夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

戦中戦後のくらし展

2014年01月31日 | 日記

(招集)

栃木県総合文化センターへ出かけた。

2月3日まで「伝えたい 戦中戦後のくらし」の展示会が開かれている。

看板の写真は、赤紙で招集された父親が赤ちゃんとの別れを惜しんでいるところだろう。あの父親は戦地から生きて帰れたのだろうか。奥さんはどんな気持ちで見送ったのだろうかと想像してみる。

 

館内で資料を見た。兵士を1銭5厘の郵便で集めたという赤紙の召集令状。家族と別れて出征して行く様子や、無事帰れるように願いを込めて千人針へ糸を通す女性たち。

電力を武器製造に使うため、パーマをかけた人は町内通行お断りの看板。魚の配給場に集まる人々、配給券がなければ魚1匹も買えない時代だ。アイロンなどの金属製品は武器を造るために供出されたので、お湯を入れて使う陶製のアイロン。一見鉄に見えるが、紙で作ったヘルメット(何に使ったのだろう)。

焼け野原の宇都宮中心街の写真など。

そして戦後は、軍国主義色の記述を墨で消した教科書。靴磨き台を枕に眠る戦災孤児。

戦後の復興の様子、宇都宮オリオン通りのネオン。

貴重な写真や資料が数多く並んでいた。

 

介護施設でお世話になっている老人たちが介護師の押す車いすで会場に来ていた。戦争を体験してきた人たちだ。昭和5年生まれという老人は介護師に宇都宮空襲で焼け野原になった様子を話していた。

焼夷弾による宇都宮大空襲ではJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間の中心街が焼け野原になったのだ。630人の死者と、9,500戸の家が焼失し、48,000人もの罹災者が出たのだ。 

 

帰りの電車には高校生たちが乗っていた。70年前は兵役に駆りだされた年齢の青年たちだ。

向い側の席に腰掛けている男子高校生はイヤホンを両耳につけ、両手の指をこまめに動かしながらスマホでゲームをしている。

彼らの戦争感覚はどんなものなのだろうか?


終戦になっても親が迎えにこない  *ボクの見た戦中戦後(19)

2014年01月27日 | ボクの見た戦中戦後

  戦争は終わった。疎開していたクラスの何人かは親が迎えに来て、都会へ帰っていった。

しかし、ボクの親は迎えにこなかった。祖母が北海道へ出かけた。あとで知ったことだが、父母に秋田へ転居するようにと説得に行ったとのことである。

食糧の不足していた時代である。母は秋田に来る前に栄養失調のせいか気を失い、倒れたそうである。当時撮った父の写真はガラガラに痩せていたのを姉は見たという。

北海道では親子8人の食糧を確保するのは難しかったせいかも知れないが、父母は秋田へ転居することにしたらしい。

母は11月の初めに2歳の妹とまだ赤ちゃんの弟を連れ、貨物船で津軽海峡を渡ってきた。父が秋田へ来たのは翌年の1月であった。親子8人が揃ったのは半年ぶりであった。

 

ボクは父母がいない間、さびしく思ったことが2度あった。

一つは、近所におもちゃ売りが来たときである。子供たちが母親からおもちゃを買ってもらっている様子を見て羨ましくなった。メンコやコマなどではなかったかと思うが、祖母にねだったら叱られて買ってもらえなかった。それどころか次々と小言を言われ、ボクは悲しく寂しい思いをこらえていたのだ。そのときは親が恋しかった。

2度目はボクがパンツをはいていない事を、親戚の子に言いふらされたときである。

北海道にいたときは、寝床に入る前に、必ず下着や上着をきちんと畳んで枕元に置いていた。夜中に空襲警報のサイレンがなると飛び起きて、急いで身支度をして防空壕へ飛びこんでいたのだ。空襲のときは下着を着る暇もなく、半ズボンや上着だけで避難したことがあったのかも知れない。

疎開した日も飛び起きて急いで身支度をしたのだろうか、パンツをはかずに半ズボンをはいたままだったのだ。あの疎開のどさくさで、母親も下着のチェックが出来なかったのだろう。

