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夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

8月15日を過ぎてもボクは敗戦を知らなかった  *ボクの見た戦中戦後(34) 

2017年08月15日 | ボクの見た戦中戦後

 

【8月15日を過ぎてもボクは敗戦を知らなかった】

*ボクの見た戦中戦後(34)

 昭和20年8月15日、国民学校2年生のボクは函館から秋田の親戚の家に疎開していた。

6人きょうだいの内、末の2歳の妹と乳飲み子の弟は父母と函館の鉄道官舎に残り、ボクと6年生の姉と5歳と3歳の妹の4人は叔母の家に預けられていたのである。

 8月14日の深夜、秋田市(土崎)が空襲を受け、山の向こうが赤く見えた。

翌15日は空が青く晴れ渡った日だった。

お昼頃、ボクは近くの羽後岩谷駅へ遊びに出かけた。

すると、駅前で大人たちが直立し、頭を垂れていた。

駅舎から流れるラジオの放送を聞いているようだった。

ボクには何のことか分からないけれど、大人の間を走り抜けてはいけないように思い、しばらく、大人たちの真似をして、気をつけの姿勢で頭を下げていた。

しかし、誰が何を放送しているか分からず、窮屈な思いなので、そっとその場を離れた。

これが敗戦を告げる放送とは、その後もしばらく知らないでいた。

姉は誰からか重大放送があることを知り、友達のいる駅長さんの官舎に出かけ、ひざまずいて天皇陛下の放送を聞いていたと言う。

姉は天皇陛下のお言葉を理解できなかったのか、戦争に負けたことをボクには知らせてくれなかった。

疎開先の家でも、敗戦の話は一言もなかったので、ボクはまだ戦争を続けているものと思っていた。

そのため、学校へ行くときも包帯や赤チンキを入れた救急袋を肩にかけていた。

空襲で怪我をした時の応急手当をするためのものであった。

救急袋を函館の学校(亀田小学校)では生徒全員が持って登校していたが、疎開先の学校では誰も持っていなかった。

敗戦後も、肩にかけているバッグに先生が気づき、それは何かと尋ねられたので、「救急袋です」と応えた。

この時も先生は日本が戦争に負けたことを教えてくださらなかった。

戦争中、大人たちも先生も「日本は必ず勝つ」と、言っていたので、子どもたちへ敗戦をどう説明したらよいか戸惑ったことだろう。

 

 疎開していた家は茅葺の大きな農家だった。

函館の鉄道官舎の何倍もあった。

家の前にいたとき、ゴ~と爆音が聞こえた。

敵機だ! しかし、空を見上げたが何も見えなかった。

疎開先の家には防空壕がなかった。

ボクは急いで家の中に飛び込んだ。

すると、この音は以外にも家の奥から聞こえてきた。

覗いてみると、親戚の人が石臼で米の粉を挽いているところだった。

石臼を挽く音は飛行機の爆音に似ていた。

戦争が終わったことを知らないボクは、函館で空襲に遭ったことを思いだし、いつも敵機の空襲に備えて身構えていたのだった。

 

 終戦になっても、父母はなかなか迎えに来なかった。

11月になってから母は弟を背負い、妹の手をひいてボクが疎開している秋田の親戚の家を訪ねてきた。

連絡船は全滅していたから、津軽海峡を貨物船で渡ったとのことであった。

 

 後に母親に8月15日のことを尋ねると、その日の朝、ラジオで正午に重大放送があることが知らされた。

このとき、日本は戦争に負けたことを悟ったという。

もう空襲は無くなるから、ほっと安心したとのことであった。

正直な気持ちを他人に話せば非国民と言われ、罰を受けそうなので、黙っていたとのことだ。

 

 毎年、8月15日になると、これらのことが思い出される。


青函連絡船爆撃壊滅  *ボクの見た戦中戦後(33)

2017年07月15日 | ボクの見た戦中戦後

青 函 連 絡 船 爆 撃 壊 滅

 昭和20年7月14日と翌15日、ボクは函館で空襲を受けた。

カラスの群れのように飛んでくる敵機。

屋上すれすれに飛ぶ戦闘機の爆音、機銃掃射や爆弾の炸裂音に防空壕の中でおびえていた。

この空襲で青函連絡船は爆撃され壊滅した。

7月14日の空襲で青函連絡船は7隻が沈没、炎上1隻、中破1隻、座礁1隻、逃げて浅瀬に乗り上げた船1隻。11隻が被害を受けた。

翌15日は残る1隻が爆撃され沈没した。

全連絡船12隻が壊滅したのだ。

 

 ボクは退職後、当時の新聞記事を調べて驚いた。

連絡船沈没のことは新聞に1行も載っていない。

おそらく、当時の「秘密保護法」で報道できなかったのだろう。

連絡船が壊滅したのに、新聞には「被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込みなり」と記されているだけである。

 

昭和20年7月15日の新聞記事

「朝日新聞縮刷版 昭和20年下半期」より抜粋

 艦上三百B29 廿機 函館、室蘭、帯広、釧路へ

北部軍管区司令部発表(昭和二十年七月十四日十二時)

一、   本十四日早朝来約七時間に亘り敵B29及び機動部隊より発進せる艦上機は軍事施設海陸の交通機関および函館、室蘭、帯広、釧路各市等に対し爆弾、焼夷弾、機銃をもって波状攻撃を加へたり

二、   来襲敵機はB29約二十機、艦上機延約三百機なり

三、  被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込みなり

四、  ?在までに判明せる戦果は撃墜四機、撃波一機なり

============================

 新聞には「撃墜4機」とあるが、米海軍省資料によると、1機だけで2名が落下傘降下したとなっている。

 当時、大人から聞いたのであろうか、子供たちの間で、敵機が1機撃墜され、二人の米兵が落下傘で降下したと、うわさになっていた。

司令部発表よりも、子供たちのうわさの方が正しい。 

 ボクはアメリカの戦争記録のユーチューブを丹念に調べ、青函連絡船爆撃と思われるものを見つけた。

多数の船が次々と爆弾や機銃で攻撃される様子なので、青函連絡に間違いないと思う。

(アメリカのユーチューブより)

 

 

 


遺骨は白木の箱の紙切れ1枚  *ボクの見た戦中戦後(32)

