庭に咲いている 大文字草 です。
(お詫び) 植木鉢に「イワウチワ」の名札が誤って差し込まれていました。確認せずに「イワウチワ」とブログにあげましたら、読者から「大文字草」と指摘がありました。訂正し、再提示いたしました。ご了承ください。
2015-10-30
庭に咲いている 大文字草 です。
(お詫び) 植木鉢に「イワウチワ」の名札が誤って差し込まれていました。確認せずに「イワウチワ」とブログにあげましたら、読者から「大文字草」と指摘がありました。訂正し、再提示いたしました。ご了承ください。
2015-10-30
男の料理教室で ヘルシークッキング
今回の男の料理教室は、ヘルシークッキング。
健康診断でメタボ、メタボと言われてきた俺だから、喜んで参加した。
今日はわずか一時間で、4種類の料理を作るという。
まずは、コンニャクの生姜焼き。
コンニャクは胃腸をするっと通り抜けるだけだから、ヘルシーなのだ。
二つ目はコールスロー。
聞いたことのない名前の料理だが、ニンジン、玉ねぎ、キャベツを千切りしたものにドレッシングをかけるだけだ。 野菜サラダと同じではないか?
三つ目はサトイモの煮物、四つ目は、かにと豆腐のかきソース煮。
これも、ヘルシーなのかなあ?
数が多いので、俺は緊張感を持って先生の説明を聞いた。
4種類もの作り方を1度に聞くのだから、俺の頭から聞いたばかりのことが、するっ、するっと落ちてしまうではないか。
だから俺は一つだけ、しっかり覚えようとした。
コンニャクの生姜焼きだ。
コンニャクを1.5センチぐらいの厚さに切る。 これに豚肉を巻きつけるのだ。 つるつるすべって巻きにくいのだ。 コンニャクに細長い肉をテイネイニ、テイネイニ巻いていく。 そして、小麦粉にまぶす。 これをフライパンで焼く。
先生は大さじで三つ入れてといいながら、鍋に直接ビンから醤油をドボッと入れた。 計量スプーンを使わないのだ。 さすがは先生だ。
そういえば、俺の女房も計量スプーンを使ったことがないなあ。 その点は先生と同じだ。
先生は酒を200ccと言いなががら、まず、1合カップで一つ鍋に入れた。 それから、あと20ccと言って、カップに適当に酒を入れ、鍋に移した。
しかし、俺がカップをじっと見ていたら、40ccくらい入っていたなあ。 いいかげんだなあ。
四つの料理が出来たので、ご飯でいただくことにした。
いつものように、調理台をテーブルにして食べるのだ。
まず、俺は俺の作った「コンニャクの生姜焼き」を食べることにした。
箸でつまんだ。 そして眺める。 コンニャクが豚肉で巻かれ、美味しそうだ。
俺はうれしくなって、口へ入れようとしたとき、悲劇がおきた。
コンニャクが豚肉からするっとすべり落ちてしまったのだ。 調理台の上なら良いのだが、床に落ちたのだ。 くるくるまるまった豚肉だけが箸に残った。
残念! ヘルシーなコンニャクが食べられない!
俺の分のコンニャクの生姜焼きは、もう一つある。 俺は今度は落とすまいとして、テイネイニ、テイネイニ箸でつまんだ。
そして、緊張感を持って、口元へ運ぶ。
あれっ!! 誰かさんの口ぐせが俺に移ったようだ。
やれやれ、料理は気持ちまで疲れるなあ!