ボクは母親が秋田へ来る3か月余り、パンツなしで洗濯をしない半ズボンで過ごしたのだ。ベルト代りに結んでいた布ひもの折り目には、びっしりと虱(シラミ)が並んでいた。

母が秋田へ到着する時刻を待っていたとき、突然、祖母に床屋へ行くように言われた。ぼうぼうに伸ばしたままだった頭を母に見せないようにしたのだろう。床屋から帰ったときには母は家に着いていた。姉は駅へ母を迎えに行くことができたが、ボクは間に合わなかった。

 

 親戚の家には祖母と叔母と2人の従姉妹の4人が住んでいた。叔父はこの年の4月に亡くなっていたのだ。

そして、一つの屋根の下でボクの家族8人と、叔母の家族4人が暮らすことになった。


俺独り夕食のアイデア

2014年01月26日 | 俺の女房は- - -

 

女房の東京土産 

江戸から伝わる、でんでん太鼓を背負った張り子の犬

今度の犬の干支が過ぎるまでの5年間 飾っておこう

 

女房は友達と東京へ出かけた。帰りは夜9時半ごろという。

出かけた後、俺は朝食の後片付けをした。

茶碗やお椀、小皿や鍋などを洗うと、水切りかごがいっぱいになった。

俺は夕食の準備をした。鍋に湯を沸かして具を入れるのだ。

 

沸騰した鍋に、シメジ、白菜、豆腐、味噌、ネギの順に具を入れた。

そこで、煮干しを入れ忘れたことに気がついた。それで、最後に粉末のダシをパラパラと振り掛けた。これで、味噌汁の出来上がりだ。

お椀によそろうとしたら量が多いのだ。二人分はあるのだ。全部食べないともったいない。

おかわりするのが面倒だから、お椀をやめて大どんぶりにした。こうすると、食事中に立ち上がらなくても済むのだ。

冷蔵庫を開けておかずを探した。小松菜のおひたし、なます、キムチ、ラッキョウの漬物を見つけた。これらを一つずつ小皿に分けたら、洗うのに手間がかかる。

名案が浮かんだ。一枚の大皿に並べればよいのだ。

洗うときは大皿と大どんぶりと茶碗とお箸2本だけで済むのだ。温水の節約になる。ガス代の節約にもなる。これがエコなのだ。

どうして女房は50年も主婦をやりながら、こんなことに気がつかなかったのだろ。

たまに俺が台所に立てばグッドアイデアが浮かぶのだ。

さて食事にしよう。俺は大ドンブリの味噌汁を口にした。まずい!!

原因を考えた。煮干しを忘れたので最後にダシの粉を振りかけたのがまずかったのだ。捨てるわけにはいかない。もったいないから、まずさをこらえて全部食べた。

 

明朝、女房は台所で 「ご飯が出来ていない」と叫んだ。

俺は女房の帰りが遅いので米を研いで電気釜にセットしたつもりだったが、予約のスイッチを押し忘れていたのだ。


砕氷船亜庭丸で疎開  *ボクの見た戦中戦後(18)

2014年01月19日 | ボクの見た戦中戦後

 

昭和20年7月末の夜、ボク(7歳)は父と姉(11歳)妹(3歳)の4人で青函連絡船に乗り、疎開しようとしていた。灯火管制で埠頭は真っ暗であった。乗船を待つ建物の中で船員が高い所に上がり、メガホンで何か叫んでいる影が闇のなかに見えた。子供の「オカアサン、オカアサン」と泣き叫ぶ声と「ココデスヨ、ココデスヨ」と母親の声。混雑のため母子は離ればなれになってしまったが、だれも手助け出来ない。ボクは父から離れたら、あの子のようになってしまうと、父の洋服にぎっしりとしがみついていた。父は妹を背負っていた。

実は退職後に調べて分かったことだが、連絡船12隻は米機の爆撃で全滅していたのだ。それで、稚内樺太間の連絡船、亜庭丸を臨時の連絡船とし、二日で青森函館間を往復していたのだ。亜庭丸は砕氷船の機能をもった貨客船であった。