2017年04月07日 | ボクの見た戦中戦後

4月8日は、お釈迦様の誕生を祝う花まつりの日である。

この日、ボクはいつも思い出す歌がある。

《 豚の遺骨はいつかえる、4月8日の朝かえる 》と、子供の頃、よく歌っていた歌である。

「山の淋しい湖に ひとり来たのも 悲しい心」と歌う湖畔の宿の替え歌である。

 

   ♪ きのう生れた豚の子が 蜂に刺されて名誉の戦死

      豚の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

      豚のかあさん悲しかろ

    ♪ きのう生れた蜂の子が 豚に踏まれて名誉の戦死

      蜂の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

      蜂のかあさん悲しかろ

    ♪ きのう生れた蛸の子が 弾に当たって名誉の戦死

      蛸の遺骨はいつかえる 骨がないからかえれない

      蛸のかあさん悲しかろ

 

高峰三枝子の湖畔の宿の替え歌であことを知ったのは、大人になってからであった。

戦地で散った父や夫や兄たちの遺骨を、迎えることがかなえられなかった遺族たち。

遺骨として親族にかえされたのは、白木の箱一つ。

中には名前を書いた紙きれ1枚。 骨はない。

戦時中は身内が戦死しても、涙を他人に見せることができなかった時代だ。

戦意を削ぐようなことがあれば、非国民と罵倒された。

ただの紙切れでなく、本当の遺骨は、お釈迦様の花まつりの日に、かえってほしいと願う人々の心を代弁して作られた歌だろう。

これは厭戦歌だ。 作者不詳。

子供たちは本意を分からず、面白おかしく歌っていた歌だが、大人たちは厭戦歌であることに気がついていただろう。

思想を取り調べる当局は気がついても、取り締まることはできなかったようだ。

 

硫黄島へ毎年のように遺骨収集に出かけているという知人に会った。

彼の父は硫黄島へ出征。 帰らぬ人となった。

遺骨として受け取ったのは、白木の箱の紙切れ1枚という。

 

 

 


後ろ手に縛り 人の首を斬る   *ボクの見た戦中戦後(31)

2016年12月08日 | ボクの見た戦中戦後

後ろ手に縛り、人の首を斬る     

*ボクの見た戦中戦後(31)

 

  高校生の頃、ボクは友人から人の首の斬り方を教わった。

戦争中に捕虜の首を斬った話である。人を地面に座らせ、後ろから刀を斜めに振り下ろす。

刀を振り下ろすときは、同時に左足を後ろに引かないと、自分の足先を切る恐れがあるという。

友人の知っている元兵隊に、左親指がない人がおり、人の首を斬ったときに、足を引かなかったため、自分の左足の親指を斬り落としてしまったそうである。

この元兵隊は硬い革製の軍靴ではなく、地下足袋を履いていたのではないだろうか。

友人は木刀を斜めに降り下ろしながら、左足を引く姿勢を示した。それは一度だけのことなので気にかけず忘れ去っていた。

 

 ボクは大学に進んだ。入学してから最初の3年半は学生寮で過ごし、最後の6か月はアパートに住んだ。

このアパートは四畳半一間の部屋で、炊事場と便所は共用だった。

大家さんの家は2階建ての瓦屋根で、床が一般の住宅よりも高く造られた立派な建物だった。そして、当時はまだ珍しかったテレビがあった。

近くに銭湯はなかった。そのため、アパートに住んでいる人たちは、大家さんのお風呂のお世話になった。

アパートの人たちは、大家さんの居間でお風呂に入る順番を待ちながら、テレビを見たり、雑談をしていた。

 

 あるとき、ボクともう一人の学生が風呂の順番を待っているとき、大家さんが別室から古い封筒を持ってきた。

そして、中から満州の軍隊にいたときのものだと言って、数枚の写真を出した。セピア色の古い写真だった。

そのうちの一枚には、後ろ手に縛られ、手拭いで目隠しをされた男が二人座らせられている。

その後ろに二人の兵隊が立ち、一人は軍刀を振り上げて、男の首を斬ろうとしている。

ボクたちは恐ろしい写真を見せられて驚き、声も出なかった。

そのとき、大家さんの20歳くらいの娘さんが写真をのぞき、刀を振り上げているのは自分の父親であることを知った。

娘さんは父親を責めるように「なぜ首を斬ったのか」と訊ねた。

「俺のいうことに反抗したからだ」と説明する父親を罵り、娘さんは部屋を出て行った。

大家さんは娘さんに責められることは予想していなかったのだろう。多分、ボクたちに軍隊に入っていたころの話をしたかったのだろう。

大家さんは娘さんや家族の人たちに、戦争中の体験を話してこなかったのではないだろうか。

娘さんは自分の父親が戦地で、人の首を斬ったことを知って、心に傷がついたことだろう。

大家さんは首斬りの写真を娘さんに見せたことを後悔したに違いない。大家さんはそれきり何も言わなかった。

 もし娘さんに責められなければ、大家さんは軍隊での様子をボクたちに話したことであったろう。首を斬る話もしたことだろう。

大家さんは写真を封筒にしまった。何も説明しなかった。ボクたちも黙り込んでいた。

 このときボクは高校生の時に友人から聞いた話を思い出した。

人の首を斬るときは左足を後ろに引きながら刀を降り下ろすことを。

大家さんは庭を歩くときに下駄を履いていた。左足の親指はあるはずだ。

 

 大家さんは、ボクたち学生やアパートの住人に優しくしてくれる人なので、人の首を刎ねた人とは想像もできなかった。

    戦争に駆り出された人々は、人の心を失うのか。

    鬼畜になるのか。

    戦争では無抵抗の一般人を躊躇なく殺害するようになるのか。

 


宇都宮空襲 *ボクの見た戦中戦後(30)

2016年07月12日 | ボクの見た戦中戦後

☆昭和20年7月12日深夜、宇都宮空襲。

暗闇の中の焼夷弾攻撃で街は火の海になった。

人々は逃げまどった。

死者620名、負傷者1,128名。

全焼住宅11,008戸、半焼住宅610戸。

罹災者51,556名、罹災世帯10,503世帯。

 

これほどの大被害なのに、軍の幹部は次のように発表した。

いわゆる大本営発表だ。

【東部軍管区司令部發表(昭和二十年七月十三日十一時)
一、 昨七月十二日二十三時頃より約三時間に亘りB29約百四十機は単機又は少數機の編隊を以て管区内に分散來襲し一部の中小都市に對し主として焼夷弾攻撃を加へたり 
二、 右攻撃に依り宇都宮市附近並に京浜地區の一部に火災發生せるも十三日未明までに概ね鎭火せり】