自治会のバスツアーで日光・霧降の滝へ行った。
初めてここを訪れたのは50年以上も前のことだ。 当時は階段がなく、崩れるようながれ場を滑るように歩いて、滝つぼへ降りた。 滝のしぶきが霧のようにかかっていたから、霧降の滝と呼ぶのだろうと納得していた。 その後、数度おとずれた時は道が整備され、階段があった。 しかし、今回は滝つぼに降りる道は危険なので閉鎖されていた 。観ばく台から眺めるのは今回が初めてである。
観ばく台へ続く苔むした石垣の道は、おもむきがある。
2015-10-22
【飢えとマラリアのニューギニア】
私は「若者から若者への手紙」の中で、塚原さんの戦争体験談を読んだ。
1945年に若者であった塚原さんは、2015年の若者たちへ戦争の体験を語る。
1944年4月ニューギニアに上陸させられた塚原さんは、戦後になって初めて上層部にだまされていたことを知った。 制空権、制海権も失った状態で戦地へ送られていたのだ。 捨石にされていたのだ。
塚原さんは今の若い人たちに、戦争することで、だまされてほしくないと願う。
彼が食糧補給のない戦地で見た光景は地獄だ。 人が人を食う地獄だ。 飢餓状態で人は畜生におちていく。
===== 塚原さんの戦争体験の一部を引用 =====
戦争で私は、東部ニューギニアへ行きました。 われわれ高崎の歩兵一一五連隊では、七千人のうち、生きて帰れたのは、わずか二百三十名ほどでした。(東部ニューギニアに配属された約十五万人の日本兵のうち、約十三万人が死亡したとされる)
ニューギニアで亡くなった人の死因は、ほとんどマラリアか餓死でした。 日本からの食べ物の補給なんて、一度もなかったですよ。 戦場といってもほとんど戦いなんてなかったです。 ただ飢え、さまよって死んでいったんです。
ニューギニアでは、飢えた日本兵が人間を食った話もあった。 上官の肉を食べたのを見つかり、銃殺刑に処せられた部下もいましたし、食べた後で後悔して自ら命を絶った者もいました。 人間は万物の(霊)長と言うけれど、最後は動物、畜生です。 私もひもじくて何度も畜生になりかけたから、彼らの気持ちはわかります。もうがまんできない、という時には、ただひたすら母親の戒名を唱えて誘惑に耐えました。
私には「当番兵」の部下が二人いて、最後は三人で力を合わせてやっとの思いで生き延びました。 一人が食べ物を見つけたらみんなで分けるんです。 独り占めしたら、次には自分も同じ目にあう。 そうなると生きていけないわけです。 そんな中で会得したのが「調和の精神」でした。 つまり、おれは将校だ、上官だといばるやつは食べ物を分けてもらえずに飢え死にするんです。
そんな中で奇跡的に生きて帰れたのは、調和の精神で心を一つに支えあった仲間たちのおかげです。 まあ、あんな時代の話なんて、今の人にわかってもらえまい、と思います。
捨て石にされて、ニューギニアで飢えてさまよい、亡くなった仲間たちは本当に犬死にです。名誉の戦死なんかじゃないんですよ。
======================================
天明の大飢饉の資料を読んだことがある。 そこには、飢餓状態での人食いが行われたことが書かれていた。
食糧補給のない戦地で、兵隊はどう生き延びたのであろうか。 かつて私は人肉を食べた話を聞いたことがある。 部隊から離れ孤立した兵は、別の部隊の日本兵から食料として狙われると。
私は、実験用にマウスを飼っていたことがある。 数匹を一緒にゲージで飼っていた。 元気がなくなってきたマウスは、翌朝のぞくと姿を消していた。 しっぽだけ残っているのだ。 弱ったマウスは同種のマウスの餌食になったのだ。
戦場では人もマウスと同じ畜生になるのか。
リンク:若者から若者への手紙(1)
結婚して子供ができてからだよ。
自分がやったことを、心から悔いたのは
(引用した本)
「若者から若者への手紙 1945←2015」
2015年7月10日初版発行
