男の料理教室でサンマの寿司を作った。
右手でシャリを転がすように握り、左手にネタを持ってシャリに貼り付けて握るのだが、形を整えるのが難しい。
*ラブラブ道祖神
那須温泉鹿の湯の民宿街で出会った双体道祖神。
カップルの神様はラブラブ。
*殺生石
昔、金毛九尾の狐が化けた石。死んでからも毒気を放つ。
*教傳地獄
昔、教傳という若い僧侶が母に悪態をつき、朝食の膳を蹴とばして、友人と那須温泉へ湯治に出かけた。
殺生石へ来たとき、天がにわかに曇り、地面が鳴り、足元から火炎熱湯が噴き出した。
教傳は熱泥流の中で苦しみながら亡くなった。
親不孝の天罰が当たったのだ。
そこへ教傳を供養するために石仏が建てられた。
*千体地蔵
ここのお地蔵さんは合掌するてのひらが大きいのが特徴。
芦野石で作られた。(昭和53年より建立開始)
↓一度撤去された那須の千体地蔵について
NHK連続テレビ小説、花子とアンで白蓮がラジオ放送をする場面があった。
私はこのドラマの中で、もっとも感動したところである。
これを書き留めておきたい。
【白蓮が放送した内容】
私が今日ここでお話したいのは、平和の尊さでございます。
先の戦争で私は最愛の息子、純平を失いました。
私にとって息子は、なにものにもかえ難い存在でございました。
お母様は僕がお守りします。 幼いころより息子はそう言って母である私をいつも守ってくれました。 本当に心の優しい子でした。
子を失うことは心臓をもぎ取られるよりも辛いことなのです。 私は身をもって知りました。
もしも、女ばかりに政治をまかされたならば、戦争は決してしないでしょう。
かわいい息子を殺しに出す母親が一人だってありましょうか。
もう二度と、このような悲痛な思いをする母親を生み出してはなりません。
もう二度と、最愛の子を奪わせてはならないのです。
戦争は人類を最大の不幸に導く唯一の現実です。
最愛の子を亡くされたお母様方、あなたがたは一人ではありません。
同じ悲しみをいだく母が全国には大勢おります。
私たちはその悲しみを持って、平和な国を作らねばならないと思うのです。
私は命の続く限り平和を訴え続けてまいります。
今日もまた女房は友達と昼食会だそうだ。
イタリアンレストランというから、さぞ高価な食事をするのだろうなあ。
俺は今日の昼食を一人で作らなければならない。
女房が留守でも、俺は昼食を作れるのだが、何となくつまらないのだ。
女房がイタリアン料理を食べているときに、俺は独りで、ご飯とみそ汁と漬物だけの食事と思うと気が沈むのだ。
女房は出かけに俺の昼食の準備をしていた。
カレーライスのカレーだけをタッパーに入れて、お昼の用意ができたというのだ。
しかも、カレーはゆうべの残り物ではないか。
女房と俺の食事は女王様と召使の差ではないか。
俺は外食することにした。気晴らしにドライブして那須まで行った。
そして四足門のある田舎風の食堂へ入った。
造り酒屋を移築したという古風な建物で田舎料理の店だ。
俺は田舎すいとんを頼んだ。
なんと出てきたのは、人参、大根、芋、青菜など味噌汁の中にすいとんが入っている。
釜で炊いたおこげのついたご飯。 おかずは小皿で8品もあるのだ。
なす、きのこ、切り干し大根、大粒の豆、寒天などだ。
いずれも懐かしい味だ。 俺は満腹満足だ。
(おこげご飯)
(具だくさんのすいとん)
敷地内に水車小屋があった。
小屋の中では水車で米を突いていた。
(水車小屋)
(水車小屋の中)
(水車で米を突く)
奥の小屋にはとうみや足踏み脱穀機や縄ない機などが展示してある。
昔、農家で使った道具である。懐かしいものが見られた。
(とうみ)
(足踏み脱穀機)
(縄ない機)
家へ帰って俺は女房に1400円もする
すいとんを食べて来たと自慢した。
すると女房はクルマでレストランへ行ったが、
残念ながら臨時休業だったそうだ。
(パンフレットをお借りしました)
那須町文化センターで薪能が行われたので出かけた。
薪能といっても屋外でかがり火をたいて演じるわけではない。
館内で電気的にかがり火をたく装置を飾りとして置くだけのものである。
最初に能・狂言の解説があるので親しみやすい。
演目は狂言の「伯母ヶ酒」と能の「橋弁慶」。
伯母ヶ酒では放蕩息子が伯母の酒を飲もうとして鬼に化け、伯母を脅して酒を飲むが酔いつぶれて正体がばれるもの。
橋弁慶は五条の橋での弁慶と牛若丸の斬り合い。
能では人を斬り回る牛若丸を弁慶が討ち取ろうとする物語になっている。