 

「一部に火災發生せるも十三日未明までに概ね鎭火せり」では被害の状況は全く分からず、鎮火という言葉で被害は少ないように受け取られる。

 

☆ボクは昭和32年の春、宇都宮市に移住した。

宇都宮駅に降りて驚いたことがあった。

当時の駅は、空襲の被害に遭い、急きょ建てたのであろうか、粗末な駅舎であった。

駅のトイレも非常に粗末な造りで、強烈な悪臭を放っていた。

駅前には焼けた跡地があり、天井が焼け落ちた大谷石の蔵がいくつか残っていた。

大谷石は火災に強いが、天井部分は木材が使われていたので、焼け落ちたのだろう。

焼け跡に残る大谷石の蔵は異様に感じられた。

戦前はきれいな水が流れ、舟祭りが行なわれていたという駅前の田川は、生活排水でどぶ川になり、川辺の道を歩くと悪臭が鼻をついた。

 

☆ボクは田川の近くに住んでいて、焼夷弾から逃れた人に、空襲の恐ろしさを聞いた。

火に囲まれ、逃げ場を失った人々は、田川に飛び込んだ。

田川は火災から逃れようとした人々で、いっぱいになった。

近所のお爺さんは着物に火が付いたので田川に飛び込んだが、背中に大やけどした。

市街地の中心部であるJRの宇都宮駅から東武宇都宮駅の間は、一晩の空襲で焼け野が原になったということだった。

 

☆県庁の後ろには八幡山公園がある。

小高い山の公園を散策していたとき、防空壕の跡を見つけた。

4・5人の友達で中に入ってみると、かなり長いトンネルのようだった。

そして、中には人が住んでいるのに驚いた。

あとで聞いた事であるが、敗戦の色が濃くなった昭和20年6月から、八幡山に地下壕を掘って、軍の司令部を置く計画だったという。

旧陸軍では、本土決戦に備えて、東京から離れた宇都宮の山の中に、地下司令部を建設していたのだ。

どれだけ長いトンネルと地下室が造られたのであろうか。

資料によれば、全長721mの地下壕という。

この地下壕の中から、兵隊たちに敵兵の上陸を阻止するよう命令するつもりだったのか。

対抗できる武器があったのだろうか。

民間人には、ボクの母親が訓練を受けていたように、竹やりでの突撃を命令するつもりだったのか。

ボクの母親は函館の海岸から上陸してくる敵兵に、竹やりで突撃する訓練を受けていたのだった。

突撃を命令する軍の幹部は、最も安全な地下壕の中にいるのだ。

想像すれば、恐ろしくなる。

 

☆今は、宇都宮の街を歩いても、どこにも戦争の傷跡は見られない。

そして、宇都宮市が空襲に遭ったことさえ、忘れられてしまったようだ。

 

   宇都宮空襲展のお知らせ 

会期:7月16日~24日(2016年) 

会場:宇都宮市オリオンACぷらざ

参考;とちぎ炎の記憶 宇都宮市の空襲

http://tsensai.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2-%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%81%8E%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2/

 


3月10日を忘れないで  東京大空襲  *ボクの見た戦中戦後(29)

2015年03月10日 | ボクの見た戦中戦後

70年前の3月10日の夜間、B29の焼夷弾攻撃で東京の下町一帯は火に囲まれた。

死者・行方不明者の数は10万を超えるといわれている。

 

退職後、ボクは亀戸の寺社巡りをした。

その時、寺の脇の墓地で焼け焦げて割れたり、ひびの入ったた多くの墓石を見つけた。

伊藤左千夫の墓石も焼け焦げてひび割れしていた。

墓石が熱で割れるほどの火炎地獄だったのだ。

近くの食堂へ入ったとき、女主人から当時のむごい様子を伺った。

あの空襲で親きょうだい、親戚の人たちの多くを亡くしたという。

木造家屋にB29から集束焼夷弾の雨を降らせる攻撃。

八方火に囲まれ、人々は逃げ場を失い焼け死んでいったのだ。

ネットにはこの記録が出ている。

どうか、目をふさがずに見ていただきたい。

  焼け焦げた二つの遺体は母子か。母親の背中は焦げていない。

    子供を背負って火の中を必死で逃げ回ったのだろう。

 

   焼死体の山

 

動画①東京大空襲は無差別大量虐殺

https://www.youtube.com/watch?v=cT1HEQP_Dh0

 

動画②指で固い地面を掘り赤ちゃんを入れて自分の身体で覆い、火炎から守ろうとした母親。
https://www.youtube.com/watch?v=_XNBAnXthVE

 

画像の参考URL:http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2%EF%BC%93%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

 

 


昭和16年12月8日  *ボクの見た戦中戦後(28)

2014年12月08日 | ボクの見た戦中戦後

 昭和16年12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。

客観的にみて、なぜ、勝ち目のない戦争に突入したのか?

 

昭和20年7月14・15日、ボクの住んでいた函館は米機の空爆を受けた。

そして、青函連絡船12隻が犠牲になった。

真珠湾の報復か?

連絡船全滅は秘密にされ、新聞でも報道されなかった。

この時の記録と思われるアメリカの動画を見つけた。

      1945  STRAFING  JAPANESE SHIPS

 


新聞紙のような教科書  *ボクの見た戦中戦後(27)

2014年08月17日 | ボクの見た戦中戦後

 昭和21年4月、ボクは国民学校初等科3年生になった。

2年生の時は男女が同じクラスで勉強していたが、3年生以上は男女別のクラスなのだ。男子は松組で女子は竹組である。

先生が新聞紙のような大きさの紙を配り、これが教科書だと説明した。当時の新聞紙は紙質が悪く、現在の半分の大きさではなかったかと思う。

先生の指導で新聞のような紙を二つに折り、さらに二つに折り、折り曲げた所をナイフで切り、さらに二つに折って、折り目を糸と針で縫うと本が出来上がった。

ページを開くと縦書きに文字が並んでいた。これが国語の教科書なのだ。小さな文字で書かれていた。

ボクが姉から聞いていた国語の本の中身とは、まったく違っていた。兵隊のことや神話は書かれていなかった。

日本は戦争に負けて連合国軍の占領下に置かれた。

そして、軍国主義的な教科書の部分は墨塗りされた。

次年度の教科書は暫定的に作られたものであったろうと思う。

4年生になった時には、しっかりと製本された教科書を買うことができた。(当時の教科書は無償配布でなかった)