聞き書き:室田元美 北川直美
写真:落合百合子
編集:北川直美
発行:ころから
定価:1,800円+税
福祉祭りに出かけた。
聴覚障害者、手話クラブ、知的障害者たちの店が並ぶ。
聴覚障害者の店で、コンニャクのおでんを買って食べ歩く。
次は手話クラブの店で、けんちんうどんの食事。
それから、知的障害者が焼いたクッキーをみやげに買った。
障害を乗り越えて、よく頑張っているなあ。
手助けしている人たちに感謝。
2015-10-18
「ホタテのソテー サラダ仕立て」
俺は女房に言った。
今夜は俺がおかずを作るから、みそ汁とご飯だけ用意してくれと。
俺は「ホタテのソテー、サラダ仕立て」という料理を作るのだ。
初耳の料理だ。 なんとなくフランス料理みたいな名前だなあ。
録画しておいた料理番組を繰り返し見て、要領を得る。
さらに、テキストを読む。
そして、ホタテ、玉ねぎ、ベビーリーフなどの食材を用意した。
玉ねぎを切る前に、と石で包丁をといだ。
包丁の切れ味が良いと、玉ねぎが目にしみないことを、昔、本で読んだことを思い出したからだ。
玉ねぎを薄くスライスし、ベビーリーフと一緒に水にさらす。
むき身のホタテを7個、用意してある。
ホタテを横に二つに切った。
オリーブオイル、酢、塩、こしょうでドレッシングを作った。
フレンチドレッシングというそうだ。
オリーブオイルはエクストラヴァージンという、名前だけでも高級そうなものを使った。
フライパンでホタテをサッと炒めた。 レアの感じだ。
水を切った玉ねぎとベビーリーフをお皿に分け、ホタテを並べる。
これに、フレンチドレッシングをかけて出来上がり。
見た感じは、フランス料理の前菜のようだ。
さて、食べよう。
このあいだ、ブリ大根を作ったときは酒がなかったが、今度はあるのだ。
飲みながら食べると美味しいだろうなあと、ほほえむ。
俺はにっこりして、二つのグラスにワインをそそいだ。
「乾杯」と、またにっこり。
まず、ベビーリーフを食べる。
今まで、買ったことも食べたこともなかったベビーリーフというものは美味しい。
何しろ、たった40グラムで200円もした食材なのだ。
ドレッシングもまろやかな味だ。
高級なオリーブオイルを使ったからなあ。
次にホタテを口に入れた。
アレッ! しまりのない味だ! 期待はずれだ!
にっこりが、しぶい顔に変身。
テキストを読み返した。
すると、ホタテを炒める前に塩コショウをふるとある。
忘れていたのだ。
俺はサラダとみそ汁でワインを飲んだ。
なんだか、ものたりない。
このサラダはフランス料理用ではないか?
みそ汁より、スープが合いそうだ。
メシよりもパンとステーキが良い。
俺が作ったのは、フランス料理の前菜だけだったのだ。
俺は女房にみそ汁とご飯だけ頼んだのだから、今さらスープとは言えない。
まして、ステーキなどとは言えたもんじゃない。
やれやれ、料理はくたびれるなあ!
10月16日(金)
病院の帰りに、爺と婆はデパートのフードガーデンで食事をした。
口に入らないほどの大きなサンドイッチだ。
最初にこの店に来た時は食べ方が分からず、パンをちぎりながら食べた。
隣のテーブルの若い子が食べているのを観察したら、口に入るくらいの大きさに押しつぶしながら食べているのだ。
今日は二度目だ。 若い子のマナーをまねて食べることにした。
爺はターキーベーコンエッグ、490円なり。
婆は同じ値段に合わせてか、えびアボガド。
それにコーヒーを頼んだ。
大きなサンドイッチを押しつぶしながら食べた。
爺はマクドナルドのハンバーガーを食べたことがない。
あの大きな口を開けて食べているポスターを見ると、恐れをなすからだ。
隣のコーナーはラスク屋さんだ。
菓子パンやケーキなども売っている。
そこから、大きな声が聞こえた。
「試食できるよ~!」と、大きな声で叫ぶおばさん。
少し離れたところにいた男子中学生は、
あわてて逃げて行った。
あのおばさん、爺が見ているだけで、三回も口にいれたなあ。
