夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

上三依水生植物園

2017年05月30日 | 花・自然

          5月30日

日光市上三依水生植物園へ行く。

ヒマラヤの青いケシは、まだ咲いていなかった。

あと10日ほどで開花するだろうとのこと。

20~30日間、花を楽しめるそうである。


     サクラソウ

 


     シライトソウ

 


     マムシグサ

 


     クリンソウ

 


     フウロソウ

 


     シラーカンパニュラータ

 


     ヒメサユリ

 


     八甲田オダマキ

 


     ミヤマオダマキ

 


     ジャーマンアイリス

 

 


     ジャガ

 


     レンゲツツジ

 


     キレンゲツツジ

 


     キエビネ

2017-05-30撮影

水生植物園HP  http://www.yamasyokubutu.co.jp/

 


ガン患者は働かなくていい 

2017年05月23日 | まじめなブログ

     自民党の 大西英男 衆院議員に 物申す

 俺は強烈な腰の痛さに苦しみながらも、自分の職場の仕事を責任を持って遂行してきた。

 ガンに侵されているのに気がつかず、腰痛は仕事が多いためと思い込んでいた。

 忙しくて病院で検査する暇がなかったが、仕事の一区切りがついたとき、人間ドックに入った。

 右の腎臓にガンが発見された。

発症から5年経っており、野球のボール大にガン細胞が増殖していた。 

ガンは腎臓ごと摘出。

 腸への転移を調べるため、腸間膜を切除し、腸を体外へ取り出して検査を行なったから、大腸が癒着して、正常な位置に戻っていないし、いまだに腹筋に力が入らない。

 手術しても生死の確率は半々、5年後、10年後、15年後の生存率は何パーセントなどという情報を得ながらも、何とか28年間も生き延びてきた。

 ガンを摘出し、入院していた51歳の時、仕事が気になり、早めに職場へ復帰した。めまいと闘いながらも、人並みに仕事をやり遂げた。

 時おり、めまいのために、うずくまってしまうことがあったが、自分の仕事は完璧にやり遂げた。 定年退職まで9年間の苦闘だった。

 苦しいからと、仕事をやめれば、収入がなくなり、家族を養うことが出来ない。 だから、途中退職が出来なかった。

 もしも、俺の上司が大西議員のような人だったら、ガンと分かった時点で 《ガン患者は働かなくていい》でクビになったろうなあ。

 収入がなくなり、路頭に迷っていただろうよ。 ゾッとするなあ。

 俺は退職してからも、地域の活動に協力したり、子供たちへのボランティア活動を行なってきた。

 老体だが少しでも社会に役立てばという純粋な気持ちから行っている。

 ガンに侵され体力がなくても、社会の一員として活動はできますよ。


 

 しかし、自民党の 大西英男 衆院議員よ。

《ガン患者は働かなくていい》のか? 

働くなと言うのか?

ガン患者をクビにするのか!

患者の生活を考えないのか!

ガンでない者は勤務を続けることが出来て、ガンでも真剣に働いている人をクビにするのか。

真剣に説明している議員に対して、ヤジを飛ばすのは品がない。

 大西英男議員は 《マスコミを懲らしめるには 広告料収入がなくなることが一番だ》と報道機関に圧力をかけたことがある。

 《巫女のくせに何だ》と物議をかもしたのもこの議員だ。

  こんな議員に、投票する人もいるのだから、あきれたものだ。


ギックリ腰 - - - ランチに誘われて歩く

2017年05月22日 | ギックリ腰

ギックリ腰・・・ランチに誘われて歩く 

 

 女房とファミレスで、ランチすることにした。

2キロも先の店だが、歩いて行くことにしたのだ。

 俺はギックリ腰を繰り返してきたから、あまり歩けない。

足腰を丈夫にするには、ウオーキングで鍛えなければならないことは理解しているが、ただ歩くのはつまらないのだ。

女房はファミレスまで歩いて行って、昼食しようと言う。

 歩けば、俺の足腰を鍛えることになるのだから、良いことなのだと。

しかし、ファミレスまで2キロ、往復4キロだ。 厳しい距離だ。

 ファミレスのランチには魅力がある。

しかたがないから、歩いて行くことにした。

 俺はファミレスで、パスタ・マルゲリータを注文。

女房は、ビーフハンバーグ。

 

