太平洋戦争開戦の、日本側のニュース映画を、アメリカのユーチューブで見つけました。
Pearl Harbor Attack Seene from the Japanese Side
太平洋戦争開戦の、日本側のニュース映画を、アメリカのユーチューブで見つけました。
Pearl Harbor Attack Seene from the Japanese Side
永井隆博士と「長崎の鐘」
原爆で被爆した長崎大学の医学博士・永井隆は、妻を探しに浦賀の自宅へ戻った。
そして、焼け跡から骨の灰がまとわりついたロザリオを発見した。
ロザリオから、隠れキリシタンの末裔である妻の緑さんの遺骨と知った。
このことが「長崎の鐘」で歌われている。
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘がなる
博士は自らも被爆し、白血病になったにも関わらず、被爆者たちの救護活動を行なった。
このことを、私は中学生の時に雑誌で知った。
雑誌には博士と子供の写真が載っていた。
25年ほど前、私は博士が暮らしたという、小さな家を訪ねた。
ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルグがお見舞いにこられ、寝ておられる博士の側の椅子に腰かけられている写真が飾られてあるのを見て感動した。
私は博士のお墓参りをして彼の偉業に思いをめぐらした。
ヒロシマ・ナガサキ
8月6日、西那須野公民館で「1945年夏 ヒロシマ・ナガサキ」の朗読劇が行なわれた。
主催する「夏の会」は毎年この時期に朗読会を行ない、今回で27回目という。
原爆投下のため、地獄と化した悲惨な状況の中で、放射線を浴びながらも生き延びた人たちの体験集を6人のスタッフが読み上げる。 胸が詰まる。
峠三吉「原爆詩集」より
序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよの
あるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
=============================
先月、国連本部で核兵器禁止条約が採択された。
しかし、日本政府は唯一の被爆国にもかかわらず反対した。
反対とは国民を代表する声なのか???????
=============================
被爆者が最後に「がっかりした」と嘆いたニュース
8月6日 TBS NEWSより ⇓
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170806-00000155-jnn-soci
アメリカの動画をお借りしました。
戦前の広島の街の様子
【 Tribute to the People of Hiroshima on 6 Aug 1945 】
戦前の広島の街や人々の様子の次に、
原爆投下後の様子が映し出されます。
眼を伏せないで、しっかりと見つめてください。
核戦争とはこのようなものです。
【3.10】も 忘れないで
昭和20年(1945年)3月10日深夜0時20分
東京下町は焼夷弾による大空襲
死者8万~10万、負傷者4万~11万
単独空襲による犠牲者数は世界史上最大
両親を失った戦災孤児が大量に発生
(Wikipedia参考)
Tokyo Daikushu Song
(動画借用)
71年前の、7月の出来事が思い出される。
昭和20年7月14日と15日、米軍機による函館空襲。
青函連絡船12隻は全滅。
しかし、新聞では、1行も報道されなかった。
当時の秘密保護法のためか。
この時の映像と思われるものを、アメリカの動画で見つけた。
参考:ボクの見た戦中戦後(1) 【花火で米軍機を撃ち落とせ!! 函館空襲】
http://blog.goo.ne.jp/suketsune/e/0e4079ae792a78811cb87aeb49865dc8
太平洋に浮かぶ島、硫黄島で日本兵が玉砕したのは、1945年3月26日である。
今から71年前、硫黄島では死闘が繰り返されていた。
私の知人は硫黄島の戦闘で父親を亡くした。
父が招集されたのは彼が幼い時のことであるという。
