久しぶりにそば打ちをした。
めんは太くてムラがある。いかにも手打ちと分かって良いのだと、女房へ下手を自慢する。
今日の昼食は手打ちのかけそばだ。
男の料理教室で鶏飯を作った
ご飯に盛りつけた具は右上から時計まわりに、鶏肉、ほうれんそう、人参、野沢菜、錦糸卵、中央に小ねぎ。それに鶏肉のだし汁をかけて出来上がり。
俺の班、4人の錦糸卵
それぞれ個性的な作り方だ
俺のは左下
マッチ棒のように細かに切れない
千切りというよりは棒切りだ
3月20日(金)
近所のスーパーでレジ袋が有料になった。一枚3円とのことだ。
俺はマイバックを持って買い物に出かけた。買い物客を見ていると、マイバック持参は半数を超えている。県の職員がゴミ削減のためにとマイバックを配布していた時は効果がなかったが、有料になったとたんに効果が現れた。
会計を済ませた若い夫婦がレジの外にある台で、豆腐などの水気のあるものや洗剤などを食料と仕分けるための薄いペラペラしたビニル袋へ、買った品物を詰め込んでいる。数枚の袋に入れた買い物を二人で両手で抱えながらニヤニヤ笑いながら歩いて行った。3円払わずに済んだのだ。
ダンボール箱に買い物を詰めているおばさんがいた。たくさん買うためにマイバック一つでは間に合わないのだろうかと眺めていたら、別のおばさんも同じようにダンボール箱を抱えていた。
そこで、俺は気が付いた。
店の隅にダンボール箱が積んであり、【ご自由にお持ち帰りください】とあるのだ。
なるほど、これを利用しているのだ。
主婦は3円節約するのに、大変苦労をしているのだなあ。
アメリカ軍が投下したビラ
ボクが国民学校の1年生から2年生の7月末まで住んでいた家は、五稜郭駅近くにある現在の函館市立病院の駐車場にあった。
当時は市立病院の建物や駐車場とその周辺の土地は国鉄の敷地であった。この中に鉄道官舎が100戸ほど建っていたように思う。上空から見ると大きな工場のように見えるそうである。そのため、敵機の攻撃目標になる恐れがあるので、目立たないようにと屋根を真っ黒なコールタールで塗る作業をしていた。
空襲警報のサイレンは短く3・4回だけしか鳴らないようになった。サイレンを鳴らす人も避難しなければならなくなったためだろうと思う。「ウ~ッ ・ ウ~ッ ・ ウ~ッ」と鳴り終わらないうちに、敵機は群れになって襲ってきた。官舎の屋根のすぐ上を恐ろしい轟音をたてて飛んで行った。防空壕へ逃げ遅れた隣のおばさんが、玄関から敵の飛行兵の顔が見えたと話していた。顔が見えるほどの低空飛行である。あのコールタールの屋根を敵機はどう見たのだろうか?
空襲警報解除のサイレンが長く鳴ったあとに、ビラが撒かれた話が伝わってきた。「また来るから用心しろ」というようなことが書かれてあったが、デマだろうと母が聞いてきた。ボクは近所の子供たちにビラの内容を伝えた。次の日、予告どおりに空襲があった。ビラの空襲予告はデマでなかったのだ。
昭和20年7月28日の深夜、青森の街が焼夷弾攻撃を受けた。この時も事前に爆撃すると予告ビラが撒かれたと、当時青森県に住んでいた知人から聞いたことがある。ビラの内容を知った多くの人々は街から離れ、山林へ逃げて仮小屋を建てて避難したり、他の村などへ疎開したそうである。ところが、役人はビラはデマだから街へ帰るようにと呼びかけ、もし帰らなかった場合は食料や物資の配給をしないと告げたというのだ。
そのためやむを得ず自宅へ帰った人たちは焼夷弾攻撃で被災し、死傷者が多数でたのだと聞いた。知人の家族は弘前へ疎開していたので無事であったが、家屋は全焼したそうである。ビラはデマでなかったのだ。
死傷者1,767名。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。罹災者70,166名。(Wikipedia参考)
青森空襲のすぐ後に、ボクは秋田へ疎開するために函館から臨時の連絡船へ乗り、青森港で一面の焼け野原を見たのだ。
ボクはビラについて理解できないことがある。ビラを拾ったら読まずに警察へ届けることとか、読んだり他人へ話したりすると罰せられることが、当時の新聞を調べて分かった。このことからすれば、母がボクにビラの話をしたり、またボクが友達へ知らせたことは罪になるのだ。非国民ということになるのだ。
ビラを拾ったら読まずに警察へ届けなければ憲兵や警察が逮捕するというが、中味を読まなければビラか、ただの紙屑か分からないではないか。
こんな無茶なことを、戦争を推し進めていた大日本帝国の指導者たちがやっていたのだ。そして、多数の国民を犠牲にしたのだ。
リンク ⇓ 《ボクの見た戦中戦後》
http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f
イチゴ大福
今日はホワイトデーだ。
女房は新聞の折り込みチラシを俺に見せた。
デパートのチラシだ。
「バレンタインのお返しは必須!あま~いスイーツがおすすめ」
と書いてあるところを示しながら、
「何もいりません」と、一応はつつましく言うのだ。
俺はこれを真に受けて何もしなかったら、どうなるであろうか。
俺は悩んだあげく、イチゴ大福をプレゼントした。
これで、しばらくの間、平和に暮らせると思うのだが?