8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、死者352人という被害がありながらも秘密にされ、国民には知らされていなかった。新聞では「被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込みなり」と報道されたにすぎない。(朝日新聞縮冊版参考)

ボクの父は当時、函館鉄道管理局に勤務していたから、国鉄管理下の連絡船の状況については細かに知る立場にあったはずだが、子供たちには知らせていなかった。他の乗客はこのことを全く知らずに港へきたのだろう。前日から出航を待ち続けた人もいたことだろう。

亜庭丸出航の時刻に合わせて、父は夜になってから子供たちを連れて港へ来たのだ。暗闇の中を歩いて船室へ入った。船室は畳を敷いてあるだけである。ここで大勢の人たちが雑魚寝をするのだ。ボクは疲れたのかすぐ眠ってしまったようだ。翌朝、青森へ着いた。デッキへ出ると、上の方の船室(1等船室・2等船室)から兵隊が出てきた。兵隊が降りてから、一般客が船を降りた。

そして、青森駅前で恐ろしい光景を目にした。駅前には半分焼けた家が一軒ぽつんとあるだけで、一面焼け野原なのだ。半焼した家の前で男が一人、ぼんやりと立っているだけで、他に人影は一人も見えなかった。

秋田行きの汽車に乗った。超満員である。線路沿いの田んぼの稲の中に、丸い穴がところどころにあった。大人たちは「焼夷弾だ。焼夷弾のあとだ」と騒ぎ出した。汽車の窓からは点々と続く焼夷弾の穴が見えた。

父は子供たちを秋田の親戚へあずけた。ボクのすぐ下の妹(5歳)は6月に疎開していたから、子供4人が親戚の家で暮らすことになり、北海道には父母と末の妹(2歳)と弟(5か月)の4人が住むことになった。たぶん、函館の街も空襲で全滅する恐れがあったから、子供4人だけでも助かればと思い、疎開させたのだろう。

父は再び亜庭丸で函館へ向かった。この船も数日後の8月10日、青森湾で米機の攻撃を受け、沈没した。今もなお沈んだままになっている。

 

《青函連絡船が攻撃され沈没していく様子》

(アメリカ軍が撮影した動画です 1945 Strafing Japanese Ships 

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 https://www.youtube.com/watch?v=yg2TxeoHNqk

 

 

《青森空襲》

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http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/2014-05-11.html

 

 


手榴弾を拾った  *ボクの見た戦中戦後(17)

2014年01月15日 | ボクの見た戦中戦後

昭和20年、ボクが国民学校(現在の小学校)2年生になったとき、担任の先生が手榴弾を見せてくれた。

手榴弾は野球ボールほどの大きさで縦横に筋が入っている黒い鉄の塊りに見えた。

敵が上陸してきた所があるので、子供たちも敵兵へ手榴弾を投げて戦っているということであった。

たぶん沖縄のことだろうが、2年生のボクたちには地理的なことや、戦場の様子などは知るよしもなかった。

学校へ行く途中に、軍隊が訓練をしている広場があった。

そこは蒸気機関車の石炭の燃えカスを捨てて平らにならされ、野球場ぐらいの広さがあった。

ボクたちは学校の帰りに、ここを通り抜けながら軍事訓練を見ていた。

ある朝、ボクたちは広場に手榴弾が落ちているのを見つけた。

先生が見せてくれた黒い鉄ではなく、白っぽい色をした陶器のようであった。

蓋を外すと中から白い粉が出てきた。

友達はそれを半分ほど地面にまき散らした。

その日の授業が終わるとボクは急いで帰り、手榴弾を拾ってズボンのポケットに入れた。

先生から教わったようにボクたちも手榴弾で戦わなければならないときが来ると感じていたためかも知れない。

手榴弾はずっしりと重かった。

重い手榴弾は歩くにつれ負担になってきた。

そして、一人の兵隊にばったり出会ったとき、ポケットの中を検査されたらどうしようかと不安になった。

兵隊が通り過ぎたあとにボクは手榴弾をそっとドブに捨てた。

 

