ギックリ腰の俺を女房が強制的に歩行訓練をしたので,何
とか歩けるようになった。 けれども,洗顔のために体を曲
げることはできない。 俺は食後に茶碗でお湯を飲むのが
習慣化している。 だから女房は食事が済むと黙っていて
もお湯を汲んでくれていた。 (過去形)
しかし,ギッくり腰になってからは,全く無視している。
俺が「お湯」と言っても,聞こえないふりをしているのだ。
やむを得ず,俺は痛さを堪えて立ち上がり,ポットへお湯を
汲みに行く。 これも歩行訓練とのことだ。
腰はまだ痛む。 椅子から立ち上がるのも苦痛なのだ。
俺は作戦を考えた。 ベタ褒め作戦だ。
「今日の味噌汁は昆布のダシが効いて特においしい」
「厚焼きタマゴは隙間がなく巻けているね。 柔らかくて,
甘さもちょうど良い」 「料理の腕が良い」 などと女房を褒め
称える。 このくらい褒めておけば,以前のようにお湯を汲
んでくれるだろうと,期待に胸を膨らませる。
食事が済んだ。 女房の前に茶碗をそろりと置いた。 そして,
恐る恐る女房を見上げた。 目と目が合った。 女房は虎が
獲物を狙うような鋭い眼つきをしていた。 俺は目を伏せた。
ベタ褒め作戦は失敗した。 俺はテーブルに両手をつき,
力を入れて「よいしょ」と掛け声をかけて立ち上がり,茶碗を
両手で持ってポットまで歩いて行く。 レ・ミゼラブルの囚人の
歌を心の中で歌いながら。
「下を向け,下を向け。目を合わせるな,目を合わせるな」
ああ無情