でも、買わずに行ったよ。
「若者から若者への手紙 1945←2015」を読んだ。
1945年に若者であった人の戦争体験談が語られる。これに対して現代の若者が手紙を書いた本である。
1945年、私は国民学校2年生だった。戦争を体験したし、青年になった頃、先輩たちから戦場での様子を聞いたことがある。
民間人を木に縛り、銃剣で刺し殺したことや、後ろ手に縛って座らせ、軍刀で首を刎ねた話なども聞いた。
若者から若者への手紙の中から、残酷なことを告白した金子さんの体験談の一部を抜粋し、書き留めたい。
==========
「結婚して子どもができてからだよ。自分がやったことを、心から悔いたのは」と日中戦争で徴兵された金子さんは語る。
ある日、初年兵が集められた。林の中で、中国人の農民が数人、木に縛りつけられている。逃げ遅れて捕まったんでしょう。私たち初年兵は、十メートルほど離れたところから縦に列を作らされた。古い兵隊が「いいか。号令で走って行って、あの農民を殺せ!」。 刺突訓練という人殺しの訓練なんです。 一番、二番、三番、と走って行って、私は四番目だった。 銃剣を構えて「やぁーっ!」と走った。
ところが人を殺すのは、こんな怖いことはない。 私は子どもの頃は相当悪ガキだったが、そんなものじゃない。相手は目隠しもされずに木に縛りつけられて、すごい目でこっちを睨んでいるからね。力が入らなくて手が滑っちゃう。
私たちは夜中じゅうを攻撃した。 朝がたには掃討を始めて、私と古い兵隊は二人で一軒の家屋に入った。 最初は暗くて何も見えなかったが、目が慣れると奥の方に女の人が一人、四歳ぐらいの男の子を抱いてじっとしているのが見えた。 古い兵隊が「金子、ガキを連れて外に出ろ。おれが終わったら交代するから」。 私は泣く子を連れて表に出た。 女の人の悲鳴が聞こえて、古い兵隊が女の人の髪の毛をつかんで家から出てきた。 抵抗されて怒ってね。 「このアマ、ふざけたやつだ」と、にあった深い井戸の前に連れていった。「金子、おまえ足を持て」。 私たちは一、二の三で女の人を深い井戸の中にぶちこんだ。子どもは母親が井戸の中に入ったもんだから「マーマー」と泣きながら井戸の周りを回って、どこからか台を持ってきてね。よじ登って自分から井戸に飛び込んでしまった。
私は戦犯管理署で自分の罪を認めるようになった。だけどね、本当に自分が中国でとんでもないことをしたとわかったのは、ずっとあと、結婚して子どもたちが生まれてからだね。 娘が病気した時に私、病院に見舞いに行ったんだね。 そしたら娘が私の顔見て、にこーと笑ってね。 ああ、いい笑顔だった。 その時、殺された母親を追って井戸に飛び込んだ、あの子どものことを思い出して、申し訳ないと心から思った。 育っていく子どもたちを見ながら、生活の中で、戦争だけはいかんという私の気持ちも、だんだん固まってきたんだよ。
ばかみたいなもんだよ、兵隊は。 やれって言われれば殺しでもなんでもやんなくちゃなんない。 死ねって言われたら死ななくちゃなんない。 何の権利もないの。 消耗品だよ。 兵隊は人間であって人間じゃないんだよ。
だから私はみんなを不幸にする軍隊なんかいらない、戦争はしちゃいかん、と言い続ける。 銃を持たんでも戦争を防ぐことはできる。 本当は、それが立派な愛国心だと思うよ。
==========
私は国民学校(小学校)のとき、校庭で兵隊が銃剣で突撃する訓練を見ていた。 背丈ほどの杭を2本、肩幅に立てて、それに縄をまいて、人がたを作る。 銃の先に剣を取り付けた兵隊が、「ヤーッ!」と叫びながら突進し、人がたを突き刺すのだ。 5・6年生の子供たちも、学校の先生から銃剣の代わりに木銃で訓練を受けていた。 戦時中は、わずか10歳の子供たちも、人殺しの訓練を受けていたのだ。
銃剣を向けた先にはだれがいたのか? 機関銃や戦車砲で向かってくる敵兵なのか? 銃剣で倒せた人は無抵抗の民間人ではなかったのか!