能について勉強不足なので、子供のときに聞いた物語とは反対なことに戸惑った。
演じたのは藤波重彦親子。
見事な演技に拍手。
9月19日(金)
宇都宮のTOBUデパートで北海道物産展が開かれている。
いつかの物産展でアイヌの彫刻の「マキリ」が出品されたことを聞いた。
アイヌの人たちは小刀の鞘や柄を木で作り、彫刻で模様をつけている。
一つ一つが違う美術品だ。
もしかして、今年も出品されていれば欲しいと思って出かけた。
尋ねてみたら、それを作っている人は亡くなられたとのこと。
宇都宮で注文した人がおるので、遺族に頼まれて一本だけ持ってきたそうだ。
手に取ってもよいと、お店の方の許しを受けたので触ってみた。
これまでに博物館では幾度も見てきたが、指を触れることはできなかった。
高価な美術品なので、とても買うことはできそうもないが、マキリを手にして彫刻に触ることができたので胸がときめいた。
お昼は北海道の魚介類がぎっしり入った弁当を食べた。
蟹、アワビ、イクラ、ウニ、海藻などが弁当の上にまで盛り上げられている。
マキリは買えないけれど、弁当を食べて俺は満足。
家に帰った。そして今日の北海道弁当の写真を女房にみせた。
女房のお昼は、ご飯に鰹節をかけただけとのこと。
俺がいないと、お昼の用意をする気がしなくなるそうだ。
たまには、こんなこともあってよいだろう。
粗食で女房はダイエットできるから
【マキリ】
元URL
先日の朝ドラ・花子とアンで、焼夷弾落下の場面を見た。
焼夷弾はバラバラと降ってくる。
バケツの水ぐらいで、とても消せるものではない。
アメリカの大型爆撃機・ B29 一機で焼夷弾を1300発以上も投下するのだから、100機では13万発以上もの焼夷弾が降ってくるのだ。
昭和20年3月10日の東京大空襲ではB29が279機で襲い、38万1300発もの焼夷弾を投下した。
家に落ちた焼夷弾が発火する前に、両手で拾って外へ投げようとした勇敢な女学生を知っているが、投げる前に発火し、両手はやけどで使えなくなってしまったという。
俺は戦時中の昭和18年、函館の啄木像の近くに住んでいたことがある。
母親たちは役人から焼夷弾の消し方の訓練を受けていた。
役人が亀の子たわしを焼夷弾に見立てて、「焼夷弾落下」と叫びながら、玄関から家の中へたわしを投げ入れる。
すると、母親は箒でそれを叩いた。
それから空のバケツで水をかけるしぐさをした。
俺はまだ5歳のときだったが、役人や母親の様子をしっかりと記憶している。
日本の戦争指導者たちは焼夷弾の火炎を箒やバケツの水で消せると考えていたのか。
認識不足もはなはだしい。
後に姉から聞いたことであるが、父が母から箒で焼夷弾の消火訓練の様子を聞いたとき、無駄なことだと非難したそうだ。
また、当時母親たちが隣組の人たちと、函館の浜から上陸してくる敵兵に向かって、竹やりで戦う訓練を受けていたことも、父は馬鹿馬鹿しいと笑っていたという。
この当たり前のことを他人に聞かれたら非国民と言われ、特高や憲兵につかまり、投獄される恐れがあったのだから、母は父に決して言わないようにと注意していたそうだ。
英語の本を持っているだけで、花子は愛国婦人会の人たちに非国民と言われ、本を取り上げられた時代だったのだ。
テレビの「花子とアン」を観ながら、あのときの記憶がよみがえってきた。
俺の父親は竹やり訓練や、箒で焼夷弾を消す訓練を馬鹿馬鹿しいと非難していたから、他人に聞こえたら非国民とされて訴えられたであろう。
すると、俺は非国民の子供となる。
いじめられただろうなあ。
先日、那須塩原市三島ホールで演劇「那須野の大地」を観ました。
演出者はプロではなく、素人の地元の人たちの「劇団なすの」ですので、顔見知りの人たちがおりました。
明治の初め、那須野が原という水の無い荒野を開拓した人たちの苦労を演じたものでした。
耕しても耕しても石が出てくる荒れ野原。
水は4キロ先の箒川まで汲みに行かなければならない生活。
生き抜くために石を掘り起し、畑を作り、炭俵を編んで売りに行く人たち。
大きな田畑を作ることを夢見て、那須疎水の掘削作業に励む人々。
そこで繰り広げられる人間模様。
出場者は日常の勤務を終えてからの稽古なので大変苦労なさったと思いますが、無事演劇が終了し、たくさんの拍手の中で満足感を得たことでしょう。
三島ホールと「劇団なすの」の旗
三島ホールの柱や土台は開拓当時を思わせる石を積み上げた建築。