幼い子を残し、出征する父の心は、どれほどせつなかったろうか。
知人はここ何年間も硫黄島に出かけ、遺骨の収集をしている。
爆弾や弾丸で砕けた骨、洞窟の土の中などを掘りおこしては骨を拾い集めている。
もしかして、この中に彼の父の骨もあるかもしれない。
2月19日から3月26日までの、わずか一か月間の戦いで、
双方とも多数の死傷者をだした。
日本兵の戦死者は19,900名、連合軍は6,821名
日本兵の戦傷者は1,033名、連合軍は21,865名
戦争を知らない人たちは硫黄島の戦いを想像できるだろうか。
若者たちに人気のアニメをネットで知った。
「戦争のつくりかた」
https://www.youtube.com/watch?v=cUGu73hnjdY
「戦争のことは、ほんの何人かの政府の人たちで決める
という決まりを作ります」とナレーション。
「戦争のつくりかた」には、もう27万以上のアクセスが見られた。
私はスマホのことは分からないけど、フェイスブックとかラインなどで広まっているのだろうか。
戦争を知らない若者たちが、この動画にかなりの関心を示していることに驚いた。
⇓ 上のURLと同じ動画です
*那須野が原博物館の特別展「おもいで写真館」を見た。
那須塩原市の明治から昭和30年の頃の写真が掲示されていた。
お祭りで、仮設舞台の漫才を見ている人たちの表情が面白い。
前歯がない老婦人の笑顔、口を開けて漫才を見ている人。
子どもたちの笑顔が輝く。
昭和の初め頃の写真だろうか。 まだ、平和だった時代だ。
(那須野が原博物館のポスター)
*那須野が原の開拓当時の写真からは、苦労が伝わってくる。
鉄道、自動車のなどで街が発展していく様子や、また、農繁期の託児所の写真などから、当時の生活を読み取った。
*私が最も気を引かれたのは、数人の出征兵士と彼らを見送る人たちの写真だ。
親や妻や子供たちが、出征兵士が無事に帰還できることを願って見送ったことだろう。
あの兵士たちは、親や妻や子どもたちのもとへ無事に帰れたのだろうか。
*「愛国婦人会」と、肩からたすきをかけた婦人たちが、消火用のバケツを前にした記念写真。
バケツリレーで焼夷弾の火を消す訓練を受けているのだろう。
敵の爆撃機から投下される焼夷弾炸裂の炎をバケツの水で消す訓練だ。
現実では何の効果もなかった消火訓練だ。
私は子供のころ、母親が焼夷弾を消す練習しているところを見たことがある。
役人がたわしを玄関先から家の中に投げ入れた。
模擬焼夷弾として、たわしを投げ入れたのだ。
母は、箒でたわしを叩いていた。
それから、バケツの水をかけるしぐさをした。
こんなことで、焼夷弾を消せると、役人は婦人たちを訓練していたのだ。(バカバカしい)
*鉄砲や飛行機を作るために、家庭にある金属を供出している写真があった。
家庭で使っていた鍋・釜・茶釜・鉄製の火鉢・ブリキ製のたらいなどを供出する写真。
これらを集めて、「皇軍萬歳」の幟をたてた写真。
お国のためにと、生活用品を供出したのだろう。
*私が国民学校1年生の昭和19年、飛行機を作るために子供たちのアルマイトの弁当まで供出させられた。
先生は集めた弁当を教室の後ろの方で、かなづちで叩いて平たく潰していた。
当時、5年生の姉たちは自分の弁当を、かなづちで叩き潰したという。
「鬼畜米英」と叫びながら - - - - -
特攻機一機作るのに、どれだけの子どもたちの弁当が潰されたのだろうか。
*昭和の写真を見て、戦争中のことをおもいだした。
*もう一度、漫才で笑う人々の顔を眺めた。
平和な写真だ。心がなごむ。
(那須野が原博物館のポスター)
杉原千畝スギハラチウネ
映画「杉原千畝スギハラチウネ」を観た。
ナチスに追われ、ポーランド等欧州から逃げてくる難民。
難民の多くはユダヤ系の人たちだ。
リトアニアの日本領事館へヴィザの発行を求める難民。
領事館前は日本を通過して他国へ亡命しようとする人たちで埋まる。
大日本帝国政府はヴィザの発行を許可しない。
しかし、領事館の杉原は人道的立場から大量のヴィザを発行した。
それによって命を救われた難民の数は6,000人にものぼった。
戦後、新しい日本国となったが、外務省は彼を追放した。
杉原に命を救われたユダヤの人が外務省に彼の所在を尋ねるが、そのような人はいないと返答される。