「若者から若者への手紙 1945←2015」
2015年7月10日初版発行
聞き書き:室田元美 北川直美
写真:落合百合子
編集:北川直美
発行:ころから
定価:1,800円+税
公民館を利用している人たちの発表会が開かれました。
パッチワーク、さをり織り、日光彫などの作品や、太極拳、
ダンスなどが披露されました。
パッチワーク教室
さをり織り
日光彫
書
太極拳
フォークダンス
空手
2015-10-11
NHKテレビ、今日の料理ビギナーズで、ブリと大根の煮物の作り方を学んだ。
俺は女房に、スーパーでブリを買ってきてくれと頼んだ。
女房はお酒を切らしているから、買ってこようかと、俺に尋ねた。
しかし俺は、酒があれば飲みたくなるし、無ければないで我慢できるから、買ってこなくてもよいと、ことわった。
健康のために、一週間や十日ほど、酒なしで過ごすと見えを張ったのだ。
大根は家にあるのを使うことにした。
どんぶりに醤油、酒、みりん、砂糖などの調味料を入れて、まぜ合わせた。
これをフライパンに移して、ブリを煮詰める。
煮汁をスプーンですくっては、ブリにかけた。
すると、ブリの色が変わっていく。
それから、大根を煮詰めるのだが、ここが普通と違う。
大根は包丁で切るのではない。 ピーラーで薄く削るのだ。
こうすることで、煮詰める時間を短くすることが出来るとのことだ。
大根が柔らかくなるまで煮詰めるのだが、そのあいだ、煮えたかどうか調べるため、何度も試しに食べてみた。
料理のおばさんはピーラーで薄く削るから、早く煮えると言っていたが、なかなか柔らかくならない。
煮込んでいるうちに、煮汁が少なくなってきた。
フライパンが焦げるのではないかと心配になったころ、やっと大根が柔らかくなったのだ。
ブリと大根をお皿によそった。
美味しそうだ、見ているだけでも楽しい。
俺は酒を飲みながら食べると、最高に美味しいだろうと思った。
しかし、酒を切らしているのだ。
念のため、戸棚を開けて酒を探したが見当たらない。
日本酒もない。 ワインもない。 ビールもない。
酒と名のつくものは、小ビンの料理酒だけだ。
美味しい物を口に入れるときは、まず、アルコールで口の中を清めると良いのだ。
舌を洗うのだ。 すると、味覚がさえてくるのだ。
一口ごとに酒で舌を洗いながら食べると最高なのだ。
残念だが、酒なしで食べることにした。
俺はコップに水をそそいだ。
酒の代わりに、水道水で舌を洗いながら、ブリを味わった。
酒があれば、もっともっと美味しいだろうなあ。
女房がせっかく酒を買ってくれると言ったのに、見えを張って、ことわってしまったことを悔やむ。
残念。
軽で道路を走っていたら、歩道に倒れている人を見つけた。
ハザードランプを点滅させて緊急停車。
サイドカー付きの自転車のそばに老人倒れている。
自転車に乗っていたが、風が強いので飛ばされ、頭から道路へころがり落ちたようだ。
頭は縁石に、右足はサドルと荷台の間に引っ掛かり、片足をあげたままだ。
逆立ちの状態だ。
自転車の右横にリヤカーのようなものが付いている。
これは構造上、倒れることはない。
私はサドルに引っ掛かっている足を外してあげた。
声をかけると目を開いた。
何か言おうとしているようだが、よく聞き取れない。
すぐ、携帯で119を呼ぶ。 第一声は「救急です」と。
場所を聞かれたので、近くの歩道橋に書かれている橋名を読みあげたが分からないらしい。
近くの目印になる建物を尋ねられたが、周囲は田んぼで、目立つ建物が見当たらない。
場所をくわしく説明できないので困った。
そこへ通りがかりの若い女性が来たので、電話を変わって説明して貰った。
急ブレーキの音が聞こえたので振り向くと、私のクルマのすぐ後ろに、白い車が急停車した。
よそ見をしていたのだろうか、ハザードランプに気が付かず、私のクルマの直前で止まった。
1メートルとは離れていなかった。
危うく事故になるところだった。
危険なので、電話は女性に頼み、クルマを脇道に移動させた。
倒れた人を助けようとして、自分のクルマが事故に遭うところであった。
10分ほどして救急車が到着したので、事情を説明した。
私の住所氏名電話番号を告げて、そこを離れた。
家へ帰ったから気になったことがある。
事故の位置を知らせるのに、とまどったことだ。
たしか、携帯には位置情報が組み込まれているのではないかと。
110や119に携帯で電話した場合、GPS機能で位置情報が送信されるのではないかと。
そうすれば、救急指令所では、事故の位置がすぐ分るのではないか。
GPSで携帯の場所が分かると思っていたのは記憶違いだったかなあ?