ボクは今でも3年生の国語の本の内容の一部を思い出すことができる。

「皿のおさかな」という詩や、「良寛さん」が子供たちと遊びながら、たけのこご飯とは、たけのこにご飯粒をつけたものだと言うが、子供たちはご飯の中にたけのこを入れたものがたけのこご飯だと言い合う物語だ。先生は子どもたちの言うことが正しいと説明したが、ボクは良寛さんの言うことが正しいと考えていたので、先生の説明に不満だった。そのため、印象深く覚えているのかも知れない。

「養老の滝」の物語もあった。親孝行息子が滝の水を汲みに行ったら、お酒になっていたというお話だった。先生は親孝行しているから、神様が水をお酒にしてくれたのだと説明してくれた。しかし、ボクはそんなことはない、息子は山の中でこっそりドブロクを作っていたのだと考えていた。

当時、ボクの村の農家ではドブロク造りが普通に行われていたし、ボクも酒米を蒸すお手伝いをしていた。ドブロクを造る過程をそばで見ていたから、山の中でも簡単にお酒が造れると考えたのだ。滝の水が酒になるはずはないと思い、神様が滝の水を酒に変えた話を信じなかった。

「かかし」が雀に米を食べられないようにと見張っている文があった。そこにはかかしのさし絵が描かれていた。強風が吹いてもかかしは「へのへのもへ」の顔をしかめて、風に向かって頑張って立っているというような物語であった。ボクたちは「へのへのもへじ」と平仮名で書きながら、人の顔を描く遊びをしていた。

どの教材も軍人や戦争のことではなく、平和なものになった。

算数の教科書も国語の教科書のように作ったのかも知れないが、思い出すことが出来ない。算数の時間に三角定規を使った。当時の定規は白っぽい金属で作られたものだった。戦争中に作った飛行機の材料の残りと聞いていた。2枚組の定規のある辺を重ねると長さが一致するはずであるが、クラスのどの子の定規も一致しなかったようだ。粗悪品である。

また、そろばんの勉強をした。記憶に残る教科書は新聞紙のような国語の本だけである。

紙が不足していた時代である。子供用の本を手に入れることは出来なかった。学校にも図書がなかった。活字に飢えていたのか、ボクは家でも国語の本を繰り返し読んでいたように思う。


墨塗り教科書  *ボクの見た戦中戦後(26)

2014年05月17日 | ボクの見た戦中戦後

国民学校の2年生になったとき、先生が1年生で使った教科書を学校へ寄付するようにと言われた。 ボクは3歳年下の妹にあげたいので学校へ寄付したくありませんと先生に告げた。 先生は寄付しない人には2年生の教科書を渡すことが出来ないとお話ししたので、やむを得ず教科書を提出した。
戦争で物資が不足し、教科書を印刷することが困難になっていたのだ。 思い起こしてみると、あのころはノートさえ満足に買うことができなかったから、ボクは新聞の余白に文字の練習をしていた。

北海道の学校から秋田の学校へ疎開したとき、教科書を持っていない子がいることに気が付いた。 学校へ配布された教科書が少なかったのか、当時は有償だった教科書を買うことが出来ない子どもたちがいたのかも知れない。 そのため、二人並びの机で国語の本を二人で手に持って読んでいた。 

戦争に敗れて、マッカーサーとか進駐軍の命令という言葉を耳にするようになってからのことである。 先生の指示で国語や音楽などの教科書へ墨を塗り始めた。 途中で教頭先生が墨塗りの様子を見に来られて、受け持ちの先生へ墨塗りを追加するように指示していったようだった。 墨塗り箇所は全国統一ではなく学校へ任せられていたのだろうか。 

墨塗りをした部分は軍国主義的な文章や民衆主義に反する箇所であったろうが、2年生のボクたちには理解することができるはずはなかった。 読み物が満足に手に入らなかった時代であったせいか、ボクは墨塗りで残った活字を家で繰り返し読んでいたようである。 そして今、墨塗りされなかった一部を思い出すことができた。 それは天女の羽衣の物語である。 ボクはその物語の中でたいそう気にいった文章を口ずさんでいたから、今でも思い出せるのだろう。 三保の松原で漁師が羽衣を拾ったとき、天女が現れて舞を見せるから羽衣を返してくれと頼むが、漁師は羽衣を返すと舞わずに天へ帰るだろうと疑い、返そうとしない。 すると天女は「天人はウソというものを知りません」という。 漁師はこれを聞き、恥じて謝るのだ。 ボクは羽衣の歌とともに天人の言葉を暗唱していた。 このとき、ボクは天人のようにウソをつかないようにしようと心に決めたように思う。 

 ♪白い浜辺の 松原に 波が寄せたり 返したり

 あまの羽衣 ひらひらと 天女の舞の美しさ

 いつかかすみに つつまれて 空にほんのり 富士の山♪

こんなによく記憶しているのは、墨が塗られて教材が少なくなったので、残ったところを先生が熱を込めて教えてくださったためか、読み物がなかったから教科書を繰り返し読んでいたせいかも知れない。 ボクは羽衣の歌を歌いながら天女が舞う姿を想像していたのだ。 

敗戦で学校の様子が変わった。 朝礼での宮城遥拝はなくなった。 奉安殿に最敬礼することもなくなり、教育勅語の奉読もなくなった。 軍国主義の教育から民主主義の教育に変わり、墨塗りの教科書で学校の先生たちは、子供たちの教育に戸惑ったことであろう。

敗戦後30年余り経った1976年、ボクは羽衣伝説の三保の松原へ旅をした。

 

【墨塗り教科書参考URL】

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A2%A8%E3%81%AC%E3%82%8A%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8&hl=ja&rlz=1T4TSJH_jaJP555JP555&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=wk51U57HEIKIuASjxoKIAQ&ved=0CAYQ_AUoAQ&biw=1336&bih=556

 

 

 


突撃訓練  *ボクの見た戦中戦後(25)

2014年04月06日 | ボクの見た戦中戦後

国民学校1年生の2学期と思う。 校門に二人の兵隊が歩哨に立つようになった。 先生は登下校時に兵隊さんに敬礼をするようにと言われた。 ボク達は登下校時に奉安殿へ最敬礼していたが、このほかに敬礼が増えた。 校門を通るときは何度か敬礼していたが、記憶が定かでなく、歩哨は毎日は立っていなかったような気がする。 他の任務に出かけていたのか、或いはボク達が校門から帰らずに垣根をすり抜けて近道をする時もあったためか、毎回敬礼をした記憶は薄れてしまった。 しかし、廊下の窓から見ていた突撃訓練のことはしっかりと記憶している。