先日このことを思い出して、あの手榴弾は陶製だから練習用の模擬手榴弾ではないかと考えた。

それで、手榴弾についてネットで調べ、記憶にあるものと似ている陶製の手榴弾をみつけた。

敗戦の色が濃くなり金属が手に入らなくなったとき、鉄の代わりに陶製の手榴弾を造ったとの記述を見つけた。

陶製の手榴弾を造ったが、鉄製に比べ殺傷力は弱かったそうである。当然のことではないか。

ボクが拾った手榴弾は本物か練習用なのかについて検討してみた。その結果、信管を外した本物であることが分かった。

信管が外されていなかったら、あの朝、ボクたちは吹き飛ばされていたであろう。

 

大日本帝国は家庭の鍋釜をも供出させて武器を造ってきた。

それでも金属が不足すると、「土」で手榴弾を造って戦争を続けたのか。

数知れぬ国民を犠牲にして。 

 

ボクが拾ったものに似ている陶製の手榴弾(右側)

 URL元

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E9%99%B6%E8%A3%BD%E6%89%8B%E6%A6%B4%E5%BC%BE


ギョメイギョジで鼻をすすった  *ボクの見た戦中戦後(16)

2014年01月11日 | ボクの見た戦中戦後

講堂のステージの奥には壁が二重になっているような構造の所があり、中央の引き戸を左右に開けると御真影と呼ばれていた天皇皇后両陛下の写真を飾る所があった。

ここへ両陛下の写真を飾る日は四大節のときである。

四大節とは四方節(1/1)、紀元節(2/11)、天長節(4/29)、明治節(11/3)であり特別の祝日であった。

この日に奉安殿から講堂へ御真影を移すのである。

校長先生がステージの演台前に立つと、別の先生が黒いお盆を目よりも高く上げながら静かに演台へ歩み寄って行く。

校長先生はお盆から巻物を受け取り、その結び紐をほどいた。そして巻物を厳かな声で読み上げていく。

教育勅語である。

「チンオモウニワガコウソコウソウクニヲ----」

生徒たちは最敬礼をして聞くことになっているのだ。1年生のボクには何を言われているか分からなかった。

最後の言葉は「ギョメイギョジ」である。

この言葉を聞くまでは身動きは禁じられていた。頭を下げ続けていると、鼻汁が垂れてくるが、巻物の朗読が終わるまでは音を立ててはいけないのだ。

だから鼻汁が垂れてきても微動だにせずに堪えなければならないのだ。

最後の「ギョメイギョジ」になると、ほっとして、あちこちから鼻をすする音が聞こえてくるのだ。

当時5年生の姉は教育勅語を暗証していたが、1年生のボクには出だしと最後の「ギョメイギョジ」しか覚えていない。

 

戦争は負けた。

空襲におびえることはなくなった。

防空頭巾と救急袋を肩から下げて登下校していたが、その必要もなくなった。

敗戦の翌年か、教育勅語の朗読は廃止された。

奉安殿が倒されて馬車でどこかへ運ばれて行く様子をボクは見ていた。

講堂の両陛下の写真を掲げていた所の扉を開けても、先生に叱られることはなかった。

子供が隠れる程の奥行きのこの神聖な場所は子供たちの格好のかくれんぼの場所に変わった。

「チンオモウニ」も遊びとなった。

「チン」で犬が後ろ脚で立ち前足を揃えて立つ真似をする。

「オモウ」は両腕を交差して胸に当てる。

「ワガコウソコウソウ」は人差し指で自分を指してから片手を上げて天井を指すのだ。

こんな遊びが流行った。

もし戦時中だったら、非国民として先生にビンタをされたであろう。また、親も特高に連れて行かれたであろう。

 


この人知りませんか?

2014年01月09日 | 俺の女房は- - -

似顔絵

街の絵描きに似顔絵を描いてもらった。

若い絵描きは、俺の眉・鼻・口などをちらっちらっと見てはスケッチブックに色鉛筆で描きこんでいく。

似顔絵が出来上がった。

これ、俺の顔かなあ? 別人のようだ。

俺はこんなに間の抜けた顏ではない。 (本当かな?)