しかし、イスラエル政府はセンポと呼ばれていた千畝を探し、「諸国民の正義の人」の称号を与えた。
映画では、杉原が諜報活動を行っている場面が出る。
諜報により、ドイツがソビエトに侵攻すること、その結果、敗北することを予測。
また、日本がアメリカと戦争すれば、敗戦するであろうと予測していた。
情報を収集し、多くの人々が犠牲になる戦争を阻止しようとするが、大日本帝国は彼の考えを受け入れようとしなかった。
良い映画を観た。
今、杉原が存命ならば、日本の将来がどのようになるであろうか、尋ねたいものだ。
野阪昭如さんは12月9日
「この国に、戦前がひたひたと迫っている」
との原稿を新潮社に寄せた数時間後、亡くなりました。
ご冥福を祈ります。
【飢えとマラリアのニューギニア】
私は「若者から若者への手紙」の中で、塚原さんの戦争体験談を読んだ。
1945年に若者であった塚原さんは、2015年の若者たちへ戦争の体験を語る。
1944年4月ニューギニアに上陸させられた塚原さんは、戦後になって初めて上層部にだまされていたことを知った。 制空権、制海権も失った状態で戦地へ送られていたのだ。 捨石にされていたのだ。
塚原さんは今の若い人たちに、戦争することで、だまされてほしくないと願う。
彼が食糧補給のない戦地で見た光景は地獄だ。 人が人を食う地獄だ。 飢餓状態で人は畜生におちていく。
===== 塚原さんの戦争体験の一部を引用 =====
戦争で私は、東部ニューギニアへ行きました。 われわれ高崎の歩兵一一五連隊では、七千人のうち、生きて帰れたのは、わずか二百三十名ほどでした。(東部ニューギニアに配属された約十五万人の日本兵のうち、約十三万人が死亡したとされる)
ニューギニアで亡くなった人の死因は、ほとんどマラリアか餓死でした。 日本からの食べ物の補給なんて、一度もなかったですよ。 戦場といってもほとんど戦いなんてなかったです。 ただ飢え、さまよって死んでいったんです。
ニューギニアでは、飢えた日本兵が人間を食った話もあった。 上官の肉を食べたのを見つかり、銃殺刑に処せられた部下もいましたし、食べた後で後悔して自ら命を絶った者もいました。 人間は万物の(霊)長と言うけれど、最後は動物、畜生です。 私もひもじくて何度も畜生になりかけたから、彼らの気持ちはわかります。もうがまんできない、という時には、ただひたすら母親の戒名を唱えて誘惑に耐えました。
私には「当番兵」の部下が二人いて、最後は三人で力を合わせてやっとの思いで生き延びました。 一人が食べ物を見つけたらみんなで分けるんです。 独り占めしたら、次には自分も同じ目にあう。 そうなると生きていけないわけです。 そんな中で会得したのが「調和の精神」でした。 つまり、おれは将校だ、上官だといばるやつは食べ物を分けてもらえずに飢え死にするんです。
そんな中で奇跡的に生きて帰れたのは、調和の精神で心を一つに支えあった仲間たちのおかげです。 まあ、あんな時代の話なんて、今の人にわかってもらえまい、と思います。
捨て石にされて、ニューギニアで飢えてさまよい、亡くなった仲間たちは本当に犬死にです。名誉の戦死なんかじゃないんですよ。
======================================
天明の大飢饉の資料を読んだことがある。 そこには、飢餓状態での人食いが行われたことが書かれていた。
食糧補給のない戦地で、兵隊はどう生き延びたのであろうか。 かつて私は人肉を食べた話を聞いたことがある。 部隊から離れ孤立した兵は、別の部隊の日本兵から食料として狙われると。
私は、実験用にマウスを飼っていたことがある。 数匹を一緒にゲージで飼っていた。 元気がなくなってきたマウスは、翌朝のぞくと姿を消していた。 しっぽだけ残っているのだ。 弱ったマウスは同種のマウスの餌食になったのだ。
戦場では人もマウスと同じ畜生になるのか。
リンク:若者から若者への手紙(1)
結婚して子供ができてからだよ。
自分がやったことを、心から悔いたのは
(引用した本)
「若者から若者への手紙 1945←2015」
2015年7月10日初版発行
聞き書き:室田元美 北川直美
写真:落合百合子
編集:北川直美
発行:ころから
定価:1,800円+税