建物内の壁も石を積み上げたデザイン。
石塚(複製)
石塚の説明板
ドラッグストアへ行った。 雨上がりで出入り口が濡れていたのに気がつかなかった。
足が滑った。 倒れかかった瞬間、両手を後ろに回して身体を支えた。
逆さに四つ這いになった形だ。 手足でしっかりと身体を支えている。
身体は床から離れている。
近くにいた婦人が俺を見下ろして「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
大丈夫のはずはない。 俺は驚きのあまり、声が出ないのだ。
俺を立ちあがらせるには、少なくとも二人の成人男性の手を借りなければならないだろう。
女性客の多い店では望み薄だ。
俺は満身の力をこめて、右手右足を支点として身体をひねりながら立ちあがった。
足が滑って転んでも、腰を打たなかったことや、手足の骨折などがなくて済んだ。
骨折をしたならば、寝たきりになる恐れがある。
まずは、打撲傷や骨折が無くて安心だ。
我ながら、機敏な動作に感心と驚きだ。
俺は足腰が弱く、何度もギックリ腰を患っている。
階段が苦手で、いつもエレベーターに頼っているのだ。
無理して階段を登ると、後で足腰が痛くなるのだ。
それなのに、滑った瞬間、身をかわすことができたことを不思議に思う。
金さん銀さんの言葉を思い出す。
長生きの秘訣は「転ばないように」することなのだ。
朝ドラの花子とアンを観ている。
ドラマでは戦時中が舞台になっているので興味深い。
花子の父・吉平が甲府の葡萄酒を軍に根こそぎ持って行かれたと嘆く。
地主の徳丸親子は吉平が隠していた葡萄酒を、敵の潜水艦を探すのに必要だから出せというくだりがあった。
葡萄酒の成分で武器を作っていたのには驚いた。
俺は戦時中に、飛行機や鉄砲を作る為と言って、家にある鍋釜や弁当などの金属を出させられたことを思いだした。
松の木の根から油を搾りだし、飛行機の燃料を作るからと、多くの松の木が切り倒されたこともあった。
しかし、俺は葡萄酒まで武器の材料になったことを知らないでいた。
葡萄酒の成分をいかにして潜水艦探査に使うのかとネットで調べてみた。
葡萄酒から「ロッシェル塩」という物質をとり、海中の音波振動を電気信号に変換するための材料として使うのだそうだ。
葡萄酒は気持ちよく飲むためものだ。
鍋や釜や弁当は食事のために使うものだ。
決して武器製造のためにあるものではない。
日本が再び戦禍に巻き込まれないことを祈る。
庭の蓮華升麻(レンゲショウマ)の花が咲きました。
茎の高さは約60センチ。 花の径は約3.5センチです。
蕾が開いてから3日ほどで散ってしまいます。
俺は定年退職してから17年目になった。
やっと、老人と認められたようで、初めて敬老祝賀会へ招待され、出席してきた。
昔は60歳からだったが、祝賀の予算がないからとして、今年は77歳以上が対象になっただそうだ。
そして、2年後からは78歳からという。
老人という年齢は市の財政によって決まるのかなあ (^。^)
しまいには80歳・90歳となるのではないかなあ。
市からのお祝いとして、2,000円の商品券をいただいた。
これに少し足して、女房と食事に出かけようかなあと思う。
それから、地区の自治会から、新老人記念に赤い座布団を頂いた。
座布団を藤製の腰かけに敷いてみたら、すわり心地がよい。
赤い座布団に腰かけて、元気で長生きしようか。
金さん銀さんの長生きする為の言葉を思い出した。
「 ころばないように 」
ころんで骨折すると寝込んでしまうからなあ。
ころばないように気をつけよう。
昨年、お役所から印鑑証明書や収入証明書などの自動証明書発行機の機能をコンビニに移し、役所の機械では発行しなくなるので、住基カードを作るようにと勧められた。
写真が必要というので、俺は薄くなってしまった髪の毛を盛り上げて髪型を整え、古着の中から写真写りのよさそうな服を選んで着て、デジカメ写真を撮り、お役所で住基カードを作ってもらった。
ところが、家の近くのコンビニが、また無くなってしまったのだ。
帯状のコンビニのシンボルが剥がされている。
街にはコンビニが年々増えて来たけれど、閉店してしまった店もあるのだ。
俺の家から半径3キロ以内で数えたら、わずか10年間ばかりで6店舗程も無くなっているのだ。
証明書発行が便利になるはずだったのに、
コンビニが突然無くなるのでは不自由になるなあ。
お役所の自動証明書発行機は使えなくなってしまった。
どうしよう