夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

インターフォンという名のデパートか

2013年10月31日 | 日記

 宇都宮駅からシャトルバスで、FKDインターパークというアルファベットとカナカナを

組み合わせた長い名前のデパートへ行った。

息子夫婦と一緒に来ていた高齢の婦人がデパートの前で話している言葉が聞こえた。

     「ここがインターフォンか」 (^O^)

 

これを笑っている俺だって、カタカナコトバに迷ったことがあるのだ。

パソコンを始めたころ、マイドキュメント、マイピクチャ、ネットワークなどと、わけのわから

ないカタカナコトバに悩まされた。 

指導者から、今度来るときは「マイカップ」を用意するようにとメールが来たとき、パソコン

を調べてマイカップがどこにあるか探したことがあるからだ。

 

     (余談)

FKDインターパーク店から帰りのシャトルバスをベンチに腰かけて待っているとき、隣の

老紳士と雑談した。

大正15年生まれの彼は昭和20年7月に兵役に召集されたという。

18歳の若者が、学業半ばにして兵役につかなければならなかったのだ。、

毎日、地面に穴を掘り、穴に隠れて上陸してきた戦車に爆弾を背負って体当たりする訓

練を受けていたとのことである。

要するに 自爆の訓練だ。 陸上の特攻隊なのだ。 

わずか18歳の命を捨てられるところだったのか。

 

 


豚の遺骨はいつかえる  *ボクの見た戦中戦後(12)

2013年10月27日 | ボクの見た戦中戦後

戦時中に流行った「湖畔の宿」の替え歌です。

 

♪ きのう生れた豚の子が 蜂に刺されて名誉の戦死

   豚の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

   豚のかあさん悲しかろ

 ♪ きのう生れた蜂の子が 豚に踏まれて名誉の戦死

   蜂の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

   蜂のかあさん悲しかろ

 ♪ きのう生れた蛸の子が 弾に当たって名誉の戦死

   蛸の遺骨はいつかえる 骨がないからかえれない

   蛸のかあさん悲しかろ

 

高峰三枝子の湖畔の宿は戦時中、軟弱な歌としてレコードが発売禁止になった。

しかし、誰が作ったのか「豚の遺骨」として替え歌が歌われていた。

機銃掃射におびえた函館でも、疎開先の秋田でも子供たちが歌っていたのだから、全国的に広まっていたと思う。

子供たちは蜂に刺されて死んだ豚の歌を面白がって歌っていたが、これには裏があるのではないか。

カムフラージュした厭戦歌だろう。

赤紙一枚で激戦地に送り込まれ、若くして命を失った兵士たち。

遺体はジャングルの中に放置され、海中に沈み、親の元にかえされなかったのだ。

名誉の戦死とされながらも、遺骨がかえされないことを皮肉って歌ったものだろう。

若い兵士を豚・蜂・蛸に置き換えて戦争を風刺した歌に違いない。

子供たちは無邪気に歌っていたが、特高も厭戦歌と気が付いたであろう。 

作詞者がみつかれば、非国民として監獄送りになるところだ。

もちろん、作詞者は不詳である。

 

12月8日は開戦の日、4月8日はお釈迦様の誕生日で花祭りである。

同じ8日でも、遺骨がかえってほしい日は4月である。

 

高峰美枝子の「湖畔のやど」

 


片付けなかったストーブ

2013年10月20日 | 日記

洗面所の灯油ストーブ。

俺は高貴な高齢者になったのだから、

重いものを運ぶような労働はしないのだ。

しかし、高貴になったのに、召使はいないのだ。

女房を召使にしたいけれど、あべこべになるからやめたよ。

だから、毎年春になると物置へ片付けておいた灯油ストーブは、

そのままになっていたのだ。 片付けないうちに寒くなってしまった。

今日は寒い。

ストーブの試運転だ。

 


雨の忍野八海

2013年10月16日 | 国内旅行

10月15日、台風接近の中、予定通りにバスツアーで富士山撮影に出かけた。

行先は忍野八海である。富士撮影は期待せず、忍野八海を楽しむことにした。

 

(雨の忍野八海デジカメスケッチ)

 

 

 

 

 

 

 