 食事がすんでから俺は考える。

女房は俺の歩行訓練のためにと言って、遠いところへ連れてきたが、実は自分のダイエットのために歩いたのではないかと。

まあ、それはどうでもいいや。

美味しいランチができたのだから。


昭和20年代?の発動機 (黒羽・くらしの館)

2017年05月16日 | 日記

黒羽の《暮しの館》の茅ぶき屋根が、ふきかえられた

アユの名産地の黒羽は、鯉のぼりならぬ、アユのぼり 

中に入ると昔懐かしい発動機があった

 

 

石油の燃料で回るエンジン 

昭和20年代の頃、農家の庭で脱穀機などの農業機械を回していた

子供の頃、興味を持って見ていたものだ

 

 

クランクを回すとダッダッダッダと音を立てて回り始める

最初はガソリンで始動し、回り始めると燃料を石油に切り替える  

 

スパークプラのようだ ⇑

初期始動用のガソリンタンクや空気調整のバルブやレバーか?

 

潤滑油(右)と冷却水を入れる穴(左)

 

発動機が回ると、マフラーから白い煙が出た

 

広い幅の円筒にベルトを掛けて、農機具を動かす

 

 

 

YouTubeを借用

 


豚肉ソテーサラダ仕立て

2017年05月11日 | 俺の料理

 俺の料理はフランス料理だ

  豚肉ソテーサラダ仕立て

 

 男の料理教室で、《豚肉のソテーサラダ仕立て》を習ったので、家で作ってみることにした。

まず、フライパンをガスレンジにかけて、油をひいた。

フライパンが暖まるまでの時間に、豚肉のまわりの筋切りをすれば、効率よく料理が出来ると考えたからだ。 

作業中に、ガスレンジが《ピピピピピピ》 と鳴り出して、ガスが止まった。

からだき防止のため、自動的にガスが止まったのだ。

俺は、ピピピピピピの音に驚いてしまった。

男の料理教室では、豚肉は完全に焼かずに、80%ほどに焼くと良いと教わった。

表側を3分間、裏側を2分間焼くと、80%の焼き方が出来るそうである。

俺はタイマーを見ながら、3分、2分と豚肉を返して焼いた。

それから、アルミ箔に包んで蒸した。

こうすることで、肉の中が柔らかく焼けるそうだ。

蒸している間にソースを作った。

粒マスタード、ハニー、マヨネーズを混ぜて作った。

味見をしたらよく出来ている。

ソースを皿にひいて、カットした豚肉を並べた。

これに、ベビーリーフを添えた。

黒コショウ、レモン、エキストラバージンオリーブオイルなどの調味料をかけた。

パルメザンチーズはスーパーで探したが見つからなかったので、かけなかった。

俺にもフランス料理が出来たのでうれしかった。

おれは《豚肉ソテーサラダ仕立て》 というフランス料理をテーブルに置いた。

 女房は瀬戸物の茶碗にご飯、うるし塗りのお椀に味噌汁をよそった。

茶碗やお椀は、フランス料理に合わないうつわだ。

ご飯と言わずに、ライスと言ってお皿に、味噌汁は、ミソスープと言って深皿に入れれば、すべてがフランス料理になるのだが、うつわのことは我慢することにしよう。

ナイフ、フォーク、スプーンはない。

女房が用意したのは、お箸だけだ。

これもムードがないけど、我慢だ、我慢だ。

 さあ、食べることにしよう。

その前に乾杯だ。

アルコールはフランス流にワインでやろう。

「乾杯!」とグラスを合わせる。

料理の色合いが良くないような気がするが、豚肉を一つ、口に入れた。

   固い!   まずい! 

 俺は科学者のように、冷静に原因を追究する。

第一の原因は、ピピピピピピの警告音がなったとき、俺は驚いて、豚肉に塩コショウをするのを忘れてしまったのだ。

だから、まぬけな味になってしまったのだ。

第二の原因は、料理教室の先生が、80%の焼き方は、表側を3分、裏側は2分と教えてくれたのは、公民館のガスレンジの場合のことなのだ。

我が家のレンジは火力が強いから、焼きすぎて固くなってしまったのだ。

一生懸命がんばって作ったフランス料理だ。

失敗してしまった。 残念だ。

 

 俺はワインを飲む。

ワインは悲しい酒になった。

俺はまた、グラスにワインをそそいだ。

  女房は「飲みすぎるから、止めなさい!止めなさい」との、ご意見だ。

 しかし、

  ♪ ワイン飲まずに居られるものですか。♪♪♪

  ♪ ちょっとやそっとのご意見なんぞで、ワイン止められましょうか。♪♪♪ 

 

