポリタンを注文した。

スパゲッティの上に目玉焼きとウインナーがのっている。

☆食べてみた。

粉チーズが入っているようだ。

ベーコン、ピーマン、パセリなども入っている。

俺は今まで、料理は黙って口へ入れていたが、少しばかり料理の勉強を始めたら、材料を気にするようになってしまった。

だから、今まで黙って食べていたのに、スパゲッティといえども、何を使っているか気になるようになってしまったのだ。

女房の作る料理は、まずくとも黙って食べてきたから、家庭は平和だった。

けれど、料理の勉強をするようになってから、味にうるさくなり、まずいものはまずいと正直に言ったことがある。

そしたら、不穏な空気が流れた。

俺は正直者だからなあ。

その後は、まずいものはまずいと胸に留めておくことにした。

女房の前では、まずいとは口に出さないように気を付けるのだ。

デパートのスパゲッティはまあまあの味だった。

☆帰りに宇都宮駅で女房に土産を買った。

「とち餅」10個入り1箱。

名前からして、トチの実が入っているのだろう。

家へ着いた。女房へ土産を渡した。

しかし、女房は喜ばない。

変だなあ!

聞けば、俺の留守中に保健センターで健康指導を受けてきたという。

そこで指導されたことは、【間食厳禁、ダイエットせよ】だそうだ。

それなのに、俺がとち餅を買ってきた。

食べてはいけないのに、土産を買ってきたので、俺に悪いから、止むを得ず食べなければならないというのだ。

「せっかく土産を買ってきたのに、食べないと悪いから、1個だけいただく」と言う。

そこで二人でお茶タイム。

女房は1個だけ食べた。

俺は続けて3個も食べた。

俺につられて、2つ目に手を出すだろうと思ったのに、女房は食べたそうだが我慢をしている。

なにしろ、保健師さんから、【間食厳禁、ダイエットせよ】と、指導を受けたばかりだろうからなあ。

女房は、あとは食べないと言うのだが、俺は信じない。

少なくとも3個は食べるであろうと思うのだ。

あしたから、箱の中をのぞいてみよう。

何個減っているか調べるのが楽しみ。