雨水が靴に滲み込み、靴下が濡れて気持ちが悪い。

やむを得ずビニル袋を靴下の代用にした。

 


亭主元気で 留守番がいい

2013年10月14日 | 日記

コミュニティ祭りでフラダンスを観た。

祭りではスクエアダンスも披露された。(男性は一人だけ)

太極拳の発表もほとんどが女性である。 

作品展も、出品者の多くは女性である。

公民館での活動は断然女性が多いのだ。 

彼女たちはサークル活動をしながら、余暇を楽しんでいるのか 

女性たちの活動は素晴らしいなあ。

 

女房もパッチワークの作品を展示した。 

女房はたびたび、公民館や体育センターや、

病院でのボアンティア活動の仲間たちと食事に出かけている。 

先日は卓球クラブで食事会。 

そして今日もボランティアの仲間と昼食会。 

その次は、パッチワークの仲間とやるらしい。 

俺はまたまた留守番で、独り寂しく昼食か。 

俺が身体が弱ってしまったら、女房は出歩くことは難しくなるだろう。 

だから、俺が元気なうちに羽を伸ばして飛び回っているのだろうな。

 

現役時代は「亭主元気で、留守がいい」と、男どもは言われ、 

退職後は「亭主元気で、留守番がいい」か。 

男はつらいよ。

 


伊勢参り

2013年10月13日 | 国内旅行

ツアーで伊勢参りをした。

10月9日、台風はそれたが雨が降ったり止んだりしていた。 外宮を参拝したときは雨の中である。 檜の香りが心地よい。 守衛に尋ねると雨の日は檜の香りが特に漂うとのことだ。

三ツ石のパワースポットは手をかざすと温かさが感じられるそうだ。 俺は自己暗示で温もりを感じ取ることができた。

翌10日は内宮へお参りした。 混雑が予想されるため、出発時刻を早めて9時に到着した。 人出が少なかったのでゆっくり参拝できた。 晴れたせいか外宮のように檜の香りはさほどではない。 茅葺屋根の茅は同じ太さのものがぎっしりと詰め込まれている。 細い茅だ。 守衛に尋ねたら、茅を虫くいのあとを一本ずつ調べたり、太さを揃えたりして選別するそうである。  どれほどの数の中から選ばれた茅なのだろうか。

 

夫婦岩(朝日を加工)

 次に二見が浦へ行った。 夫婦岩の注連縄の中から朝日が昇るところを想像しながら拝んだ。 そのそばに天の岩屋があり、神社が建っている。 たしか60年余り前に来たときは、神社の建物はなく、太陽の女神様が隠れたという岩屋の中を見ることができたと記憶している。 今は神社の建物があるので、岩屋の入り口がわずかにしか見えない。 

誰か、60年前のことを知っている人はいないかなあ? 

 

天の岩屋

 

 


モースの見た庶民のくらし (江戸東京博物館)

2013年10月11日 | 日記

(両国駅西口の力相撲の石像)

俺は東京の友人と江戸東京博物館へ行くことにした。

待ち合わせ場所を両国駅の力相撲の石像前にした。

石像は大勢の人たちに触られた所が黒くなっていた。

 

博物館では「モースの見た庶民のくらし」について特別展をおこなっていた。

モースは明治の庶民のくらしを観察したり、生活用具をコレクションしていた。

モースは「世界中で日本ほど子どもが大切にされている国はない、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、子どもたちの様子を書いている。

また、「親は子どもに癇癪を起すことはない」と。

*****物が豊かで、幼児期から外国語を詰め

込まれている平成の子どもはどうかな?*****

「子どもが誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙を貼り付けずに、桜の形に切った紙を貼る」と庶民の豊かな心に驚いている。

 

おかめの顔の形をしたユーモラスな下駄屋の看板

どんな歩き方をしていたのか、歯が斜めにすり減った下駄

ダイコンを彫刻した八百屋の看板

ウサギの形をした火鉢

ご飯を炊く釜、おひつなどの調理道具

ガラス瓶に入れた砂糖菓子、当時の鰹節、海苔などの食品

柄物の手ぬぐい

携帯用の平たいそろばん

刀の鞘の漆塗り模様の見本

大きな桶に焚き口を取り付けたような据え風呂で、湯浴みする婦人の写真

***火傷をして死なぬのが不思議とモースの解説***

和服を着た庶民の等身大人形や鎧に身を固めた武士の生き人形

 