 

校庭の端に杭が2本対になったものが立てられた。 それに荒縄を巻いて人とみなされたものが二つ作られた。 兵隊は銃の先へ帯剣を取り付けて銃剣とし、突撃の訓練をしていた。

銃を構えて「ヤ~~~~~」と叫びながら駆けて行き 「ヤッ!!」と気合を入れながら人型を突き刺すのだ。 突き刺した剣を抜いて右斜め前に一歩進み上官の前に立つと、上官は掌で兵隊の額を突き飛ばすのだ。 突撃の仕方が下手だと叱っているように見えた。

次々に兵隊が「ヤ~~~~~ヤッ!!」と人型を突いていくが、全員が額を突き飛ばされていた。

 この訓練を5・6年生男子も受けるようになった。   銃剣の代わりに木製の模擬銃を使っていた。 生徒が木銃を構えながら「ヤ~~~~~ヤッ!!」と人型を突き刺した後に、兵隊にならって斜め前に一歩進んで先生の前に立つと、先生も上官がしていたように生徒の額を突き飛ばしていた。

 

 あの突撃訓練は何の役に立ったのだろうか?  上陸してくる敵兵に向かって婦人たちは竹槍の訓練をしていたが、竹槍も兵隊の銃剣も機関銃から撃ちこまれてくる弾丸の雨には勝てるはずはない。

 後年ボクは元兵隊から銃剣で人を刺した話を聞かされた。 捕虜を立ち木に縛り付け、銃剣を持って駆けて行き、突き刺すのだと。 不快だったが黙って聞いていた。 初年兵だった彼は上官から度胸を付けると言われ、命令のまま捕虜を突き刺したと話していた。

そしてまた、ネットに流れている元兵隊の体験談に、縛り上げた捕虜を突き刺すように命じられた初年兵の話があった。 やむを得ず上官の命令に従ったが、その後、彼は食事がのどを通らなくなったという記録を読んで胸がつまった。

あの突撃訓練は武器を持たない人々に対しては効果があったろうが、無抵抗の人々を殺して手柄を立てたと言えるのだろうか。

 また、元兵隊から銃剣で戦った話を聞いたことがある。 ただしこれは稀な戦いらしい。 敵が青龍刀を振り回して攻めてきたので、銃に弾丸を込める余裕がなく、銃剣で応戦したという。 青龍刀で横腹を切られたが、とっさに相手を銃剣で突き刺して難を逃れたというのだ。 幸いサラシの腹巻を巻いていたので深くは切られなかったそうである。 ただ、この戦国時代のような刀剣による戦いは十五年戦争の初期の頃でも珍しいことであったようだ。

 太平洋戦争で日本軍が追い詰められてくると、太平洋に浮かぶアッツ島、サイパン島など南の島々では、本国からの武器食糧の補給もなく戦わされた。 本国の軍の幹部にくぎ付け部隊として見捨てられたのだ。 弾薬と食料の尽きた日本兵たちは突撃の命令の下、銃剣だけで敵の機関銃の弾の嵐の中に飛び込んで行った。 これはあきらかに自殺行為である。 軍の幹部はこの集団自決を「玉砕」と言って美化したのだ。 生き延びることを教えず、死ねと教育してきたのだ。 兵隊の命を粗末にし、彼らの家族をも犠牲にし、生きて帰れれば伴侶を得られたであろう若い命を踏みにじったのだ。

捕虜を出したのでは軍事情報が敵に流れるであろうから、捕虜になって生き延びることを恥と教育し「玉砕」と称して兵を殺したのではないだろうか。 個人の命より軍の秘密保護を優先したのだろう。

 

あの突撃訓練は「玉砕」と称する自決の訓練だったのか?

兵隊の無残な死を玉砕と美化され、その家族は人前で涙を見せることができず苦しんだことであろう。 ボクは突撃して行った兵隊やその家族の人々、恋人たちのことなどをいろいろ想像してみる。

 

リンク)アッツ島の記録

大本営は アッツ島の兵を見捨て 偽りの発表をした

 玉砕 隠された真実

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/attu_gyokusai/attu_gyokusai.htm

 


ビラはデマでなかった     *ボクの見た戦中戦後(24)

2014年03月18日 | ボクの見た戦中戦後

アメリカ軍が投下したビラ

  

元URL: http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%83%93%E3%83%A9&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

 

  ボクが国民学校の1年生から2年生の7月末まで住んでいた家は、五稜郭駅近くにある現在の函館市立病院の駐車場にあった。

当時は市立病院の建物や駐車場とその周辺の土地は国鉄の敷地であった。この中に鉄道官舎が100戸ほど建っていたように思う。上空から見ると大きな工場のように見えるそうである。そのため、敵機の攻撃目標になる恐れがあるので、目立たないようにと屋根を真っ黒なコールタールで塗る作業をしていた。

 空襲警報のサイレンは短く3・4回だけしか鳴らないようになった。サイレンを鳴らす人も避難しなければならなくなったためだろうと思う。「ウ~ッ ・ ウ~ッ ・ ウ~ッ」と鳴り終わらないうちに、敵機は群れになって襲ってきた。官舎の屋根のすぐ上を恐ろしい轟音をたてて飛んで行った。防空壕へ逃げ遅れた隣のおばさんが、玄関から敵の飛行兵の顔が見えたと話していた。顔が見えるほどの低空飛行である。あのコールタールの屋根を敵機はどう見たのだろうか?