デイドロビューム
女房の誕生日がやってきた。女房について詳しく書こうと思うが、戦時中の秘密保護法下の新聞並みに不都合な事は○○と伏字にすることにした。
「俺の女房は昭和○○年○月○○日に○○村で生まれた。
○○太った赤ん坊だった。
女房は満○○歳の誕生日を迎えることになった。
しかし、おめでたいかどうか分からないのだ」
俺は女房の誕生日を祝い、お花をプレゼントしようとお花屋さんへ出かけた。
おかみさんは誕生日にお花をプレゼントすると、一年間は亭主を大事にしてくれるよと教えてくれた。
俺は初めに1,500円の花を選んでいたのだが、考え直して大奮発し、2,000円の花にした。そうすれば500円分余計に俺を大事にするであろうから。
おかみさんは「お誕生日おめでとうございます」とメッセージカードをつけてくれた。
俺は愛する女房にお花を手渡した。
女房は喜んだが俺は歳を聞くのを遠慮した。
お花の効果は1年もつかなあ?
1か月かなあ? それとも?
俺は不安になってきた。
俺は陰で計算した。
2,000÷365≒5
2,000÷30≒67
2,000÷7≒286
2,000÷1=2,000
俺は次第に気持ちが沈んできた。
女房にもう一度おめでとうと言おう。
女房よ。長寿まことにおめでとうございます。
3月3日(月)
女房は吊るし雛展示会の当番なので、昼の弁当を持って出かけた。ついでに、ついでに俺のおむすびを作っていった。
3月5日(水)
女房は友達と食事会に出かけた。
俺はご飯と味噌汁と大根の漬物と、冷蔵庫にあった昨日の煮物の残りを温めてお昼にした。
女房はレストランで和食のランチだそうだ。
俺は家で原始的和食のランチだ。
3月6日(木)
今日も女房は昨日と別のグループで食事会に出かけた。イタリアンレストランへ行くそうである。
今日もまた俺は家で一人で昼食か。
俺もイタリア料理が食べたくなった。
さて、スパゲッティでも茹でるとしようか。
俺のイタリアン料理のレシピ(俺一人分の材料)
パスタは大盛りにするから120g
ソースは出来合いのもの二人分
しめじ、たまねぎ、にんじん、オリーブオイル
あの頃、ボクは空腹を我慢できなくて、母へ食べ物をねだっていた。母は決まって「縄でもかじっていなさい」という返事をしていた。駅の売店(キオスク)にニッキというものが売られていた。木の小枝を鉛筆ぐらいの太さに割ったようなもので、その皮を歯でしごくと良い香りと味がした。ニッキの木をかじったりしゃぶったりして空腹を紛らわしていたのだ。
ボクは母に呼ばれて台所へ行った。そこには姉と母が深刻な顔つきをして座っていた。ボクも正座した。母は米櫃を見せた。米櫃を傾けると米は箱の片隅によった。米は、ほんの僅かしかなかった。「お米は6月までこれしかない」と母が言った。ボクは暦が理解できず、6月という日まであと何日あるか分からなかったが、ご飯を食べられなくなることは分かった。いつも、食べ物をねだっていたボクに母は困っていたのだろう。あとで姉から聞いたことであるが、姉は弁当を持たずに学校へ行っていたし、また、父も弁当なしで勤務に出かけていたそうである。
ボクが1年生の時は弁当の時間に先生は食事をせずにピアノを弾いていたが、2年生になってからはピアノの記憶がない。弁当の記憶もない。2年生になってからは弁当の時間がなかったように思う。当時、兵隊が校舎を使うようになったので、教室が不足し、午前と午後の2部授業が行われ、低学年の生徒には弁当の時間がなくなったような気がする。弁当を持っていかなかった姉はどんな気持ちで昼の時間を過ごしたのであろうか。ボクはお昼に家でジャガイモを食べたことを覚えている。母がホタテ貝の貝がらをお皿にして、ジャガイモを二つ食べさせたくれたことがあった。父や姉が食べなくても空腹を我慢できないボクにお昼を作ってくれていたのだろう。
米が食べられなくなった。代用食としてカボチャを食べた。これも配給券を持っていかなければ買うことができないのだ。カボチャを食べるようになってから、手を握ってから開くと、手の平が黄色く変わった。顔が黄色くなっている人もいた。「何が何でもカボチャを作れ」というポスターを見たような気がする。ボクの家でも軒下にカボチャを植えていた。鉄道官舎の人たちが空き地を分け合ったのであろうか、官舎の各家には畑があった。ボクの家の畑にジャガイモを掘るに行くと芋の茎が萎れていた。引き抜くと土の中の芋が盗まれたあとだった。畑を割り当てられた家はまだよかったが、街の中心地の人たちはどうであったろうか。ボクのクラスの子が学校の畑のカボチャを盗んで家へ持ち帰っていったこともあったのだから、食糧には極めて困窮していたことだろう。