 

 


若葉の作曲家 平岡均之

2017年05月08日 | まじめなブログ

「若葉」の作曲家 平岡均之

 

 さつき晴れ、木々の緑が映える。小学校の音楽で習った「若葉」の歌が思い出される。まさに ♪あざやかなみどりよ あかるいみどりよ♪ の光景だ。

「若葉」の作曲者は平岡均之(ひらおかきんし)である。意外なことに、栃木県の学校には彼の作曲した校歌が数多くある。私が収集したものでも、大田原高校、塩原小学校、上塩原小学校、三島小学校、槻沢小学校、西那須野中学校、三島中学校、東陽中学校などがある。

いずれも、塩原温泉に生まれた文人、泉漾太郎(いずみようたろう)の作詞と組まれている。

 平岡均之は明治34年旧田沢湖町(現仙北市)で生まれた。大正7年に両親が相次いで亡くなったため、埼玉県立熊谷中学校を5年生の中半に中退した。彼は小学校の代用教員を務めながら、独学で小学校音楽科専用教員の免許状を取得し、訓導となる。訓導とは現在の教諭に当たる。

 昭和3年、文部省は大礼奉祝唱歌の作詞作曲並びに明治節唱歌楽譜を全国に公募した。当時、足利尋常小学相生校訓導の平岡均之はこの二つの作曲に応募した。その結果、大礼奉祝唱歌楽譜(作曲の部)に一位入選し、賞金壱千園を授与され、また、明治節唱歌楽譜では二位入選し、弐百円を授与されると言う栄誉を受けた。

 突然、音楽の世界に頭角を現した平岡均之に会いたいと願った泉漾太郎は、彼が宇都宮市に来ることを知って面会に出かけた。そこから二人の交流が始まったのである。

 詩人の泉漾太郎は校歌の作詞を依頼されると、作曲者に平岡均之を推薦していた。このことから、二人が組んで作成した校歌が県内に多数ある。小学校だけでも30を数えた。

 泉漾太郎が上塩原小学校校歌の作曲者として平岡均之を推薦した校長への手紙には、「山田耕筰先生が『式歌校歌の作曲では平岡の右に出る者なし』と折紙をつけました。現在は文部省委託で、音楽教科書の検定審議委員です。」と書かれてあった。山田耕筰も多くの校歌作曲に携わっていた。栃木県では小山市立豊田中学校の校歌は彼の作曲である。

 私は平成12年頃、田沢湖町の教育長から電話を受けた。それは、平岡均之の音楽碑が田沢湖町にあり、音楽碑の前で町のバイオリニストと声楽家が「若葉」を披露したとのことであった。町制100周年の記念行事の一環としておこなったとのことであった。私は彼に福島県三春町でふとしたことで出会ってから、平岡均之研究のことで連絡を取り合っていたのだった。

 私は翌年の5月、栃木から新緑の田沢湖町までクルマで出かけ、教育長にお会いしてから音楽碑を見た。

 《作曲家 平岡均之 音楽碑》とあり、「若葉」の歌詞と楽譜が刻まれてあった。「若葉」は大好きな歌である。私は碑の前で歌った。

 

         若 葉    

      松永みやお作詞  平岡均之作曲

 (一)あざやかなみどりよ あかるいみどりよ

    鳥居をつつみ わら屋をかくし

    かをる かをる 若葉がかをる

  (二)さわやかなみどりよ ゆたかなみどりよ

    田はたをうづめ 野山をおほひ

    そよぐ そよぐ 若葉がそよぐ

 

参考資料 

*泉漾太郎から上塩原小学校長にあてた手紙(昭和42年2月13日)   

*塩原小学校学校概要(平成12年)

*秋田県仙北郡田沢湖町生保内田沢湖町教育委員会編集発行 

 作曲家平岡均之先生記念誌「若葉」(昭和63年発行)


2017-05-08記

 


5月4日の日記

2017年05月04日 | 日記

5月4日(木)

ゴールデンウィークのなか日、軽をシルバー二人で交替運転し、さくら市ミュージアムへ。

栃木日展作家展を観る


(ミュージアム玄関前の木の緑が綺麗)

ミュージアムに続く勝山城址へ

   鮮やかに緑が映える   今日はみどりの日

 

子供が蝶々を追いかけて遊んでいた

東屋で二人でおにぎり🍙を食べる

 

勝山城址を散策   鬼怒川対岸を望む