 空襲警報解除のサイレンが長く鳴ったあとに、ビラが撒かれた話が伝わってきた。「また来るから用心しろ」というようなことが書かれてあったが、デマだろうと母が聞いてきた。ボクは近所の子供たちにビラの内容を伝えた。次の日、予告どおりに空襲があった。ビラの空襲予告はデマでなかったのだ。

 昭和20年7月28日の深夜、青森の街が焼夷弾攻撃を受けた。この時も事前に爆撃すると予告ビラが撒かれたと、当時青森県に住んでいた知人から聞いたことがある。ビラの内容を知った多くの人々は街から離れ、山林へ逃げて仮小屋を建てて避難したり、他の村などへ疎開したそうである。ところが、役人はビラはデマだから街へ帰るようにと呼びかけ、もし帰らなかった場合は食料や物資の配給をしないと告げたというのだ。

 そのためやむを得ず自宅へ帰った人たちは焼夷弾攻撃で被災し、死傷者が多数でたのだと聞いた。知人の家族は弘前へ疎開していたので無事であったが、家屋は全焼したそうである。ビラはデマでなかったのだ。

死傷者1,767名。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。罹災者70,166名。(Wikipedia参考)

 青森空襲のすぐ後に、ボクは秋田へ疎開するために函館から臨時の連絡船へ乗り、青森港で一面の焼け野原を見たのだ。

 ボクはビラについて理解できないことがある。ビラを拾ったら読まずに警察へ届けることとか、読んだり他人へ話したりすると罰せられることが、当時の新聞を調べて分かった。このことからすれば、母がボクにビラの話をしたり、またボクが友達へ知らせたことは罪になるのだ。非国民ということになるのだ。

 ビラを拾ったら読まずに警察へ届けなければ憲兵や警察が逮捕するというが、中味を読まなければビラか、ただの紙屑か分からないではないか。

 こんな無茶なことを、戦争を推し進めていた大日本帝国の指導者たちがやっていたのだ。そして、多数の国民を犠牲にしたのだ。

 

リンク ⇓ 《ボクの見た戦中戦後》

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f

 


人間の食事用に豚の餌を配給  *ボクの見た戦中戦後(23)

2014年03月02日 | ボクの見た戦中戦後

 

あの頃、ボクは空腹を我慢できなくて、母へ食べ物をねだっていた。母は決まって「縄でもかじっていなさい」という返事をしていた。駅の売店(キオスク)にニッキというものが売られていた。木の小枝を鉛筆ぐらいの太さに割ったようなもので、その皮を歯でしごくと良い香りと味がした。ニッキの木をかじったりしゃぶったりして空腹を紛らわしていたのだ。

ボクは母に呼ばれて台所へ行った。そこには姉と母が深刻な顔つきをして座っていた。ボクも正座した。母は米櫃を見せた。米櫃を傾けると米は箱の片隅によった。米は、ほんの僅かしかなかった。「お米は6月までこれしかない」と母が言った。ボクは暦が理解できず、6月という日まであと何日あるか分からなかったが、ご飯を食べられなくなることは分かった。いつも、食べ物をねだっていたボクに母は困っていたのだろう。あとで姉から聞いたことであるが、姉は弁当を持たずに学校へ行っていたし、また、父も弁当なしで勤務に出かけていたそうである。

ボクが1年生の時は弁当の時間に先生は食事をせずにピアノを弾いていたが、2年生になってからはピアノの記憶がない。弁当の記憶もない。2年生になってからは弁当の時間がなかったように思う。当時、兵隊が校舎を使うようになったので、教室が不足し、午前と午後の2部授業が行われ、低学年の生徒には弁当の時間がなくなったような気がする。弁当を持っていかなかった姉はどんな気持ちで昼の時間を過ごしたのであろうか。ボクはお昼に家でジャガイモを食べたことを覚えている。母がホタテ貝の貝がらをお皿にして、ジャガイモを二つ食べさせたくれたことがあった。父や姉が食べなくても空腹を我慢できないボクにお昼を作ってくれていたのだろう。

米が食べられなくなった。代用食としてカボチャを食べた。これも配給券を持っていかなければ買うことができないのだ。カボチャを食べるようになってから、手を握ってから開くと、手の平が黄色く変わった。顔が黄色くなっている人もいた。「何が何でもカボチャを作れ」というポスターを見たような気がする。ボクの家でも軒下にカボチャを植えていた。鉄道官舎の人たちが空き地を分け合ったのであろうか、官舎の各家には畑があった。ボクの家の畑にジャガイモを掘るに行くと芋の茎が萎れていた。引き抜くと土の中の芋が盗まれたあとだった。畑を割り当てられた家はまだよかったが、街の中心地の人たちはどうであったろうか。ボクのクラスの子が学校の畑のカボチャを盗んで家へ持ち帰っていったこともあったのだから、食糧には極めて困窮していたことだろう。

ボクの家の畑に人参があった。子供たちがまだ学校へ上がっていないボクの妹に人参を採らせて、生で食べている所を母が見つけた。ひもじいと子供たちの心も貧しくなってしまうのだ。

父に頼まれてボクはタンポポを摘んで花びらを乾燥させ、タバコを作った。当時のほとんどの成人男子は喫煙者でありタバコの配給があったが、これでは不足だったからであろう。空襲や警戒警報の合間に、食べられる草を探して歩いた。皆がひもじい思いをしていたのだ。

まともなご飯がなくても、よもぎや大根の葉や大豆などの入ったお粥が食べられるのは良い方だった。大豆の油を搾った残りかすが食料として配給された。 大豆かすである。直径20~30センチ、厚さ10~15センチ程だったろうか、灰色で石臼のような形をしたものだった。岩のように硬いものだ。それを鉈で削って食べた。人間の食べ物ではない。本来は粉末にして豚や牛に食べさせる餌なのだ。ボクたちは豚の餌を食べて生き延びてきたのだ。

当時の新聞を調べると、代用食の紹介が載っていた。よもぎ、つゆくさ、いぬたで、いのこづち、いたどりなどの雑草やどんぐりの粉などである。それに、カエル、カタツムリ、トカゲ、イモリなどだ。コオロギやバッタは乾燥して粉末にしてから食べるようにと紹介している。戦中戦後ボクたちは、食べ物がなく、ひもじかったから家畜の餌や野鳥の餌までを食べて生きようとしてきたのだ。

飽食の時代「ひもじい」は死後になった。しかし、いつか戦争が起きれば庶民はボクたちが食べてきたものを食べざるを得なくなるであろう。戦中戦後の食べ物を体験しようと「すいとん」を試食するイベントがある。すいとんは贅沢な食事なのだ。現代風に味付けし、ただ一度だけ、すいとんを食べただけで、戦中戦後の食事が理解できようか。ボクたちが食べてきた野草の入ったお粥や豚の餌を一口でも味わっていただきたいものだ。特に戦争を知らない国会議員の先生方には一食分を残さずに食べてから、戦争を論じていただきたいと思う。

今、食べ物がなくてひもじい思いをしていた頃を記録しているうちに、思い出したくない出来事を思い出してしまった。記録にとどめたくない思いもあるが、これが戦争なのだということを今の若者たちに伝えたい。戦争が起これば子殺しも起きることを! 