もしかして、私の携帯にはその機能が付いていないのかなあ?
2015-10-08
さくら市ミュージアムに出かけた。
春の院展の巡回展が開かれている。
東京まで行かなくても、近くで観られるのはありがたい。
(ちらし借用)
(リンク先:さくら市ミュージアムHP)
http://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/site/sakura-museum/exhibition1.html
帰りは近くの食堂で昼食。
俺は、ざるうどんの大盛り。
地元の小麦(さとのそら)を使用したうどんだ。
女房は、みそ煮込みうどん。
絵画鑑賞も食事も満足。
2015-10-06
2015-10-02
宇都宮へ行く
宇都宮駅西口ペデストリアンデッキの餃子像。 大谷石で作られている。
宇都宮市の餃子の消費量は全国で1・2位を争っている。
ライバルは浜松市。
駅構内の店で、羽つき餃子ダブルを独りで食べる。
駅デパを散策し、東西通路へ出たら非常ベルが鳴っていた。
階下をのぞいたら消防車が数台集まってきた。
しかし、火の気は感じない。
火災報知機の前に、消防士や駅員が集まっている。
誰かがいたずらで非常ベルを押してしまったとのこと。
消防車は無駄な出動をしてしまった。
いたずらはやめてくれよ!
栃木県総合文化センターで、風間杜夫のひとり芝居、「正義の味方」を観た。
(ちらしを借用)
舞台は「大正湯」という下町の銭湯の脱衣所。
中央に番台、左右に男湯、女湯の入り口。
大正8年生まれの老人、大角卯三郎が番台にあがる。
ある日、東京大学の女子学生が95年間の人生を取材に来る。
卯三郎は波乱に満ちた生涯を語り始めた。
この芝居の中で特に印象に残った場面を思い出して書いてみた。
(記憶によるものなので正確に表現できないが)
兵役から帰ってきた昭和18年、卯三郎には恋人ができた。
結婚式を挙げようとした時、またも召集される。
帰還したら、一緒に暮らすことを夢見て、フイリッピンの戦場へ出て行く。
卯三郎は米軍機の機銃掃射で、ふとももを撃たれたが、一命をとりとめた。
敗戦後、帰国してみたら、戦死したことになっており、婚約者は別の男に嫁いで、すでに女の子が生まれていた。
卯三郎は過酷な戦場の思い出を話し始める。
*「戦友の九割は死んだ」
*「餓えで苦しんだ。 人を煮て食おうと思ったこともある」
婚約者が嫁いでいたことに落胆した卯三郎だったが、戦後の復興に精を出す。
会社を立ち上げて成功したが、バブルで倒産。
そして、「大正湯」のオーナーになる。
95歳になったが今も銭湯で働く。
女子学生の質問に応えて、卯三郎は叫んだ。
*「戦場は地獄だ。 援軍はこない。 敵は人だけじゃない。 餓えと病気だ」
*「将校は、『貴様ら、生きて帰れると思っているのか』 と、突撃の命令を出した。
みんな死んでしまった」
http://www.tomproject.com/works/seigi/index.html