俺はイヤホンガイドの解説を聞きながら展示物を見て歩いた。

そして気がついてみたら、友人の姿が見えなくなっている。

会場をいくら探し回っても見つからない。

俺は案内所へ行って館内放送で彼を呼び出してほしいと願った。

ところが、博物館では放送は出来ないので、その人の特徴を知らせると探してくれるとのことだ。いわゆる手配書の作成だ。

 「髪の毛はゴマシオ、四角い顔に眼鏡、

眉が太い老人で、紺のジャンバーにズボン」

それに、力相撲の前でデジカメで撮った彼の写真を見せた。

こんな迷子ならぬ迷い人の手配書を頼りに、博物館の職員は探し回った。

そして見つけてくれた。 

博物館の方々に探してもらわなったら、俺と彼は一日中館内をうろうろしていたことだろう。

  


俺は犬のエサを食べたのか

2013年10月07日 | 日記

 

早稲田大学大隈重信総長の銅像

俺は昔住んでいたアパートの周辺を散策した。

あれから40年あまりも経っているのだ。

アパートはすでに無く、同じ敷地に2件の住宅が建っていた。

隣の肉屋や向かいの薬屋は看板はあったが閉店。

街の様子が変わり、八百屋の跡を見つけることは出来なかった。

魚屋があったがここも店仕舞いだ。

俺はこの魚屋に驚くような、おかしいような想い出があるのだ。

店頭に赤身の魚のぶつ切りが一山20円で売られていた。

魚の名前は分からないけれど、安い値段にひかれて買った。

魚屋はそれを新聞紙に包んで俺に渡した。

俺はアパートで煮て食べた。 大変おいしいのだ。

だから、次の日も一山20円を買おうと店に寄った。

魚屋は俺をけげんそうに見ながら言った。

「お客さん、それは犬のエサですぜ」

俺は犬のエサを食べたのか。

でも、おいしかったなあ。

 

近くの早稲田大学にも寄ってみた。

久しぶりに見る大隈重信の銅像だ。

周りの植木が伸びて台座が隠れている。

大隈の記名版はすっかり見えなくなっていた。

このままでは大隈さんの姿も隠れてしまうよ。

 


ストリートビュー

2013年10月05日 | 日記

我が家をストリートビューで見て驚いた。

住所を入力すると、家の周りの様子が現れるのだ。

実に鮮明な画像だ。

俺は近々、東京に用事があって出かける。

ついでに、昔住んでいた街を思い出しながら歩こうと思った。

あれから40年余りたったから、町名や番地などは忘れてしまった。

昔住んでいた所をストリートビューで見ようとしたが、住所が分からないので入力出来ない。

そこで、主な建物や道路などから探り、やっと、アパートがあった所の住所を調べることが出来た。

ストリートビューで見ると、2階建てのアパートは3階建ての個人の住宅らしいものに建て替えられている。

あのアパートは共同トイレで、掃除は当番制でおこなっていた。

俺の掃除がまずいと、隣部屋の爺さんに叱られたものだ。

今では共同トイレのアパートは、ほとんどないだろうな。

隣の精肉店や近所の薬屋なども見ることが出来た。(なつかしいなあ)

銭湯、八百屋に魚屋などは、今、どうなっているだろうな。

 


男の料理教室

2013年10月02日 | 俺の料理

 男の料理教室で①秋のサラダと、②鶏肉のパリパリソテー&クリームソースという長い名前の料理を教わった。

 3~4人の4班に分かれての調理実習だ。 

①秋のサラダ

 材料はレタス一つにしめじ、舞茸、椎茸、エリンギ、パプリカ(赤と黄)、

茄子、トマト、ニンニク、サラダ油、塩胡椒、ドレッシング。

 3人で小皿に分けて頂いた。

 

 ②鶏肉のパリパリソテー&きのこクリームソース

 材料は鶏のもも肉、生クリーム、牛乳、しめじ、舞茸、エリンギ、玉ねぎ、パプリカ(赤と黄)、パセリ、サラダ油、塩胡椒。

 

***講師はイタリアン料理店のオーナーシェフ***