夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

由利本荘市 八幡神社の 石柱に 刻まれた 明治の 天災

2016年11月13日 | 由利本荘市

   秋田県由利本荘市

      八幡神社石柱に刻まれた明治の天災 

 

 平成23年6月23日から24日にかけて、秋田県由利本荘市一帯は大雨となった。洪水が発生し、石沢川は子吉川との合流付近の堤防が決壊。その他にも二つの川は水が堤防を越えた箇所ができた。そして、75戸の家屋が浸水し、田畑にも被害がでた。しかし、幸いにも人的被害はまぬがれた。

 このとき、私はパソコンを操作し、河川のライブカメラを通して洪水の様子を観察していた。地元、由利本荘市の弟妹に電話連絡したら、近くの子吉川が氾濫していることを全く知らないでいるのだ。遠く栃木県に暮らす私には手に取るように洪水の様子が観察できるのに、皮肉なものだ。

 パソコンで洪水の様子を観察しているうちに、私は祖母や叔父から聞いた明治時代の大洪水のことを思い出した。明治20年生れの祖母は子供の頃、現在の由利本荘市岩谷町が洪水になったので、妹を連れて逃げたとのことであった。また、大正2年生れの叔父から、明治時代に旧本荘町(現由利本荘市)が大洪水になり、親戚の娘さんが亡くなったと聞いた。急な出水のため、外へ逃げられず、押入れの天袋へ登ったが、洪水が天井を超えたため、亡くなったという。他の家族はどのようにして助かったかは聞いていない。叔父は洪水の水位が八幡神社に印されていると教えてくれたが、そのころは興味がなかったので、調べに行こうとは思っていなかった。

 平成23年の水害をきっかけに、郷里が被害を受けた明治の洪水に興味を持った。しかし、遠く離れているので、ままならない。そこで、由利本荘市在住の弟に連絡し、羽後本荘駅近くの八幡神社に洪水の印があるか調べてもらった。すると、八幡神社の鳥居の右手に石柱があり、これに明治の洪水と震災の記録が刻まれた碑文を見つけたと連絡があった。弟は八幡神社の近くに住んでいたのに、今まで全く気がつかなかったという。

 弟に碑文の書き写しを送ってもらった。また、平成25年に郷里に行く機会があったので、碑文を確認した。文字がかすれているところは推測して記録した。石柱の碑文は次のとおりである。(パソコンで表せない文字は現代文字に改めて記録した)

   前面 「懸社八幡神社」(懸社はセメントで文字埋め)

   右側 「明治三十年八月寄附中横町丁内」

   左側 「秋田懸羽後國由利郡本庄町」

   後側 「明治廿七年八月廿五日本懸未曽有ノ大洪水アリ由利平鹿雄勝ノ三郡最モ激シ子吉川水量の増加此ノ標柱ヲ超ス事尺五寸當町大町除之外悉浸シ溺死者二十余名流失家屋三十余戸非常ノ惨状ヲ呈セリ同年十月廿二日劇震アリ道路亀裂シ隣懸酒田市ハ中心点タリ同廿九年八月三十一日劇震一層甚シ源ハ本懸六郷町中心点タリ如此頻繁ナルハ稀有ノ事タルヲ以テ紀念ノ為ノ後世ニ傳フト云爾」  

 石柱は高さが約2.6メートル、幅は36センチの角柱であり、高さ約40センチの台石の上に建てられてあった。洪水は「此ノ標柱ヲ超ス事尺五寸」とあるので、洪水の水位は八幡神社の境内では、約3.5メートルと推測される。

 なお、「本荘町自治史」によれば、洪水から避難する様子や被害の状況が次のように記されている。

「屋上に上り或は天井を破って梁に上り或は楼上にあって半身を浸され纔に生きるを得たのみで其狼狽悲泣の有様實に譬ふるにものなく愈々満水に及んでは深さ殆ど二丈(約6メートル)に達した所もあり(略)梁に登ったものも其泣聲により屋根を破って救ひ出されたものが多く最も見るに忍びざりしは産婦病者であって避けしむるに舟なく止むを得ず屋根に上げたので数日内に死亡したものも少くなかった(略)急激の出水であったから河川の舟は悉く流れ救助船の如きは僅に数人を容れる小舟二三艘のみで二十余名の生霊を空しく水中に葬る止むなきに至った(略)浸水戸数二千余死亡二十一人行方不明一人流失家屋六十四戸全潰三十五戸半潰十九戸破損百六十戸其他田畑の損害家具の流失破損等算無く上流では人畜の死傷更に甚しかった本荘町前代未聞の大洪水であった」

 八幡神社の石柱には「流失家屋三十余戸」と刻まれているが、本荘町自治史によれば、「流失家屋六十四戸」とあり、その家の名が記録されている。流失家屋の数に大きな違いがあるので、碑文の書き写しに誤りがあったのではないかと思い、撮影してきた写真を拡大してみたが、三十余戸に誤りはなかった。勝手な解釈であるが、数世帯が同じ棟に住む長屋を一戸として数える場合と、世帯ごとに数える方法の違いではないかと推理したが、確かなことは分からない。

 碑文を調べているとき、幸いにも宮司さんにお会いすることができたので、洪水の水位の印のことについて尋ねてみた。それは本殿の柱に印があるとのことで、案内していただいた。洪水の水位の印は、本殿の奥の右柱の後ろ側にあった。7寸角の柱に横線が刻まれ、その上に「明治二十七年大洪水是過」と、釘のような先の尖ったもので印した跡があった。叔父が教えてくれた洪水の印とは、このことなのだろう。

 八幡神社の石柱には水害と同じ年に起こった酒田市を震源地とする大地震と、2年後の六郷町を震源地とする大地震についても記されている。ネットでの資料によると、明治27年の地震は庄内地震と呼ばれ、由利郡で家屋破損1548棟、また、29年の地震は陸羽地震と呼ばれ、死者205名、負傷者736名となっている。

 明治の先人は後世の我々のために、洪水や地震の災害の記録を石に刻んで残しておいてくれたのだ。先人が八幡神社の境内にどんな気持ちで石碑を建て、本殿の柱に洪水の水位を印したのであろうか。

 奇しくも、この原稿を書いていた平成28年4月14日、熊本地震が発生し、甚大な被害を受けた。天災は忘れた頃にやって来るという。明治の先人が八幡神社の石柱や本殿の柱に記録した天災を、心に留めておきたい。

(2016-04-14記)

 

               《本荘八幡神社》

             《石柱》

 

    碑文の一部