若くもない。 白くなった髭を強調され、口周りがいやに白い。

似ているところはメガネと帽子だけだ。

女房はこれを指名手配犯の人相書きにしたら、絶対につかまらないというのだ。

 

最近、俺は物忘れがひどくなってきた。

じわりじわりと認知症の世界へ入っていくようだ。

認知症になり、街中を徘徊するようになったらどうしよう。

帰る家も忘れて、歩き回ることになったらどうしよう。

俺を探す手掛かりに、この似顔絵が使われると、見つかることはないだろう。

仮りに探されたって、その頃は女房の顔も何もかも忘れてしまっているだろうから、俺は何も心配することはないのだが-----

女房が俺を探すときに「この人知りませんか」と、わざと似顔絵を使うこともあろうかなあ?

あら怖ろしや!! 


女房にお年玉をあげたが- - - -

2014年01月06日 | 俺の女房は- - -

 

 女房はたい焼きを買ってきた。

そして、今夜は友達と演劇鑑賞に出かけるから、夕食にはカレーライスを用意しておいたと言う。

前々から演劇鑑賞へ行くことは分かっていたが、留守番のおやつに、たい焼き一つだけとは

それにカレーライスを用意したのだから、夕食の心配はないと言うのだ。

確かに、生きていく糧はあるのだが、これ一つでは残された俺としてはなんだかつまらないのだ。

もし、ここで俺が真正直に不服を言ったとしても、状況がよくなるはずはない。

しかたがないから、俺は女房を文句を言わずに送り出すことにした。

女房とて、せっかくの演劇に出かけるのに、玄関先で一悶着あったら気分が悪いだろうからと、そしてまた、その跳ね返りが二倍返しになることを予感し、利口な俺は精神をコントロールして、にこやかに送り出したのだ。

 

女房が出かけた後、俺は元旦の朝のことを思い出した。

年の初めに俺と女房は向かい合って新年のあいさつをした。

そして俺は女房に気前よくお年玉をあげた。

女房は礼を言って受け取った。

女房にあげたお年玉は、俺が女房から貰っていたお小遣いを少しずつ貯めたものなのだ。

金は天下の回りものというが、我が家では夫婦間で行ったり来たりしているだけなのだ。

ここまでは毎年のことであり、問題はない。

しかし、今年は俺の心の片隅に、悪い虫が入り込んできて「エビ鯛、エビ鯛」と騒いでいるのだ。

今回のエビは桜エビやクルマエビではない。

女房にあげたお年玉は伊勢海老なのだ。

つまり野口英世ではない。 福沢諭吉なのだ。

だから、エビ鯛という邪念が入る。

女房だって、俺がエビで鯛を釣るつもりだろうと、心のうちを見抜いているだろうから、あとでなにか伊勢海老に見合ったことが起きるであろうと俺は期待をかけるのだ。

留守番をしながら、俺はでかい鯛の夢を見ていた。

しばらくして、いやなことが頭をよぎる。

女房が出かけに買ってきた「たい焼き」のことだ。

たい焼きと言っても鯛は入っていない、あんこと小麦粉の偽装食品だ。

あれが「エビ鯛」の結果にはなりはしないかと。

多分女房は俺の邪心を見抜いて、たい焼きを置いて行ったのではないだろうか?

これでも鯛ですと。

こんなことであれば、伊勢海老などと気張らずに、桜エビ程度のお年玉でよかったのだ。

残念

お年玉を壱萬円ではなく、いつものように野口英世を三枚にしておけば、松の内を清らかな心で過ごせたものを。

まだまだ、エビ鯛エビ鯛と胸が騒ぐ。

 


日本一の天狗・光丸山

2014年01月05日 | 国内旅行

日本一の天狗のお寺・光丸山法輪寺へ初詣

 

《日本一天狗面 奉納明治一三年 塗替昭和六年・二八年》

高さ2.14m  幅1.5m  鼻の高さ1.3m  重さ1トン 

 

 

 

光丸山法輪寺山門

駐車場が右手にあるので参拝客は山門を通らず、右手のわき道から境内に入っていく。山門からお参りする人は少ない。)

2014-01-2