子殺しがあったことが子供たちの噂になった。多分、父や兄たちが戦地へ召集されたであろう母子家庭で子殺しがあったというのだ。食料が底をついたとき、待っているのは飢え死にである。母と年長の姉は空腹をうったえている弟妹たちが飢えで苦しんで死ぬ前に毒殺したというのだ。多分残された二人も後を追うであろうが、すぐ他人に知れて警察に逮捕されたということであった。幼い子供たちは敵兵に殺されたのではない。他人に殺されたのでもない。もっとも頼りにしていた母や姉に殺されたのだ。思い出すのもつらくなる事件だ。その毒はネコイラズであったが、ボクはネコヤナギと聞き違えていた。ネコヤナギの芽には毒があると思い込んでしまった。だから土手のネコヤナギの蕾が芽吹くころ、この事件を思い出してつらかったが、いつしかこのむごい記憶を封印してしまったのだ。戦争のことを話したがらない人は大勢いる。彼らも思い出すと苦しくなるので記憶が呼び起されないように封印してしまっているのであろうか。

ボクは栄養不足でやせ細り顔色も悪かったのであろう。秋田へ疎開したとき、同学年の子から「青い顔して幽霊みたいだ」と言われた。幽霊と言われボクは気持ちが落ち込んでしまった。

 

時は変わって戦争を知らない若者たちが、ケーキなどの食べ物を顔に投げつけるような遊びがテレビで放映された。ボクは無性に腹が立った。そして悲しくなった。

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追記(2017-02-17) 

昭和20年 現在の北海道函館市立亀田小学校での記録です。

 

【ボクの見た戦中戦後=砕氷船亜庭丸で疎開】

私のブログです

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/e/2fedd2ad25dd9dfecbab9ba5b5e6b985

 


秘密保護・新聞は伏字○○○○*ボクの見た戦中戦後(22)

2014年02月21日 | ボクの見た戦中戦後

ボクが1年生の時の国語の教科書の最初のページには「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と片仮名で書いてあった。当時の1年生の教科書は片仮名である。平仮名は1年生の終わり頃に教わった。2年生の教科書は平仮名である。

1年生の時、先生が「ひらがなを覚えると新聞が読めるようになるよ」と教えてくれたことが思い出される。もう70年程前のことなのに印象深かったのだろうか。

当時は紙不足のため、教科書以外の読み物といえば新聞程度だった。2年生になったボクは新聞に○○と伏字になった記事を目にすることがあった。姉は当時の新聞は「南方○○方面で大規模な戦闘あり」というような記事であったという。ボクは「○○山で ---- 」という記事を見つけた。父は新聞を読みながら○○山とは函館山のことだと母に話しているのを、ボクは側で聞いていた。ボクは新聞が○○と伏字になっているのはスパイ対策だと子供たちの話から知っていたから、不思議には思わなかった。

時の政府は戦争に関することを秘密にし、国民へ正しい情報を伝えなかった。青函連絡船12隻が米機の爆撃で全滅しても全く報道しなかったのだ。また、青森の街が焼夷弾で焼け野原になり、1,767名もの死傷者が出たのに、新聞は「ところどころで火災発生」と報道するだけだったのだ。戦争の状況は秘密にされ、国民は戦争が悲惨な状態になっていることに目隠しされていたのだ。

昭和19年、沖縄の学童疎開船がアメリカの潜水艦に攻撃され、1,484人もの命が奪わられても報道しなかったばかりか、生き残りの子供たちへ誰にも話さないようにと、かん口令を敷いたとのことである。大本営は日本軍の敗北を報道せず、嘘か本当か敵軍に大打撃を与えたようなことを新聞に書かせていたのだ。あたかも日本軍が勝っているように見せかけていたのだ。

当時の秘密保護法で、新聞報道は制限され、○○○○と伏字が使われていたのだ。これでは真相を知ることができない。

これを皮肉った歌が子供たちの間で流行った。作者は大人であろう。検閲にかからないように、巧みに作詞された歌である。この歌をボクは面白がって、何度も歌っていた。

 

 ♪おれはマルマルマル等兵 マルマル部隊の人気者 

  今じゃマルマル方面で マルマル任務にご奉公

 ♪おれが生まれたその時は マルマル太った赤ん坊

  でんでん太鼓もまんマルで 産湯のたらいもマルかった

 

※ネットで当時の新聞を検索したら、○○の記事が見つかったので紹介する。金属のなかった戦時中に秋田県の工場では木製の自転車を作ったが、その生産台数は軍事秘密とされ、年産○○万台の予定と報道された。

http://blog.livedoor.jp/nobo_wata/archives/15657073.html

 

 


灯火管制と照明弾   *ボクの見た戦中戦後(21)

2014年02月11日 | ボクの見た戦中戦後

灯火管制電球

 

URL http://www003.upp.so-net.ne.jp/kataritsugu/photolibrary/bulb.htm

 

夜、光が家の外に漏れると敵機に見つかるから、板張りの雨戸を閉めて光が外に漏れないようにしていた。周りを光が拡散しないように青く塗り、下の方だけが透明ガラスになっている電球を使っていた。電灯の笠は乳白色をした大きなお皿のような形をしていた。この笠に、さらに風呂敷のような布を掛けて、光が外に漏れないようにするのだ。明るいところは電灯の真下だけである。

 この、わずかな明かりの下に家族が集まっていたとき、外から「明かり見えるぞー」と声が聞こえた。夜になると高学年の子供たちが、光が外に漏れていないか近所を巡視するのだ。光が漏れていると、「明かり見えるぞー」と叫ぶのだ。明かりが外に漏れないように充分気を付けているのだが、わずかに光が漏れていたのだろう。

 ときどき、夜中に偵察機が飛んできたが、エンジン音が遠いときは避難せずに待機していた。敵機が飛んでいても爆撃の恐れがないときは防空壕に避難せず、家の中にいたのだ。

 夜中に空襲だと母に起こされた。枕元に畳んである洋服を素早く身につけて防空壕に飛び込んだ。防空壕に飛び込んだのはボクだけのようだった。防空壕の中は真っ暗で一寸先も見えない。耳元で蚊の羽音が聞こえる。しばらく我慢していたが敵機のエンジン音は遠く、しかも1機か2機のようなので、家に戻った。電灯の下に父母が座っていた。と、間もなく、雨戸の隙間から鋭い光が差し込んできた。「照明弾だ」と父が言った。母は照明弾で火事になるかも知れないと心配していた。