ボクの家の畑に人参があった。子供たちがまだ学校へ上がっていないボクの妹に人参を採らせて、生で食べている所を母が見つけた。ひもじいと子供たちの心も貧しくなってしまうのだ。
父に頼まれてボクはタンポポを摘んで花びらを乾燥させ、タバコを作った。当時のほとんどの成人男子は喫煙者でありタバコの配給があったが、これでは不足だったからであろう。空襲や警戒警報の合間に、食べられる草を探して歩いた。皆がひもじい思いをしていたのだ。
まともなご飯がなくても、よもぎや大根の葉や大豆などの入ったお粥が食べられるのは良い方だった。大豆の油を搾った残りかすが食料として配給された。 大豆かすである。直径20~30センチ、厚さ10~15センチ程だったろうか、灰色で石臼のような形をしたものだった。岩のように硬いものだ。それを鉈で削って食べた。人間の食べ物ではない。本来は粉末にして豚や牛に食べさせる餌なのだ。ボクたちは豚の餌を食べて生き延びてきたのだ。
当時の新聞を調べると、代用食の紹介が載っていた。よもぎ、つゆくさ、いぬたで、いのこづち、いたどりなどの雑草やどんぐりの粉などである。それに、カエル、カタツムリ、トカゲ、イモリなどだ。コオロギやバッタは乾燥して粉末にしてから食べるようにと紹介している。戦中戦後ボクたちは、食べ物がなく、ひもじかったから家畜の餌や野鳥の餌までを食べて生きようとしてきたのだ。
飽食の時代「ひもじい」は死後になった。しかし、いつか戦争が起きれば庶民はボクたちが食べてきたものを食べざるを得なくなるであろう。戦中戦後の食べ物を体験しようと「すいとん」を試食するイベントがある。すいとんは贅沢な食事なのだ。現代風に味付けし、ただ一度だけ、すいとんを食べただけで、戦中戦後の食事が理解できようか。ボクたちが食べてきた野草の入ったお粥や豚の餌を一口でも味わっていただきたいものだ。特に戦争を知らない国会議員の先生方には一食分を残さずに食べてから、戦争を論じていただきたいと思う。
今、食べ物がなくてひもじい思いをしていた頃を記録しているうちに、思い出したくない出来事を思い出してしまった。記録にとどめたくない思いもあるが、これが戦争なのだということを今の若者たちに伝えたい。戦争が起これば子殺しも起きることを!
子殺しがあったことが子供たちの噂になった。多分、父や兄たちが戦地へ召集されたであろう母子家庭で子殺しがあったというのだ。食料が底をついたとき、待っているのは飢え死にである。母と年長の姉は空腹をうったえている弟妹たちが飢えで苦しんで死ぬ前に毒殺したというのだ。多分残された二人も後を追うであろうが、すぐ他人に知れて警察に逮捕されたということであった。幼い子供たちは敵兵に殺されたのではない。他人に殺されたのでもない。もっとも頼りにしていた母や姉に殺されたのだ。思い出すのもつらくなる事件だ。その毒はネコイラズであったが、ボクはネコヤナギと聞き違えていた。ネコヤナギの芽には毒があると思い込んでしまった。だから土手のネコヤナギの蕾が芽吹くころ、この事件を思い出してつらかったが、いつしかこのむごい記憶を封印してしまったのだ。戦争のことを話したがらない人は大勢いる。彼らも思い出すと苦しくなるので記憶が呼び起されないように封印してしまっているのであろうか。
ボクは栄養不足でやせ細り顔色も悪かったのであろう。秋田へ疎開したとき、同学年の子から「青い顔して幽霊みたいだ」と言われた。幽霊と言われボクは気持ちが落ち込んでしまった。
時は変わって戦争を知らない若者たちが、ケーキなどの食べ物を顔に投げつけるような遊びがテレビで放映された。ボクは無性に腹が立った。そして悲しくなった。
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追記(2017-02-17)
昭和20年 現在の北海道函館市立亀田小学校での記録です。
【ボクの見た戦中戦後=砕氷船亜庭丸で疎開】
↓私のブログです↓
http://blog.goo.ne.jp/suketsune/e/2fedd2ad25dd9dfecbab9ba5b5e6b985