 いつ空襲があるか分からないのでラジオは点けたままにしていた。空襲や警戒警報をラジオでいち早く知ることができた。緊急放送はベルを鳴らしてから行なわれるのだ。ラジオからジーンとベルの音が聞こえた。「照明弾落下」とラジオが知らせる。敵機は照明弾を落下傘で落とし、周囲を明るく照らして偵察するのだ。 

 偵察機は照明弾の強烈な光で街や港の連絡船の様子などを撮影して行くのだろう。夜間に飛来する偵察機を高射砲で撃つために、敵機を照らす照明灯の話は函館で聞いたことはなかった。だから敵機はゆうゆうと飛行していたのだ。あの連絡船が全滅した前夜も、照明弾で連絡船の位置を偵察していたのではなかろうか。

 夜間は偵察飛行をし、状況を調べてから、空襲していたのだろう。

 

UHOの正体は照明弾・2014年1月23日沖縄(動画)

(ボクの見た照明弾は照明時間が短かった)

 http://www.j-cast.com/tv/2014/01/29195370.html

 

 


疎開・言葉が通じない  *ボクの見た戦中戦後(20)

2014年02月05日 | ボクの見た戦中戦後

ボクは函館空襲の後、父に連れられて秋田の親戚の家に預けられた。

疎開先の秋田の家では少し前まで馬を飼っていたが、叔父が亡くなったので手放していた。馬小屋は家の中にあり、その前は広い土間になっていて農作業ができるようになっていた。外には馬小屋から出る肥やしを積み上げておく所があった。土地の人たちはコンヅゲと呼んでいたのだが疎開したばかりなので、その呼び方を知らなかった。コンヅゲとは肥塚の訛りではないかと思う。北海道の町で育ったボクは初めて見たものであり、汚いものが積み上げられているから、ボクはここをゴミ捨て場と思っていたのだ。

疎開したばかりのころ、祖母が割れた茶碗を“サド”へ捨ててくるようにと、ボクに言いつけた。“サド”というのは近くの川のことだったがボクは知らなかった。このとき、ボクはこのゴミ捨て場を“サド”と呼ぶものと思ったのだ。

ボクは割れた茶碗を馬小屋の前の汚い藁などがある所へ捨てた。それを見た祖母は 「なぜサドに捨ててこないのか!!」と怒鳴った。ボクはかけらをゴミ捨て場に捨ててきたのに、なぜ叱られるのか理解できない。次々に聞いたこともない言葉で怒鳴るのだ。意味がわからないから、ボクは茶碗のかけらをコンヅゲから拾わなかった。そのため、さらに叱られるのだ。

なぜ叱られるのか分からず、怒鳴られながら泣いているボクを叔母がなだめに来た。「百姓は裸足で田んぼに入るから、瀬戸物のかけらをコンヅゲに捨ててはだめだ」と説明するのだが、ボクは田植えや稲刈りの様子を見たことがないばかりか、北海道では“田んぼ”そのものを見たことがなかった。まして、ゴミ捨て場と思っていたコンヅゲに積み上げられたものが、肥料であることを理解することは出来なかったのだ。

秋田の家では、モノサシを“サシ”と言っていた。囲炉裏の側を通り過ぎようとしたとき、祖母が「サシくべろ」と言った。ボクはモノサシを持ってきて囲炉裏の前に立った。なぜモノサシを火にくべなければならないのだろうと立ちつくした。「サシくべろったら、サシくべろ!!」と怒鳴られても、ボクはモノサシを火にくべるのはおかしいと思って、火を見つめながら黙って立っていた。囲炉裏の薪が燃えて中ほどが赤いおきになり、燃え残りの薪が炉の灰に横たわっている。

祖母はボクを怒鳴りながら薪を中央へ押した。「サシくべろ」とは薪を囲炉裏の中央へ差し込むようにすることなのだということをこのとき知った。

このように、言葉の意味が分からず意思が通じないため、ボクは大人の言うことを素直に聞かない子だと思われるようになってしまった。

2年生のボクは薪を運んだり、馬小屋の前の土間を掃く手伝いなどをしていた。箒は雑木の小枝をまとめて作ったものである。その形は竹箒の柄を根元から切り落とした枝先の部分だけの形のようなものである。北海道の鉄道官舎では畳一枚に満たないコンクリートの玄関をシュロ箒で掃くお手伝いをしていたが、秋田では勝手が違った。その箒で掃くときは腰をかがめて箒を斜めにし、右から左へと弧を描くようにして使うのだ。

この土地の子供たちは、このような仕事を普通に行なっていただろうが、ボクは急激な環境の変化の中で、お手伝いをすることが多くなったから、休むことができないように感じていた。近所のお婆さんがボクに声をかけた。「ヤスメラレナイカ?」と尋ねたのである。ボクは家での仕事がたくさんあるから 「休むことができない」という意味で、相手の語呂にあわせて、「ヤスメラレナイ」と答えた。するとお婆さんは「良かった、良かった」と言うのだ。どこが良いのだろうとボクは怪訝に思った。

「ヤスメラレナイカ」というのは、いじめられていないかという意味なのだ。

疎開者いじめがあった。ボクもいじめられていた。お婆さんはボクがいじめられているのではないかと心配で「いじめられていないか?」を土地の言葉で「ヤスメラレナイカ?」と声をかけたのだ。ボクの答えた「ヤスメラレナイ」は休むことができないという意味ではなく、土地の言葉で「いじめられていません」ということだったのだ。ボクはいじめられているのに、お婆さんは、いじめられていないから良かったと受け止めていたのだ。

方言が分からないので、相手と意思が通じない。まるで言語の異なる外国で暮らすような様子だったろう。

言葉だけではなく、数字の読み方も違っていた。ボクが数字を読むと、発音がおかしいとからかうのだ。ボクの数字の読み方がおかしいからと“正しい発音”を教えてくれる子がいた。真似をしてみろというのだが、ボクは拒んだ。

その子は得意になって“正しい発音”で数字を読んだ。

100(ヘーグ)、101(ヘグイヅ)、102(ヘグヌィ)、103(ヘグサン)、 104(ヘグスー)、 105(ヘグゴ)、 106(ヘグログ)、 107(ヘグスヅ)、 108(ヘグハヅ)、 109(ヘグク)、 110(ヘグヅー)

 

リンク⇓ 《ボクの見た戦中戦後》

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f